4. 結局、そんな理由なんだろうとは思うけれど 〜後編〜
間近に見た薔薇園は、離れた場所からは想像もつかないほど、ふわっとした甘い香りに包まれていた。よく見ると、それぞれの薔薇の側には品種の名前の書かれたプレートが置かれていて、香りの強い品種には、それとわかるアイコンも添えられていた。
本物の薔薇の香りというものが初めてだったから、片っ端からそのアイコンのついた薔薇を見つけると、顔を寄せて嗅いでみる。香水や化粧品なんかでよく嗅ぐ、ザ・バラ、みたいな香りもあれば、もう薔薇じゃないみたいな、何とも表現し難い芳香の品種もあった。
「ねえねえ、千秋さん、この花すっごいいい匂いがする!」
思わず興奮気味にそう言ったけれど、ふと見れば、千秋さんの姿はどこにも見えなかった。あちこち匂いに釣られて移動しているうちに、はぐれてしまったらしい。
くすくす笑う声が聞こえて、そちらを振り向くと、入り口で見た綺麗なお姉さんが面白そうに笑っていた。
「薔薇、好きなの?」
真っ直ぐな長い黒髪に、ぱりっとしたスーツ。ぱっちりとした目元は意志が強そうだけれど、口紅は淡い薔薇色で、艶やかに光っているように見えた。それこそ薔薇の花束が似合いそうな大人の女性って感じの。
「あ、いやそういうわけでもないんですけど。こんなに香るの初めて見たから」
「そう。こっちのもちょっと変わった香りがするわよ」
そう言ってお姉さんが指し示したのは黄色い薔薇だった。鼻を近づけてみると、なんというか甘いお菓子みたいな香りがする。
「すごい、本物の植物なのに、こんな香りがするんですね」
「そうなの。面白いわよね。興味があるならもうちょっと詳しくお話ししましょうか?」
にっこり笑うその笑顔は薔薇の背景がぴったりで、思わず見惚れてしまう。ぼうっとしていると、不意に後ろから腕を引かれた。
「あいにくと、先約ありだ」
地獄の底から響いてくるみたいな声の主は、見なくてもわかる。その表情がどんなものかも。見上げた顔は、でも思ったよりは怖くなかった。不機嫌なのは予想通りだったけど。
「何の用だ」
「あら、私もプライベートですよ、鴨川先生」
にっこり笑った笑顔があんまり綺麗で一瞬見惚れてしまったけれど、その赤い唇から発せられた言葉を脳内で
「お知り合いで?」
「あなたが鴨川先生の秘密のお相手ね。あんまり想像通りだから、びっくりしちゃったわ」
「……はいぃぃ⁉︎」
「
極寒の声にも野宮と呼ばれた女性は怯む様子もない。もしかしてこれはあれだろうか。いわゆる一つの修羅場という奴か、千秋さんたら不潔……! と身を固くした僕の脳天に拳が降ってくる。
「馬鹿か。こいつは俺の担当編集者だ」
「そうなの、最近鴨川先生がやたらと家に早く帰るし、火遊びが減ったって聞いてたから、彼女でもできたんだろうなあとは思ってたけど、こんなに可愛い子だったなんて」
「あ、やっぱり鴨川先生ですよね⁉︎」
不意に投げかけられた黄色い声に振り向くと、やっぱりこちらも入り口付近で会った女の子の二人組が何だかやたらきらきらした目でこちらを見つめていた。
「その子、もうハヤセのイメージぴったりだったから、もしやと思ったんですけど、やっぱりーーー!」
きゃいきゃい言ってる女の子たちは可愛いけど、言われている内容に何だかものすごく嫌な予感がした。
「……千秋さん、ハヤセって?」
「鴨川先生の最新作の、主人公がそれはそれは大切にしている人外の子。左耳に、銀のイヤーカフつけてて。あ、性別は
千秋さんより先に、野宮さんが答えてくれる。見上げると、千秋さんはどことなく気まずげな顔をしている。つまりなんだ、この人はまた僕を書いたのか。しかも、リアルで特定できるくらいの描写で。
「……ち、あ、き、さん……⁉︎」
襟首を掴んで詰め寄った僕に、千秋さんはしばらく目を泳がせていたけれど、固唾を飲んで見守っていたらしい女の子たちと野宮さんに目を向けると、ふっと表情を緩めて笑った。髭のない顔はそれはそれは男前で、どんな相手だって絆されずにはいられないような優しい顔で。
それから、千秋さんはごく自然な感じで僕の背中に腕を回して引き寄せると、こめかみのあたりに顔を寄せた。どんなに鈍い僕でもわかるくらい、あからさまにそれは、見せつける感じのやつで。
女の子たちの歓声と、野宮さんのため息が聞こえた気がした。
「ま、そういうことなんで。ただ、俺はともかくこの子は一般人だから、一応内緒にしておいてもらえる?」
サインくらいならいくらでもするし、というと、女の子たちはこくこくと頷いて、鞄からすかさずハードカバーを取り出してくる——ガチのファンか!
