3. 結局、そんな理由なんだろうとは思うけれど 〜前編〜
珍しく朝早くからメッセージが届いて、眠い目を擦りながら画面を見た僕の目に飛び込んできたのは、シンプルな一言だった。
『三十分後に迎えにいくから支度しとけ』
何だっけ、空から降ってきた女の子を助けに行くやつ? とか相変わらずすごくどうでもいいことを考えたけど、あいにく独り言を呟いてもツッコむ人はネットの海の向こう側だ。三十分後に来るって言ってるけど。
本日は土曜日。大学は休みだし、天気は快晴だ。昨夜はバイト先の先輩方と本当にいつ以来かっていう飲み会に参加したから——まだ
とりあえず起き上がって、目を覚ますためにシャワーを浴びる。髪を拭きながらTシャツとジーンズに着替えて、窓を開けたら思いのほか寒かったのでパーカーを羽織る。そのままぼんやり外を眺めていると、ちょっと遅れてメッセージが届いた。
『着いたぞ』
了解、とスタンプで返信して、ボディバッグを背負って外に出ると、もう見慣れたメタリックグレーの車が停まっていた。助手席に乗り込んで、見慣れたはずの横顔に何だか違和感を感じて首を傾げている間に車は走り出してしまう。
「おはようございます。んー……千秋さん、なんか若返った?」
「第一声がそれとか年長者への敬意のかけらもないな、お前は」
「え、敬意も感謝も売るほどありますけど。むしろ敬愛?」
「なら誠意を見せろ、少しは」
低いながらも含み笑う声は、いつもより少し温度が高い気がして機嫌が良さそうだった。それでようやく気づいた。髪が短くなっていて、髭がない。そうして見ると、普通に男前で、年相応より若く見えた。
「えらくさっぱりしましたね。なんか心境の変化でも?」
「取材対応だ」
ああ、なるほどですね、と僕はしたり顔で頷く。こないだ千秋さんの本が何かの賞をもらったらしい。そこそこ有名なやつで、もともとそれなりに売れていた本がさらに売れるようになったと聞いた。千秋さんの家の食卓が豪華になるなら僕としても歓迎だけど、受賞した本が例のあのホラーの一作だというから世の中とはわからない。
というかなんかもう全力で恥ずかしい気がするんだけど、本人は平然としているから口にするのはやめて、とりあえず目を閉じる。車の中は暖かくて、寝起きだった僕はそのまままた、すぐに眠りに引き込まれてしまった。
ふと目を覚ますと、隣で笑う気配が伝わってきた。多分あれやこれや、僕の内心なんて気づかれてはいるんだろう。だから僕はこの人が嫌いなんだ、と口の中で呟いたら、不意に顔が近づいてきていて、シートに押し付けられるようにして遠慮なく思い切り
いつの間にか車は広い駐車場の端っこに停まっていて、人目もない。眼鏡を取った髭もないさっぱりとした端正な顔が、目を閉じて僕にキスしている状況は、やっぱり慣れないし異常事態だという気がしてならなかった。それでも、それが嫌じゃないのが一番異常事態な気はしていたけれど。
「ちあ……き、さん……っ、ちょっと、何してんの!」
いつまで経っても止む気配のない執拗なそれと、ついでに何やら手が不穏な動きをし始めたのに気づいて慌ててその顔を押しのける。いつになくイケメンな顔は悪びれもせずに、少し濡れた口元を拭っていた。どきりと心臓がおかしな音を立てて、いやだからそうじゃない、と僕は頭を抱えてしまう。
そんな僕に、千秋さんは少しだけ複雑な顔をして、けれど柔らかく僕の頭を撫でると車を降りた。戸惑いはお互い様で、だから戸惑うこと自体はおかしなことではないと思うけれど、もしかしたら少し傷つけたのかもしれない。そう思ったら、ぎゅっとまた心臓がおかしな音を立てた。
頭を振ってドアを開けて出てきた僕に、千秋さんはもういつも通りの顔で、背を向けて歩き出してしまう。
いつかも来たことのある植物公園。まだ朝は早いのに何だかやたらと人出が多いのに首を傾げると、千秋さんは入り口の看板を指さした。どうやら早朝開園なるものが開催されているらしい。
「
「ああ、秋薔薇がちょうど満開だそうだ。薔薇は花が開く朝の方が強く香るらしいからな」
「あらまあロマンチック」
からかうように言った僕に、千秋さんはただ肩を竦めて、いつかと同じようにチケットを差し出してくる。前回来た時は、そういえばだいぶ色んな意味でぼろぼろだったなあと思い出して少しぼうっとしていると、千秋さんが
「寝ぼけてんのか?」
相変わらずな台詞に抗議の声を上げようとした時、何やらきゃーとか可愛らしくざわめく声が聞こえた。後ろを振り向くと、割と可愛い感じの女の子の二人連れと、それとは別にキリッとしたお姉さんがこちらを見ていた。でも目が合いそうになった直前で、スッと逸らされる。
はて、と首を傾げている間に、彼女たちは園内へと入ってしまった。千秋さんに向き直った後に、何だか視線を感じた気がしたけれど、もう一度振り向いても目は合わなかったので、やっぱり気のせいかもしれない。
首を傾げつつ、びっくりするくらい雲一つなく晴れ渡った空の下を、千秋さんと並んで歩く。前回はあまり余裕がなかったけれど、こうして見ると二十三区外とはいえ、東京都下とは思えないほどに広々とした林というか森が広がっている。
人の流れにのって前と同じように園内に入って右手の道を進んでいくと、前回来た時には何も咲いていなかった薔薇園がまるで別の場所のように色鮮やかな花と人で埋め尽くされていた。
「ほら、行くぞ」
あまりの変わりように足を止めて見入ってしまった僕の背中を千秋さんが押す。その時また、何やら黄色い歓声が聞こえた気がして、今度は前方に目を向けると、何だか不審な動きをして目を逸らす女の子たちの集団が見えた。
「千秋さん、何か僕ら、見られてます?」
「あ? 自意識過剰じゃね?」
言いながらも見上げたその横顔が何だかニヤニヤしていて、何かを知っているなと直感する。察しは悪いが勘はいいとよく言われている僕である。
「……なんか企んでます?」
「まさか」
千秋さんはやっぱり何だか楽しそうに笑ったまま、ほら行くぞと、僕の肩を叩いて歩き出す。首を傾げながらもその後を追った。
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