1. いつか君が、そう望む時がくるとしたら(迅視点)
その日は珍しく凪が彼の事務所を訪れていた。しかも手土産に、ハロウィン仕様の色とりどりのドーナツが詰まった箱を
「おや、ナギ。珍しいね。どういう風の吹き回しだい?」
「別に、どうってわけでもないけど」
ほんの少しだけ迷うように逸らした視線は自身の左手首へ。それは彼が作ったもので、もともとはチョーカーだったのだが、千秋があまりに拒否反応を示すものだから、やむなく手首に合うように長さを調整し直したのだ。もうしばらく
何だかんだ、彼にとっては凪の安全が最優先だった。どうして自分でもそんなに気にかけてしまうのか、その理由は曖昧なままで、ついでに言えばそれでいいと思っていた。
「お礼かい? そんなに気に入ってくれたとは嬉しいね」
「そういうわけじゃないけど、たまたま引き換えクーポンもらったから」
「……もらった?」
怪訝そうになった彼に、凪もどこか気まずげに頷く。凪の不運は筋金入りだ。命の危険を伴うような事件が起き始めたのは、彼の父が亡くなってからだと聞いていたが、それ以前も小さな
——その凪が、一ダースのドーナツのクーポンをもらった?
「それで俺のところにもってきたのかい? 毒でも入っていて、チアキに何かあったら困るから?」
そう問えばわかりやすく目が泳ぐ。やれやれとため息をついて、机の上に置かれたドーナツに視線を向ける。眼鏡を外して見たけれど、特に怪しいところや不吉は感じなかった。
「特に何ともないと思うよ」
「本当に?」
「じゃあ、一つ食べてみようか」
そう言った時、ばたんと乱雑な音を立てて扉が開いた。駆け込んできたのはどう見ても初対面の、明らかにまともでない血走った目の男。
今このタイミングでこいつがやってきたのが偶然なのか、何かの符号なのかはわからなかったけれど、いずれにしても放っておくわけにもいかない。ただし、なるべく凪を傷つけない方針で。
とすると、彼が取れる選択肢は、一つだけだった。引き寄せて、その目を片手で塞いで額に口づける。
「少しおやすみ。起きたら全部終わっているから」
歌うように言った彼に、ごく不満そうな気配が伝わってきたけれど、すぐにその体から力が抜ける。以前よりはだいぶしっかりしてきた体を抱き留めて、ソファの上にそっと寝かせる。
それから、呆気に取られたままの男に向き直った。
「せっかくの凪との楽しいお茶会、邪魔しようとした罪は重いよ?」
金の双眸が猫のように細められ、怪しく光ったのを見て、男は逃げ出そうとしたが、死神の鎌の射程距離は彼が思うよりずっと長かったのだった。
残り物を片付けて、床に飛び散った赤い色を消してふと気がつくと、ソファで眠る凪の顔と、服にもその色が飛んでいるのに気づいた。それほど派手に立ち回ったつもりはなかったけれど、どうやら少しばかりやりすぎたらしい。頬についた色を濡れたタオルで拭って、それから服についてしまったそれについて考える。
思い返せば凪は血を見るたびに倒れがちだった。知り合いの古物商の男が割と平然としているので、それが普通かと思っていたが、どうやら凪の方が標準らしい。
「このままにしておいたら、また倒れちゃうかなあ」
倒れることはないしても、また体調を崩されても厄介だ。やれやれとため息をつきながらそっと抱き上げて二階へと上がる。ベッドに下ろして、クローゼットを眺めたが、あいにくTシャツは前回凪が着ていったきり。残る選択肢は彼が日頃着ている白いワイシャツくらいなのだが。
まあ血塗れよりはマシかと、Tシャツを脱がして、白シャツを羽織らせる。二十センチの身長差のせいで、完全に彼シャツ状態だ。この年頃の青年としては標準体型でも、しばらく体調を崩していたせいで——どうやらそれは彼のせいらしいのだが——全体に線が細くなってしまっている。滑らかな頬に、長いまつ毛。何より彼女の面影を宿すどこか翳りのある寝顔は、過去の致命的な
あの時、彼女の側を離れなかったら。あるいは、せめてもう少しだけ早く彼女の内心に気づいて、きちんと対処できていたなら。
