3. 何で、僕は逃げられないんだろう?(*)

 目を覚ました時、最初に感じたのは温もりだった。それから、柔らかい髪の感触と、僕を見下ろす、ひどく穏やかな金色の瞳。人間には到底ありえないその色からどうしても目が離せなくて、じっと見つめたままでいると、らしくなくその顔が困惑したように歪んで、それから一つため息が降ってきた。


「ナギ、誘ってるのかい?」

「な、何言ってんだよ」


 同時に、さっきのことを思い出す。急に暗がりから現れた男に引き込まれて、押し倒された。いきなりナイフで胸を切られて、それからやたらと気持ち悪い下卑た顔と声で、脅された。


『大人しくする? それとも死体になってからにする? 俺はどっちでもイケる口なんだけど』


 あまりの気色悪さと、出血のせいで身動きが取れなくて、それでもさすがに抵抗しないのもヤバそうだったけど、ちょっと抵抗したらさらにナイフを突き立てられた。痛みと恐怖で混乱しているうちに、事態はどんどん進んでいって。

 不快なのに体だけは顕著に反応して、歯を食いしばっても漏れてしまう自分のものじゃないような声に、男は比喩でなく舌なめずりしながら笑った。

 他人に意思とは関係なく、ああいうことをされることがどれほど気色悪くて恐怖を感じるか。力でねじ伏せられているだけじゃなく、抵抗ができなくなっていた。


 そんな時にまた現れたのがこいつだった。残忍で冷酷で、自己中心的で、屑で。それでも全部を失った僕に最初に手を差し伸べてくれたのもこいつで、そして、本当に危険な時に救い上げてくれるのも、この死神だった。


「ナギ?」

 呼ぶ声に我に返って現状を顧みれば、抱きしめられていた。膝の上にのせられて、まるで子供みたいに——あるいは恋人にするみたいに。

「重くないの?」

「愛があるから大丈夫」

「はぁ?」

 冗談まじりに言われた言葉に、その手を振り払おうとして、けれどさっきの感触を思い出して、ほとんど無意識にその肩に縋りついてしまった。全身が震えて止まらない。

 そんな僕の様子に気づいたのか、迅が何かを言おうとして、だけど何も言わずに押し黙る。それから少しして、ゆっくりと僕の背に腕が回された。まるで何かとても大切なものを守るみたいに。大きな、やたらと綺麗な手が僕の頭を撫でて、端正な顔が近づいて、額に口づける。それから頬、首筋にと、唇が下りてくる。


 ごく自然に、あの男に触れられた場所を、消していくみたいに。


 いつの間にか切り裂かれたTシャツを脱がされていて、新しくできたばかりの胸の傷痕に唇が触れる。身を捩って逃れようとしたら、両手の手首を後ろから拘束するように握られた。首筋に這う迅の唇と、長い黒髪の感触がくすぐったくて、思わず体が震える。

 少し眉を顰めた僕の顔を見て、迅が困ったように笑った。心臓がおかしな音を立てたのは、それが今まで見たことがないような、ひどく優しい顔だったせいだ。


「ちゃんと抵抗しないと、このまま襲っちゃうよ?」

「な、んで……」

「さあ、なんでだろう。あんな男に触れられたのが気に入らないのと——」


 それから、とはっきりとわかるくらい困惑の混じる声で続ける。


「君を、愛しているから、かな?」


 こいつは息をするように嘘をつくから、そんな言葉を信じてはダメだと理性が警告する。でも、目の前の金色の瞳はひどく静かで、しかもやっぱり何か困ったような色を浮かべていて、その眼に魅入られたように動けなかった。

 迅は握っていた手首を離して、そっと僕の肩を押す。そのままベッドに倒れ込むと、真上から金の瞳が見下ろしてくる。


「本当にいいのかい?」


 いいわけがない。こいつは死神で、いくら整った顔をしていると言っても、僕より二十センチはでかいし、どう見ても男だ。さっきの男に触られた時はもう全身がそそけ立つくらい気色悪かったし、無理やり快感を感じさせられるのも最高に不快だった。だから、そんなことを受け入れられるはずがないのに。


