9. Happily Ever After ~ Till Death do us part ~(千秋視点)

 大晦日おおみそか。大掃除は先週末に終えてしまったし、しめ飾りも門松も準備は万端。一夜飾りは避けろと祖母に言われ続けたせいで、そのあたりの習慣が染み付いてしまっているから、毎年大晦日は逆にすることもなく、ぼんやりと過ごすことが多かった。


 以前は早期退職してスローライフをエンジョイしている両親の元にそれなりに律儀に帰っていたが、作家の仕事が軌道に乗るにつれて、時間が自由に使えるようになった分、あえて混雑する年末年始に長時間移動するのも面倒になって、時期を外して帰省するようになっている。

 もともと一人で過ごすことに耐性が高かったし、人恋しければ付き合ってくれる相手にはまあまあ事欠かなかったから、不自由はなかったのだ。


 しかし、今年はそんな日常に大きな変化があった。


「千秋さん、今日は何すんの?」

 明らかに浮かれた様子でこちらを見上げてくる顔に、千秋の顔も緩んでしまう。

「明治神宮あたりの年越しの初詣行くか?」

「えー、寒いし混みそうだし、やだなあ」

「年寄りかよ」

「千秋さんこそ年越しカウントダウンとか、ちょっとメンタル若すぎじゃないすか」

「相変わらず、可愛い口だなあ」


 言いながら、頬をねじり上げてやる。わざとらしく痛い痛いと言う、その頬にも手にも新しい傷が増えていないことに、どこかほっとしている自分を自覚する。

 それから、ようやくに気づいた。


「普段はどう過ごしてたんだ?」


 その問いがもう凪を傷つけることがないと、ある程度の確信はあった。凪はきょとんとそのかすかに淡い紺色がかった瞳を見開いて、それから首を傾げる。ほんの一年前のことのはずなのに、あまりに遠い記憶なのかもしれない。

 少し揺れてしまったそれに気づいて、柔らかい髪に左手の指を絡めて撫でてやる。触れた硬い感触に、ほんの少しだけ目を細めて、それから凪は自分の右手に目を落とした。


「……そうですね。母さんが亡くなってからはもうずっと、近くの店で昼に天ぷら蕎麦食べて、それから、何してたかなあ。ぼんやりして夕方になったら紅白見て、父さんは酒飲みながらなんかおつまみ食べて、ゆく年くる年見て寝る、みたいな地味な年越ししか記憶にないっすね」

