7. クリスマスまであと何日?

 クリスマスの前週の日曜日、僕は千秋さんに連れられて、横浜を訪れていた。当初は電車で向かう予定だったらしいのだけれど、僕は断固拒否した。なぜなら昨夜から続く疲労がまだ抜けていなかったからだ——理由は述べない。


 目的地のクリスマスマーケットの開場は午前十一時とのことだったので、近くのショッピングモールに車を停めて、しばらく周囲を散策することになった。寒いけれど、すっきりと晴れ渡った空といつもと違う風景はやっぱりなんだか心浮き立つ感じがする。

 隣から笑う気配がして見上げると、びっくりするくらい優しい顔が見下ろしていた。どうしていいかわからず目線を外すと、もう一度笑う気配がして、ぽんぽんと子供にするみたいに頭を撫でられた。


「どっか見たいとことかあるか?」

 ちらりと視線を向けた先には、やっぱりいつになく柔らかい表情があって、どうにも落ち着かなかったけれど、さすがに目をそらしっぱなしもまずかろうと顔を上げて、首を横に振る。

「いや、初めて来たんで全然わかんないです。お腹空いたけど、空かしといた方がいいんですよね?」

「まあ、混雑具合にもよるが祝祭おまつりっぽいものが食べたければ、空けておいた方がいいかもな」

「んじゃ、我慢します」

「なら、とりあえず海の方でも行ってみるか」


 千秋さんと並んで歩き出す。今日の千秋さんは、髪も髭も整っている感じで、最近新調したらしいオリーブグリーンのモッズコートもぴしっとしている。ちょっと若作りじゃね、とうっかり口を滑らせたら、わりと遠慮ない感じで頭を叩かれて、そんな関係が続いていることに、どこか安堵する自分にも呆れてしまう。


 大きな円形の歩道橋を歩いて渡り、噂の赤レンガ倉庫の前を通りかかる。瀟洒しょうしゃなその建物は確かに風情があって、青空によく映えていたけど、入り口付近には、何やら既に行列ができていた。

「千秋さん、何かもう混んでません?」

「事前予約制だから大丈夫かと思ってたが、ヤバそうだな」

「何でそういえばわざわざ混む日曜日に来ちゃったんでしたっけ?」

「そういう設定なんだよ」


 何の、とは訊かずともわかってしまった。つまりは空いている平日に来ても、取材にならないんだろう。とはいえ、この混雑っぷりでは普通に楽しむのは難しいかもしれない。風吹き荒ぶ海際は結構冷えるから、開場まで並ぶのはやっぱりしんどそうだ。日頃ジムで鍛えまくってる上に真新しいコートの千秋さんはともかく、高校時代から着古しているぺらいダッフルコートの僕には厳しい。


 千秋さんは少し考える風だったけれど、すぐに僕の背中を押して、先へと歩き出した。

「ま、開いてからまた後で様子を見るか」

「いいんですか?」

「ついでに他の場所も取材すりゃいいさ」

 言って、さりげない感じで手を握られた。しかも何だ、指を絡めるいわゆるアレだ。

「千秋さん、ちょっ……」

「何か問題あるのか?」

 その余裕の表情に何を言っても無駄だと気づいてしまって周囲を見回したけれど、きょろきょろする僕に不審げな視線を向けてくる人たちはいたものの、繋いだ手は誰の目にも入っていないようだった。確かに他人が手を繋いでいるかどうかなんて、意識して見なければ気づくこともないのかもしれない。

 見上げた顔は、いつものちょっと意地悪な顔に、それでもどこか素直に楽しそうな色がプラスされていた。何より冷え始めていた手にその温もりが心地よく感じられてしまったから、結局そのままで一緒に歩き出してしまったのだった。



「千秋さん、あそこ何?」

 海に突き出したそれは、大きな丘のようにも見えた。その隣には遠近感がおかしくなるような巨大な船が停泊している。

「ああ、おおさんばしだな。国際客船のターミナル、要は港だ」

「港? あそこから外国に行ける船が出てるってこと?」

 海外旅行なんてとんと縁のない僕にとって、飛行機はもとより船での旅なんてロマンそのものだ。

「見に行ってみるか? 見えてる感じより、結構距離があるが」

「行く!」

 思わずはしゃいだ声を出してしまった僕に、千秋さんの顔がますます緩む。このパターンは学習済みだから、自然な感じで近づいてきた顔を避けるのはそんなに難しいことじゃなかった。本人はものすごく不満そうな顔になったけど、真っ昼間どころか午前中に天下の往来で何をするつもりなのか。