 さらりと流れ落ちてくる長い髪が、周りから僕らを覆い隠してしまう。誰も見ていないけれど、それでももっと狭い世界に閉じ込められてしまうように。


「ナギ、もういいよ。全部これは俺のせいだから。君を守護者から切り離してしまうのも、きっとずっと君を苦しめてしまうのも、全部俺のせいだ」

「迅、僕は」

「だから、恨んでも憎んでもいいから、俺に君を守らせて」


 全然死神らしくない、苦しげな切ない顔でそんなことを言う。そして、僕はもう何も言えなかった。きっと、初めて会ったその時から、その金の眼に魅入られてしまっていたから。


 迅は何かを確かめるように、ゆっくりと唇を重ねてくる。前にも一度、そうされたことがあることを思い出した。千秋さんのそれとは違って、探るみたいな、ひどく優しいキス。

 何度もそんなキスを繰り返しながら、けれど確実に僕の身体を暴いていく。女の子とする時に、僕がそうするみたいな優しい手つきで、快楽を感じる場所を的確に探り当てていく。

 思わず声が漏れた僕に、迅はまだ余裕の顔で、耳の辺りに口づけながら低く囁いてくる。

「もっと感じてよ、ナギ。俺に溺れて、全部預けて」

「やだ……って」

「嫌なの? でもやめてあげられないよ、もう」

 手つきも声も優しいくせに、そんなことを言う。ゆっくりと、決して激しくはないのに、執拗に、確実に追い詰められる。大きな手が僕を包み込んで、容赦無く煽られて。

「ごめん、君があんまり可愛いから、俺ももう我慢できない」

 言葉ほどには激しさはないけれど、その眼は確かに熱を宿していて。優しげに語りながらも、大きな手はさらに奥へと進んでいく。ただ縋りつくように迅の肩を掴んで耐えていたけれど、ふと、手が止まった。


「ねえナギ、君の全部を俺に明け渡してよ。その代わり、必ず君を守るから」


 絶え間なく与えられる快楽にもう溺れかけている僕をわかっていて、それでも死神はまだ全部寄越せなんていう。そのまま黙って流されてしまっても、きっと結果は変わらないのだろうけれど——それでも。

 じっと、その金の眼差しを見つめて、その顔を両手で引き寄せる。


「二度と、僕を手放すなんて言うな。あんたが刻み込んだこの契約がある限り」


 愛とか信頼とか、そんな不確かなものだけじゃ足りない。だから——。


「わかった。その代わり、君の全部をもらうよ」

 契約成立だ、とでもいうように、急に迅の気配が変わる。それまでのためらいが嘘みたいに、獰猛な顔をして。

「あいつのことなんて、綺麗さっぱり忘れるくらい、俺に溺れさせてあげるから」

「何言って……!」

 言いかけた言葉は、深いキスで封じられた。それまでの優しいそれとは違う、遠慮も容赦もない、口の中を犯されるみたいな。


 それから、声も涙も枯れ果てるくらい、言葉通り死神は僕を貪り尽くした。最後には、蕩けきった頭で涙目の僕を、ひどく愉しげに何度も貫いた。そのくせ、耳元に届く声は真摯で優しくて。

「ごめんね、

 何を謝ってるのか、問いただそうとしたけれど、低い熱を含んだ声で呼ばれるたびに、頭の芯と体の奥が痺れて何も考えられなくなる。それでも、全部奪い尽くされるみたいなそれは、やっぱりしんどかった。


 だから、後で散々抗議をしたけれど、もう全部手遅れなんだろうとはわかってはいた。

「ひどいなあ、ナギ、俺が無理やり手込めにしたみたいじゃないか」

「手込め……⁉︎」

「ああ、通じなかった? まあいいか。愛してるよ、ナギ」

「嘘だろ、絶対!」

「信用がないなあ」

 僕を抱きすくめながらくすくすと笑う死神はごく楽しそうで、でも、ちゃんと僕の望み通り、意地悪な顔をしてくれていた。僕が死ぬほど恥ずかしいのをもうわかっていて。だから、そういうところも含めて、こいつには敵わないし、もう逃げられないんだろうと思う。


 そうして、快楽と契約プラス、どうやら愛情らしきもので絡め取られた僕と死神の関係は、もっとややこしいものになってしまったのだった。

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