2. 今はまだ、わからないけれど(迅視点)

 そのまま守護者千秋の元へと送り込もうと振り上げた手を、だが、思いのほか強い力で握られた。


 視線を向ければ、握られた手と同じくらい強い光を浮かべた瞳にぶつかって、彼らしくもなく少したじろぐ。

「……どうしたの、ナギ?」

「何でもかんでも、そうやって勝手に決めんな。僕の人生だし、自分で決める。大体あんなことしといて——!」

 声を荒らげて、それでもすぐに何かをためらうように俯く。一瞬前の強い眼差しが嘘のように揺れるその色に、つられて彼も動揺する。その迷いはまるで、彼のためのもののように思えたから。そんなはずはないのに。


 言葉を見つけられない彼に、凪は目を逸らしたまま、どこか不貞腐れたように小さく呟いた。

「まだ、『契約』は有効なんだろ? なら、ちゃんとやれよ」

「ちゃんと、って何を?」

「……やっぱいい。何でもない」

 そう言ってベッドから身を起こすと、彼を押しのけて外へと出ていこうとする。さすがにそのまま行かせるわけにもいかず、その肩を掴んだ途端、ごく嫌そうに眉を顰めた顔が向けられた。その方が凪らしいと、どこかでほっとする自分に呆れる。

「そんな格好で出歩くつもりかい? 何か着替えを用意するからしばらく待っておいで」

「え?」

 ようやくそれで自分が彼の白シャツ姿であることに気づいたらしい。さらにその眉間のシワが深くなる。どういう理由で着替えさせられたのかも、きっと気づいたのだろう。


 彼と共にいれば、事態は避けられない。彼は守護者ではないから。


「ナギ、やっぱり送ってあげるよ」

「何の話だよ」

「もし本当に必要があれば駆けつけてあげるから、あいつのところにいた方が安心安全ってことだよ。返り血程度で体調を崩してしまうような繊細な君を、俺のに付き合わせるわけにもいかないしね」

「何だよそれ……! もう僕のことなんて必要ないって、そういうことかよ」

 突然激昂した凪に、彼の方が戸惑う。だが、凪は苛立った様子でベッドの脇に落ちていた自分の服を拾うと、手早く着替えてしまう。幸いTシャツは暗い色だから、乾いた血はそうと指摘されなければただの染みにしか見えない。

「ナギ」

「触んな」

 凪は冷たい声でそう言って、伸ばした彼の手を振り払い、階段を下りていってしまった。追いかけたところでかける言葉も見つけられなかったから、ため息をつきながら散らばった服を拾う。凪の温もりの残ったそれは、ひどく空虚な感じがした。

「何、やってるんだろうねえ」

 ベッドに寝転んで、これまで凪と過ごした時間を振り返る。


 出会いは偶然だった。半分は興味本位で、あと半分はただの便利な道具として使うつもりで契約をした。

 初めて凪に手を振り払われた時、ようやく彼女の面影に気づいて、いくつかの書類を確認して確信した。「凪」という名前でもっと早くに気づいてもおかしくはなかったけれど、二十年近くも前の面影を、いまだに鮮明に覚えている方がどうかしている。


 これといった目的もなく、ただだらだらと生き続けて百年以上。彼女を忘れられないのは、自分を死神だと見抜いたたった一人の人間で、そして初めての契約相手だったからだ。

 死神たちは基本的に共謀者や従属者を持つ。それは自身の能力を拡張するためだったり、単純に使い走りのためだったり、理由はさまざまだ。けれど、彼は一人で生きていくことに満足していたし、契約者などわずらわしいだけだと思っていた。


 ——なのに、彼女にほだされて。挙句、置いていかれて。


 彼女と同じように——否、それ以上に世界から拒まれて、常に危機に晒される凪を、守りたいと思ったのは確かだ。そして、守れるのならば、あの男に託してもいいと思ったのも嘘偽うそいつわりない。