「別にいいだろ」

「欧米か!」

 古いツッコミで気勢を削いで、ついでに手も離して、大きな船が見えるその場所へと駆けていく。足元がウッドデッキみたいな板張りに変わって、船そのものみたいな不思議な形の建物が目の前に姿を現す。

「でか……」

 そのままウッドデッキの先を抜けると、芝生のある甲板みたいな広場に出た。この建物そのものも大きいが、隣に停泊している船もデカい。よくみるとベランダみたいに区切られたスペースに窓がいくつも見えていて、それが一つの客室だとすると、もう距離感もサイズ感もよくわからないくらいだ。

「まあ、世界一周するくらいの船だからな」

 余裕の足取りで追いついてきた千秋さんが、同じように豪華客船を見上げながらそう言う。

「マジで? どれくらいすんのかな……」

「こないだ調べた感じだと、104日間、お値段四百六十万円から、だそうだ」


 ——聞かなきゃよかった。


「……一生縁がないなあ」

「行きたいなら連れてってやろうか?」

「はあ⁉︎ さすがに身の丈に合わないでしょ」

新婚旅行ハネムーンならいいんじゃねえか。式を挙げるわけでもないしな」

 何を言い出すんだこの髭は、とその顔を見つめたけれど、千秋さんの視線は別の方に向いていた。視線を追うと、少し離れた海際のウッドデッキに白い色が見えた。


 遠目にもはっきりとわかるくらい満面の笑みを浮かべたウェディングドレスの花嫁さんと、肩を抱く白いタキシード姿。どうやら結婚式の撮影らしかった。海の向こう側は若干の工業地帯感は否めないが、透き通るような青い空と、幸せそうな笑顔だけでもう十分なんだろう。


 絵に描いたような幸せそうな光景に、いつかも言った言葉を口にしそうになって、でも、千秋さんが僕の内心なんてお見通しだ、みたいな顔で優しく笑ったから、とっさに質問を変える。

「千秋さん……その、年末年始は実家に帰ったりするんですか?」

「あー……、ここんとこしばらくは正月には帰ってないな。親は二人とも早期退職してるし、妹夫妻と田舎暮らしを楽しんでるから、問題ない」

「えっ、千秋さん兄妹いんの⁉︎ ってかご両親もご健在⁉︎」

 むしろ僕と同じ天涯孤独なんじゃないかと疑うくらい家族の気配なんてしなかったのに。

「言ってなかったか? 四つ下の弟と、六つ離れた妹がいる。二人とも結婚してるし、子供もそれぞれ二人ずついるから、まあ長男の俺がどう生きようが諦めてるしな。別に仲が悪いってわけじゃないが、お互いに必要がなければ干渉しない」

「……割とドライっすね」

「息子なんてそんなもんだろ」

「そんなもんですかね」


 何となく、肩の力が抜けてぼんやり千秋さんの顔を見つめていると、ほんの少しだけ千秋さんが困ったように笑う。それから視線を海に向けたまま、静かに言う。


「正月、一緒に行くか?」

「え?」

「まだ早いかとも思ってたが、お前が平気なら」


 ——いきなり家族が増えるのは、お前にとってはめんどくさいかと思ってな。


 その横顔は穏やかで、だから言葉よりもっとちゃんと伝わってきた。きっと千秋さんのことだから、もううまくちゃんと話は通っていて、そして僕が想像するよりずっと、温かく迎えてもらえるんだろうな、という予感もした。

 天涯孤独の僕に、二人の弟妹——しかも年上だ——プラス四人の甥っ子姪っ子とか。確かに一気に賑やかになってしまいそうだ。


「にしたって、さすがにどん引かれたりしないんですか……?」

奈央なお——妹はむしろ手ぐすね引いて待ってる感じだな」

「……まさか?」

 何となく嫌な予感がする。そうして、大体僕のそういう予感は外れないのだ。

「あいつは俺のファン一号だからな」

 覚悟しとけよ、とニヤニヤ笑う千秋さんに、僕はとりあえず頭を抱えるより他なかったのだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ひとしきり千秋さんはその辺りの写真を撮った後、大さん橋のターミナル周辺も覗かせてくれた。あいにくこの状況下だから閑散としていたけれど、きっと以前は結構賑わっていたことを窺わせる待合スペースや土産物屋が並んでいた。入り口に程近いところには大きな船の模型もあって、きっと子供の頃に見たらもっとはしゃいでいたんだろうなと思う。