彼女と共に在る未来があっただろうか。それとも彼女は子供と二人で幸せに生きて、彼はそれを遠くから見守っているだけだっただろうか。
仮定など意味がない。失われた
膝の上に抱きかかえている体は、もう青年のそれで、失われた日々は返らない。せめても、その性格を見て明らかにわかる通り、幸せに、大切に愛されて育ってきたということだけが救いだけれど。
左手で煙草を取り出しかけて、一つ首を振って同じポケットにしまいっぱなしだった
どこかまだ、茫洋としたままの瞳がぼんやりと彼を捉える。
「あいつ……は?」
微かに怯えと嫌悪を含む声に、胸のどこかがちり、と痛んだ気がしたけれど、見て見ぬふりをした。飴の棒を手でつかんでひらひらと振りながら、ニヤリと笑って見せる。いつも通り、なんて事のないように。
「綺麗にお片づけしておいたよ」
「……
意外な言葉に彼が目を見開くと、凪は何だかバツが悪そうに少し目を逸らして、それから飴を握っている彼の手を両手で掴むと顔を寄せて、ちろりと舐めてから、ぱくりと咥えた。
赤い舌がやけに印象に残って呆気に取られていると、凪は上目遣いにこちらを見上げてくる。
「何?」
「……それはこっちの台詞だと思うけど」
彼の膝の上で、抱きかかえられるように腕の中に収まって。ついでにしっかりと彼の左手を掴んで、こちらを見上げる彼女の面影を残した顔。
大きなシャツに包まれて、どこか性別を曖昧に見せているその様子は、千秋でなくても惑わされそうだ。
「ナギ、わかっててやってるのかい?」
その言葉に、ぴくりと凪の肩が震えた。どうやら、その台詞に心当たりがあったらしい。慌てて手を離したその様子に悪戯心が湧いて、そのまま肩を押す。あっさりとベッドに倒れたその顔の脇に手をついて、ニヤリと笑ってみせると、いつも通りに怒るかと思いきや、少し戸惑った顔になる。
「何してんの?」
「さあ、何だろうね?」
戸惑ったまま、こちらをじっと見つめる顔に、胸の奥でじわりと熱が上がる。見下ろしているうちに、肩から彼の長い髪がさらりと落ちて、まるで天蓋のように凪を覆い隠す。
迷子のように戸惑うその瞳が、あの時の彼女と重なって、だからこれは間違いだとわかってはいたけれど、そのまま頭の脇に左肘をつき、右手で頬に触れて、距離を詰めた。
呆気に取られて動けない様子につけこんで、そのまま深い口づけを繰り返す。予想した抵抗は全くなく、まるで彼に魅入られたようになすがままの凪に、ようやく自分の中にある激情を自覚した。あの時、余命を閉じ込めた
——恋をしたりもするの?
無邪気にそう訊いてきた彼女の声が脳裏に蘇る。
ああ、していたよ、君に。そう告げる暇さえ、彼女は与えてはくれなかったけれど。
「……
彼女と同じアクセントで、よく似た瞳で、違う声で。
——だから、せめてこの子には穏やかな、そんなイメージの名前がいいかなあ、なんて。
「凪」
真っ直ぐに見つめて名を呼べば、わかりやすいくらい瞳が揺れる。その名に、彼がどんな想いを抱いているかを知らないはずなのに、まるで伝わっているかのように。
ふと、左耳に嵌められた銀色が目に入った。それでようやく思い出す。
——同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。彼では凪を守れない。
一つ息を吐いて、何もないところから黒い輪を取り出す。驚いたように目を見開いた凪に片目を瞑って笑いかけて、抵抗する隙も与えずにその首に口づけてから、輪をかける。それを見たあの男がどう反応するかまで、織り込み済みで。
「迅……!?」
「チアキによろしくね。あ、気をつけて。きっと相当がっついてくると思うから」
にっこりと嫌味に笑って見せながら、これで凪が永遠に彼の側から失われるとしても、それでいいと、それが最適な選択だと思っていた——はずだった。
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