「と、思ってたんだけどねえ」


 前髪を掴んで、苦笑を浮かべようとしたその時、聞き慣れた音が響いた。しゃらんと鳴る鈴の音のような、あるいは硝子ガラスを砕いたような音。けれど、そこには何か不快な、まるで爪を立てたようなギィという音が混じって、いつになく不安をかき立てた。

「ナギ……?」

 身を起こして、手袋を嵌めながら意識を集中する。伝わってくるのは恐怖と混乱。それから、戸惑いと——羞恥。何が起きているかをおおよそ悟って、彼の瞳に剣呑な光が宿る。


 空間を捻じ曲げて跳んだ先は、薄暗い部屋の一角だった。ソファの上で、男に組み敷かれている凪を見た瞬間、三日月型の鎌の刃をその男の首にかけて、何のためらいもなく引いた。凪の頬に血が跳ねるのも構わずに——構う余裕さえなく。

 首のなくなった男の身体を蹴り落として、大きく目を見開いたまま呆然としている凪を引き寄せる。胸元には、大きく切り裂かれた深い傷があった。返り血なのか、凪自身が流している血なのかわからないほどに、赤い色が溢れている。


「ナギ、俺がわかるかい?」


 何度目かわからないその問いを耳元で囁くと、微かに頷く。けれど痛みにか、その顔が顰められて、小さな子供のように手足を縮める。怯えと混乱。声さえ上げることのできない様子に、彼は内心で歯軋りした。

「君をこんなところに置いておけない。先に、移動するよ?」

 凪の乱れた衣服を整えて、ジャケットを脱ぎ、包み込んで抱きしめる。痛みにか、微かに呻いた凪の目から涙がこぼれる。

「痛かったかい?」

「何で……」

 掠れた声で、凪が小さく呟く。涙の浮かんだ瞳がじっと彼を見上げる。

「何で、こんな時にいつもそばにいるのが、あんたなんだ」

 力ない手が、それでもぎゅっとすがるように彼の肩を掴む。

「さあ、何でかな。でも逃げるなら、今のうちだよ?」

 こめかみのあたりに口づけながら冗談交じりにそう囁くと、一瞬びくりと彼の肩を掴んでいた手が震えて、それから肩に重みが預けられた。


「僕のことを、手放そうとしたくせに」


 はっと息を呑んで、その言葉の意味を問いただそうとしたが、それより先にがくりとその体から力が抜けた。


 舌打ちをして、その身体を抱きしめたまま鈴鹿の事務所ではなく、彼自身の隠れ家へと跳んだ。すぐにベッドに横たえさせて、気を失ったままの凪の胸元に唇を寄せる。

 幸いにも急所までは届いてはいなかったが、それでも深く切り裂かれた傷が痛々しい。まじないの言葉と契約を刻み込むと、淡く傷が光り、塞がっていく。それでも、それはなかったことにはならない。

 これで何度目だろうか。いくつもの傷と、彼との契約という名のきずな——あるいは呪い。深く刻み込まれたそれは、もはや彼と凪を分かち難く結びつけている。


 青ざめていた顔に、わずかに血の気が戻ったことを確認して、その身体をもう一度抱き寄せる。彼の腕の中に収まり切ってしまう程度の細い体と、柔らかな髪の感触が彼の頬をくすぐった。


「ねえナギ、さっきのはどういう意味だい?」


 答えは返らない。けれど、深く刻み込まれたその言葉と、身の内に宿る熱を自覚して、彼はため息をつく。自分では凪を救えない。彼の死神という性質がどうやっても凪を傷つけてしまう。だから、送り返そうとしたのに。


「困ったなあ。手放せなくなっちゃうよ?」


 ——真意はわからないままだけれど。せめて目覚めるまでは。


 もう一度、額に口づけて。

 あとは、ただずっと、凪が目覚めるまでその体を抱きしめていた。

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