「実はこの公園が重要な舞台になってるのよね、その作品」
野宮さんがこっそり耳打ちしてくれる。聖地巡礼かよ!
盛大に心の中でツッコんだ僕には構わず、千秋さんは慣れた様子で借りたペンでサインをすると、普段は見たこともないような爽やかな——営業スマイルで女の子たちに手を振る。それからすぐに僕の手を引いてその場を後にした。担当編集さんも追っては来ないようだった。
早朝開園のお客さんの目的は薔薇園のみらしく、そこを抜けると人っ子ひとり見当たらなくなった。千秋さんは林の中のベンチを見つけると、そこに腰掛けて僕を手招きする。渋々隣に座った僕に、千秋さんが視線を向けてくる。
「何か聞きたいことは?」
「……いっぱいありますけど、とりあえずいいんですか、あんなの」
少なくとも千秋さんは一応著名人だ。その、色々面倒なことになったりしないんだろうか。僕と、そういう関係だとか思われて。
「あんなのってのは、こういうことか?」
そう言って、ごく自然に僕の顎をすくい上げると、唇を重ねてくる。何のためらいもなく、いつも二人きりの時にそうしてくるように。いくら
そうして、しばらく千秋さんの好きなように、なすがままにされて、息が上がってしまった僕に、でも、思いの外、真摯な眼差しが向けられる。何だか抗議する気勢も削がれて、黙ったまま千秋さんの言葉を待っていると、一つため息をついてから、僕の頬に大きな手が触れた。
「死神は、お前を守るために必要なのは、愛だと言った」
「……え?」
「そんな不確かなものが、お前を守っているんだと。俺のそばにいる間、お前が平穏に過ごせるのはそのためだ。だから、お前を抱いた。
それはまるで千秋さんの本に出てくるみたいな台詞で、真顔で言われるとめちゃくちゃ恥ずかしかったけれど、千秋さんの表情が揺らがなかったから、茶化すこともできなかった。
そういえば、千秋さんと初めてそういう行為をして以来、僕は命の危険どころか、怪我ひとつ負っていなかった。相変わらず、くじ引きは当選率ゼロのままだけれど、常に生傷が絶えなかったこの半年くらいが嘘みたいに。ただの偶然として片付けるには、あまりにも符号しすぎる。
でも、だからこそ、やっぱり一つだけ、訊いておかなきゃいけない。
「ねえ、千秋さん。本当にそんなことで僕を選んでいいの? 確かに、僕には千秋さんが必要だけど、千秋さんにはそうじゃない。僕は千秋さんが好きだけど、でも——」
「相変わらず馬鹿だな、凪」
低い声で僕の言葉を遮って、千秋さんは僕をきつく抱きしめた。多分ここが屋外じゃなかったら、あっという間に押し倒されていただろうとわかるくらいの強さで。
「順序が逆だ。お前を守りたいのは、俺がお前を愛してるからだ。失いたくないから、守るんだよ。たとえ、お前が俺を選ばないと言っても、もう逃してやれない」
覚悟しておけよ、と言ったその眼差しは、背筋が震えるほど強いものだった。
だからもう、やっぱり僕はこの人から逃げられないし、そして本音を言えば、もうどうしようもないことに、ずっとこの人のそばにいたいと思ってしまった。
千秋さんはそんな僕の内心を容易に見透かして、ひどく甘くて、同時に獲物を捕らえた獣みたいな顔をした。
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