8. かけがえのない贈り物

 行きたいところがある、と千秋さんが言い出したのは、クリスマスイブの午後のことだった。


 先日訪れたクリスマスマーケットは混雑がすごすぎて、ゆっくり見ることも食べることもままならならず、結果、いくつかお土産品を眺めて資料用の写真を撮っただけで撤収してしまった。

 どこへ行っても混雑しているし、男二人で雰囲気のあるレストランだのホテルだのにいくことにも難色を示した僕に千秋さんが妥協する形で、クリスマスイブは結局千秋さんの家で過ごすことになったのだ。


 そんなわけで、朝から夕飯の仕込みをしていた千秋さんが一段落してから行きたいと言い出したのは、僕にとっては結構意外な場所だった。しかも、今から訪れたらどう考えても日が沈んでしまう。

「明日にしません?」

「明日はあいにくの天気らしい」

「なら、別に年が明けてからでも」

 そう言った僕に、でも千秋さんは珍しく譲ってはくれなかった。この人はわりと強引なところはあるけれど、それでも理由なく無茶を言う人でもない。だから、それなりの理由があるんだろうけど。



 そうして、千秋さんと一緒にやってきたのは、僕の両親が眠る市営墓地だった。

 二人の名前が刻まれた平たい墓石を水と雑巾で磨いて、花を供える。両手を合わせると、隣で千秋さんも同じように手を合わせて静かに目を閉じていた。


 しばらくそうして手を合わせてから、特に何を話すでもなく、手桶と柄杓を持って、墓地を後にする。日はすっかり暮れてしまって街灯がついた街中は、それでもひどく寒々としているように感じられた。実際に、気温もだいぶ下がっていたんだろう。

 改めて思えば、納骨以来、墓参りに来たのはそういえばこれが初めてだった。父さんが亡くなってから、あんまりにも多くのことが起きすぎていたから。それにしたって——。


「ほんと、僕って親不孝……」


 呟くと、くしゃくしゃと頭を撫でられた。どうしてもその顔を見上げられなくて、俯いたままの僕を千秋さんが引き寄せる。コートの中に抱き込むようにして。ぺらぺらの僕のダッフルコートとは違って、ふかふかの裏地がついた千秋さんのモッズコートの中は、ひどく暖かかった。はたから見ればだいぶ恥ずかしい格好だけど、こんな日に墓参りに来る人はいなくて完全に人気ひとけもなかったから、まあ気にしないことにした。


 何より今は、その温もりから抜け出せる気もしなかったので。


 ぼんやりしている僕の耳に、千秋さんの低く抑えたような声が届いた。

「悪かったな」

「……何がです?」

「どうしても今日来たかったんだが、俺の我儘だった」

 申し訳なさそうに、でもびっくりするくらい優しく笑った顔に、涙腺が唐突に決壊しそうになる。


 身近な誰かを亡くす、ということはそれほどに心を抉ることなのだと、僕自身もいまさらのように知った。だから、それは千秋さんのせいだけじゃなかった。母さんの時は、むしろ父さんの気落ちがひどくて僕が落ち込んでいる暇もなかったし。


「でも、どうして今日来たかったんですか?」

 何とか声を整えてそう尋ねた僕に、千秋さんは少しだけ迷うような顔をして、それから僕の右手を取った。

「お前にこれを渡す前に、挨拶しておこうと思ってな」

 するりとごく自然な感じで右手の薬指に滑り込んできたのは、少し太めの銀色の指輪だった。どちらかといえばごつくて、輝きを抑えて仕上げられたそれは、渋い感じだったけど、でもどう見てもアレにしか見えない。

「ち、千秋さん……⁉︎」

「本当は左手の方がいいんだが、まだ学生だしな」


 言いながら、僕の手のひらを返して、そこにぽとりともう一つの銀の輪を落とす。そうして自分は左手を差し出してきた。


「俺はこっち」

 大きな手を広げて、なんかもう当たり前みたいに。ていうか、もうこんなんでいいんだろうか。もうちょっとムードのある場所で、とか考えた僕の表情に気づいたのか、千秋さんが少しだけ呆れたような顔になる。

「ムードのある場所を提案したのに、ことごとく蹴ったのはお前だろうが」

「いや、まあそうなんですけど……」

 ほれほれとばかりに手を振る千秋さんの顔は、それでも少し照れているのがわかったから、もうしょうがないとばかりに薬指にその指輪を通す。自分の指にあるのと同じ物が嵌まっているのを見るのは、想像以上に恥ずかしい。


「……千秋さん、本気?」

「虫除けみたいなもんだ」

「何それ?」

「嫌か?」

 もう一度コートで僕を包み込みながら言う声は笑みを含んでいて、だからきっと僕が頷けば、無理強いはしないんだろう。でも、僕がそうしないことをこの人はもうお見通しなんだと思う。

「……何で今日なんです?」

「俺の誕生日だからな」

「え?」


 見上げた千秋さんの顔は、冗談を言っているようには見えなかった。


「クリスマスイブが誕生日?」

「ああ。おかげでガキの頃は、誕生日とクリスマスのプレゼントが一個しかもらえなくて何か損した気分だったな」

「千秋さんにも子供の頃があったんすね……」

 軽口を叩いた僕の頭を千秋さんが軽くはたく。片眉を上げて笑うその顔を見上げながら、ほんの少しだけ、でも自分でも思っていた以上に恨みがましい声が漏れた。

「言ってくれればよかったのに」


 ——僕は、この人から与えてもらうばかりで、何も返せていない。


 でも、そんなことを口にするより先に、千秋さんがもう一度笑う気配がして、強く抱きしめられた。

「お前がここにいて、ちゃんと怪我もせずに笑って過ごしててくれりゃ、今のところ、それが何よりのプレゼントだ」

 やたらとクサい台詞に顔をまじまじと見つめたけれど、千秋さんの表情は珍しく揺らがなかった。軽口を言う隙もなくその顔が近づいてくるのを、何だか不思議な気分で見つめてしまう。

 繰り返し触れるそれは、いつもよりは優しくて、でもやっぱり深く遠慮なく入り込んでくる。よく考えたら天下の往来だったことを今さら思い出して、その胸を押すと、近くにあった目は、思った以上に熱を浮かべていた。


「『クリスマスのご馳走』の前に、することができたな」


 ニッと笑った顔はもういつも通りの少し意地悪で強引なそれで、何を言わんとしているのかは明らかだった。逃げ出そうとした僕の腰を、力強い腕があっさりと捕らえる。

「さっさと帰るぞ。何しろ今日は俺の誕生日だからな」

 とことん付き合ってもらうからな、と楽しげに言うその顔は、それでもやっぱりいつもよりは柔らかい笑みを浮かべていた。その顔に見惚れて、自分でもあまり考えなしに、襟首を掴んで引き寄せる。僕の方から触れたのは、多分以来だったろう。

 千秋さんがひどく驚いた顔をして、それでも蕩けるみたいに嬉しそうに笑ったのを見て、心臓がおかしなくらい跳ねた。


 今度こそ遠慮なく僕を抱き締める腕に抵抗する気も起きなくて、結局のところ、僕ももう大概だな、と思ってしまったのだった

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