「マジで地味だな。若者の青春どこいったんだよ?」

「毎年だいたいクリスマス前にフラれてたんだよなあ……」

「何で?」

「そんなん僕が訊きたいわ! どうせおモテになる鴨川先生にはわからないでしょうけどね!」

 子供のように頬を膨らませて顔を背けた様子は結局可愛くて、顎をすくい上げると戸惑ったように瞳が揺れる。

「そのモテる俺が指輪なんてものを贈ったのはお前一人だが?」

「……つまり、僕にもモテ期が来た可能性ががワンチャン……⁉︎」


 いい雰囲気になるかと思いきや、すぐこれだ。まあそれでも、こうしてのんきに笑っていられる日々がどれほど凪にとっては貴重なのか、言葉にしなくても伝わってくる。


「じゃあ、歳末セール眺めついでに、ナンパにでも行ってみるか?」

「ナンパ納め⁉︎ 軽薄にも程があるんじゃないすか?」

 千秋さんの隣じゃ勝てる気しないし、と頬を膨らませた顔に、違うそうじゃない、とついには頭を抱える。

「お前は、俺が可愛い女の子をお持ち帰りしても気にならないのか?」

 そう言ってやれば、首を傾げる。まあ、でもしょうがないかな、みたいなことを言い出すのかと思えば、意外に考え込んだ後、ぽつりと小さな呟きが漏れた。

「……ちょっと、ヤですね」

 頬が緩むのを自覚しながら、屈んで顔を覗き込む。

「ちょっと?」

「わかったから! ごめんなさい!」

 近づけた顔を両手で押し退けられたが、今回は勘弁しておいてやることにする。コートを羽織り、凪にも新調したばかりの暖かいそれを手渡す。

「蕎麦食いにいくぞ」

「天ぷら頼んでもいいです?」

 顔を輝かせた素直な笑顔に、もう一度緩んだ自分の顔を自覚しながら、くしゃりと頭を撫でてから二人で並んで歩き出した。



 近所の馴染みの蕎麦屋で天ぷらそばと、自分用にはざるそばをオーダーする。

「千秋さん天ぷら食べないの?」

「夕飯もあるしな」

「もう油物がきついお年頃?」

「また殴られたいのか」

 低い声で言ってみたが、凪はもう怯むこともなく舌を出して笑う。その程度には、馴れてしまっているわけだ。

「暴力反対でーす」

 何しろ一回り以上年の違う相手だ。正直に言えば、あれこれ不安がないわけではない。それは惚れた腫れたの話というよりは、もっと切実な問題だった。


 ——自分が先に逝った場合、凪はどうなるのだろうか。


 まるで老人みたいなことを考えて、頭を振る。今から何十年も先のことを考えても仕方がない。それに、ふと彫刻のように端正な顔に浮かぶ嫌みな笑みを思い出す。

 きっと、万が一不測の事態が起きたとしても、縮退策フォールバックプランはもう用意されているのだろう。


「千秋さん、怒った?」

 ほんの少し揺れた淡い紺色の瞳に、馬鹿、と呟いて額を指で弾く。

「さっさと食えよ。天ぷらは揚げたてが一番美味いぞ」

「はーい」

 素直に頷いて頬を緩めて食べ始めた顔を見ながら、千秋の頬も自然と緩んでいた。



 蕎麦屋を出てから、周辺を散策する。空は晴れ渡って、年の瀬だというのに慌ただしさもあまりないから実感が薄い。凪が隣にいて、穏やかに笑っているのも、何となく不思議な気がした。

「千秋さん、この先に神社なんてあんの?」

 小さな看板を見つけて凪がそう尋ねてくる。

「ああ、この辺りの土地神様のおやしろだから、さほど大きなものじゃないが、正月にはちょっとした屋台とか振る舞い酒が出るな。来年はやるのかまだわからんが」

「ちょっと行ってみてもいいですか?」

「別に構わんが、今日は特に何もないと思うぞ?」

 そう言ったが、それでもいいと凪はどこかほっとしたような様子で彼について歩き始める。大晦日ということで社務所の方は明日の準備に追われているようだったが、境内は静かだった。

 凪は手水舎ちょうずやで手と口をすすぐと、まっすぐに拝殿へと向かう。


 二拝して二拍手。ずいぶん綺麗な音がするな、と隣で同じように手を打ちながら思った。千秋が目を開けて一礼した後も、凪はまだ手を合わせたまま目を閉じていた。背筋の伸びた姿勢がやけに美しく、そして儚く見えて、肩に手をかけようとしたところで凪が目を開いた。それから静かに一礼して、千秋を見上げる。

「綺麗なところですね」

「そうか?」

「はい。なんか落ち着くっていうか」

「まあ、神頼みはできる限りしておくといいかもな、お前の場合。初詣もここにするか」

 軽く笑ってそう言うと、凪も笑って頷く。

「そうですね。千秋さんにゆかりのある場所なら、僕にもご利益分けてくださるかな」

「うちの祖父じいさんのそのまた祖父からの縁だ。毎年絵馬も奉納してたらしいから、間違いないだろうよ」


 頷きながら、左手を凪の右手に絡める。互いに触れた硬い指輪の感触に、凪がふっと緊張を緩めた。それから、彼を見上げてふわりと笑う。


「千秋さん」

「何だ?」

「長生きしてくださいね。ウサギって、寂しいと死んじゃうらしいですから」

 聞きようによっては際どい言葉に、心臓が騒ぐのを感じたけれど、凪の表情はただからかうようなそれだったから、肩を竦めて笑ってやり過ごす。

「お前はウサギっていうより、子猫だろ。気がつきゃ寝てるし」

「失敬な。こんなに立派な大学生を捕まえて。まあ千秋さんは大型犬……ブルドーザー……いや、虎っぽい?」

「無機物交じってんじゃねーか」

 ふと見渡せば、もう日は暮れ始めていた。軽口を叩きながら、手を繋いだまま家路を急ぐ。


 間もなくやってくる新しい年を、二人で、明るく暖かい場所で過ごすために。

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