 そんなものを横目にターミナルを出て、赤レンガの方に戻ろうと並んで歩く。海の方を眺めると、そちらにもショッピングモールらしきものがあるし、反対側には大きな観覧車や、もっと巨大な塔みたいな建物がある。


「千秋さんはこの辺詳しい?」

「詳しいっつーか、まあデートスポットだからな」

「へー」

 まあ何しろ人生経験もそれ以外もだいぶ先輩の千秋さんのことだから、いろいろあるんだろう。

「そういえば、千秋さんて何歳?」

「……今さらか?」

「や、そういえば聞いたことなかったなと思って」

「三十二」

「えっ、マジで? もっと上かと思ってた!」

 言った瞬間、脳天を殴られた。千秋さんは日頃鍛えてるだけあって、本人は軽くのつもりでも結構痛い。涙目になった僕に、千秋さんはそれでも明らかに不機嫌な顔をしていた。

「何で怒ってんすか」

「うるせえ」

「あ、もしかして年のこと気にしてるとか?」

 答えはなかったけれど、その横顔から図星なのは明らかだった。別に気にすることないのに、と口に出そうとして、でも何だかもっと怒られそうな気がしたから黙っておく。


 たどり着いた時にはもう開場していたクリスマスマーケットは、本当に盛況だった。予想通り中は人でごった返していたけれど、立ち並んだ小屋みたいな店の屋根の上には、スキーをしているサンタクロースやトナカイたちなどがディスプレイされていて、見ていて楽しい。

 マトリョーシカの専門店なんてのもあって、サンタやクリスマスツリーの形のものや、猫やいろんな動物の形の人形が置かれていた。一つすごく彩色が綺麗な猫のものがあって、見せてもらったけれど、お値段を聞いてそっと棚に戻した。すごく可愛かったけど、お値段は残念ながら全然可愛くなかったのだ。


 そんなふうにあちこちに気を取られているうちに、気がつけば僕は千秋さんとはぐれてしまっていた。まああの人でかいしすぐ見つかるだろうと思っていたら、案の定両手に何かを持っている姿が見えた。

「千秋さん」

「ああ、はぐれたかと」

「はぐれてましたね、完全に。それなんですか?」

「ホットチョコレートとソーセージ。あっちで食えるみたいなんだが混んでるから公園行った方がいいかもな。他になんか食ってみたいのあるか?」

 促されるままに周囲を見渡して、いくつか気になったものを購入する。チーズを揚げたやつとか、チキンとか。お値段も中々だったけど、今日は小遣いを確保してきたので予算内で好きなものを買っておく。


 千秋さんが言っていた通り、隣のフードコートっぽいベンチはもう全部埋まっていて、到底座れる見込みもなかったから、一旦外へ出て海の方へ向かう。風が冷たかったけれど、日当たりのいい公園のベンチはそれなりに暖かかった。

 二人で並んで海を眺めながら、ソーセージを食べて、ホットチョコレートを啜る。絶望的に合わなかったけれど、千秋さん的にはホットワインが飲みたかったのだろうから、あまり突っ込まないでおくことにする。


 のんびりとこんなふうに過ごす日々がだいぶ当たり前になってきて、でも隣にいるのがこの人なのが、やっぱり不思議な気がした。僕の視線を感じたのか、千秋さんが怪訝そうに首を傾げる。

「何だ?」

 何となく、あまり深く考えずに千秋さんの眼鏡に手をかけて外す。千秋さんは驚いたみたいだったけど、その顔がやっぱり見えたから、スマートフォンを取り出して一枚撮って見せる。

「やっぱり、その眼鏡のせいだと思いますよ」

 写真を見せながら言った僕に、千秋さんは眼鏡を取り戻しながらもう一度首を傾げる。

「何がだ?」

「眼鏡ないと、やっぱ全然印象変わりますよ。若く見えるし」

 それに、もっと優しく見える。

 そう言った僕に、千秋さんは呆れたように笑う。そんな顔もひどく優しい印象だった。

「別に初めてってわけじゃねえだろ」

「まあそうなんですけど、千秋さんが眼鏡外してるときって大体——」


 そこまで言いかけて、慌てて口を閉じる。でも千秋さんはそれだけで全部わかったみたいに、ニヤニヤと笑う。すごく意地悪な顔で。


「大体?」


 答えない僕に、眼鏡を外した顔が近づいて、すぐに離れたけれど、やっぱり僕はその顔を直視できなかったのだった。

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