5. まあ、結局惚れた弱みというやつで(千秋視点)

 ねえねえ千秋さん、と袖を引っ張りながらかけられた声に、緩みそうになる顔をなんとか整えて、火のついていない煙草を咥えながら振り向くと、想定の二倍くらい目を輝かせた顔があった。テレビの画面を指差しながら、やたらとにこにこしている。


 自分でも重症だと思うが、そのまま抱きすくめそうになって、煙草の端を噛み締める。まだ執筆中しごとちゅうだし、なんとしてもこの原稿だけは本日中に仕上げなければならなかった。


 片手で顔を覆いながら、可能な限り渋面を作って、襟首を掴むと猫の子よろしく引きずって、隣の和室に放り込んで襖を閉める。鬼だの無精髭だの子供じみた抗議の声が聞こえてきたが、すぐに静かになった。

 しばらくしてから、そっと襖を開けて覗いてみれば、二つに折り畳んだ座布団を枕にすやすや眠っている。その平和な光景にもう一度頭を抱えて、ついでに押し入れから薄い毛布を出してかけておいてやる。


 穏やかに眠る顔に呆れると同時に、一度だけ見た凄惨な場面シーンをまたふと思い出す。たった一度見ただけでも強烈に網膜に焼きつくあんな光景を、凪は何度目にしてきたのだろうか。普通の人間なら、正気を失ってもおかしくはないほどのそれを。


 こうして無防備にすぐに眠ってしまうのは、だから、それまでの日々がそれほどに緊張を強いられるものであったせいもあるのだろう。つまりは、彼と共にいれば安心だと、そう本能的に凪が感じていることの証左で。

 緩んだ自分の顔を自覚して、一つため息をついてから、机に戻る。原稿用紙に向き直って鉛筆を握ると、意識の隅にさっき見たばかりの寝顔が浮かんた。そのままの情景を写し取りながら、また凪が怒るかもしれないな、とまた口元が緩んでいた。



「ずいぶん早かったですね」

 含みありげな顔でそう言う担当編集——野宮ののみやに、なるべく無表情で視線を返す。凪が彼の家に頻繁に居付くようになってからは、基本的に原稿のやり取りは外でしていた。だが、先日の一件以来、野宮は遠慮なくやってくるようになってしまった。知られて困ることでもないし、何かのついでであれば寄ってもらう方が楽なのは確かだったから、特に断る理由もなく、結局こうなっているのだが。

「連載だから、早めにためておいていただけるのはこちらとしても大変ありがたいですけど」

「用件が済んだのなら早く帰れ」

 煙草をくゆらせながら不機嫌にそう言った彼に、それでも野宮はにっこりと、彼から見ても十分に魅力的な笑みを浮かべる。

「あら冷たいですね。以前はお付き合いさせていただいた仲ですのに」

「原稿上がりにまた付き合ってくれるって言うのか?」

「私はいつでも喜んで」

 しなだれかかるように近づいてきた柔らかい体と赤い唇に、冗談も大概にしろ、と言いかけて、ふと違和感を覚えてその顔をまじまじと見れば、きらきらと楽しげに輝いている瞳は彼を見てはいなかった。


 同じ方向に視線を向けると、わずかに開いた襖の隙間からこちらを窺う気配がする。ため息をつきながら消しゴムを投げつけると、いってえと、大袈裟な抗議の声が上がった。どうやら正確に眉間にヒットしたらしい。

「何すんだよ、千秋さん!」

「覗き見みたいなことしてるからだろ」

「邪魔したら悪いかなと思って、空気を読んでただけですよ!」

「馬鹿かお前は。野宮は既婚者だぞ」

 そうでなくとも、と続けようとした彼の言葉を遮って、えっ、そうなの、と凪が大きな声を上げる。隣で堪えきれなくなったように、楽しげな笑い声が上がって、千秋はますます顔を顰めた。

 そんな彼には構わず、野宮は艶やかな笑みを浮かべて凪をじっと見つめる。 

「あら凪君、こんばんは。やっぱり来てたのね」

「お前、気づいてて……」

「靴もあったし、先生が煙草を吸うのに窓を開けるなんて気遣いするの、あの子がいる時だけですよ」


 ご自身ではお気づきではなかったかもしれませんけど、と片目を瞑る様子はそれはそれで魅力的で、ごくりと凪が息を呑むのが聞こえた。それに気づいた野宮がさらに赤い唇を艶やかに煌めかせて微笑んだものだから、その顔がほわんとマタタビを与えられた猫みたいに緩む。


 何となく苛立った自分を自覚して、咥えていた煙草を灰皿にねじ込んで、もう一本に火をつけようとしたところで、その手を掴まれた。

「千秋さん、今日本数オーバーですよ」

「うるせえ、もう一本くらい吸わせろ」

「鴨川先生、ほらほら落ち着いて」

 元凶のくせに、子供をあやすように言う野宮にさらに苛立ちが募ったが、本人はどこ吹く風だ。

「今夜はずいぶん冷えるし、お鍋なんていいんじゃないですか?」

「鍋! いいですね!」

 急に顔を輝かせた凪に、野宮もにこにこと頷いている。

「……お前も食っていくつもりか?」

「まさか。そんなお邪魔をして、馬に蹴られるどころか、虎に噛みつかれたら怖いですもの」

 ひらひらと手を振って、野宮はもう一度凪ににっこり微笑むと、原稿を手に去っていった。振り向くと、まだ凪はほわんとした顔で彼女が消えた方を追っている。


 ああいうのがいいのか、と喉元まで出かかって、流石に情けないと口をつぐんで立ち上がる。ようやく凪の視線がこちらに向いて、それから妙に嬉しそうに笑った。

「……何だ?」

「鍋の材料買いに行くんですよね。僕も行きます!」

 どうしてそんなに嬉しそうなのかはわからなかったが、にこにこしている凪を前に不機嫌さを引きずるのも大人げなかったから、その頭をわしゃわしゃと撫でて、コートを羽織ると二人で並んで外に出た。


 十二月。日が沈むと急激に気温が下がってくる。スーパーまではそれほど距離がないから歩いて向かう。

「なんか不思議な感じですね」

「何がだ?」

「こんなふうに平和に、千秋さんと歩いて鍋の材料買いに行ったりしてるのが」

 凪の顔を見下ろせば、前を向いたまま、悲しさだとか辛さだとか、そんなものはひとかけらもなく、ただ穏やかに幸せそうに笑っていて、心臓がおかしな音を立てた。


 誰もいない道の真ん中で、かがんで顔を寄せる。ほんの少しだけ深く触れて、すぐ離れる。


「ち……あ、きさん! 天下の往来で何してんの!?」

「誰も見てねえよ」

「そういう問題じゃなくて!」

「騒ぐともう一回するぞ」


 にやりと笑ってそう告げると、ぐぐっと黙る。そんな顔も——可愛く見えて、結局もう一度顔を寄せた千秋に、凪は呆れたようにため息をついて——一応周囲を確認してから——目を閉じたのだった。

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