10. 考えるのは後にしよう、そうしよう
千秋さんの原稿が締め切り間近になったのもあって、三日前から自宅に帰っていた。数日で仕上がりそうだと言っていたからまあそれくらいなら、大丈夫だろうと油断していたせいもあったけれど、そういえば千秋さんと出会ってから、死にかけるまでの
「家にいたんじゃなかったのか?」
「帰る途中で、また襲われて……」
「何だと? まだ三日も経ってないだろう?」
「それは、僕にもわかんないですけど」
「これは?」
気がつけば、千秋さんがいつの間にか僕の目の前に立っていて、首に巻かれた黒いチョーカーに触れていた。何だかいつもより無表情なのに、シルバーフレームの眼鏡の奥の眼が、やたらと怖いのは気のせいだろうか。というか、気のせいであって欲しい。
「
あいつの名前を出した途端、千秋さんの肩がびくりと震えた。さらに気配が尖るのに首を傾げながらも、先を続ける。
「それから大学に行って、バイトも行ってきたけど、その間は何もなかったです」
確かに今日はひとつも厄介事に見舞われなかった。もともと千秋さんと離れてからの期間が短かったし、昨日のあれがイレギュラーだった可能性もあるから油断はできないけれど、この「お守り」がもし本当に有効なら——。
ふと千秋さんの両手が首に触れて、何をしようとしているのかを悟って、自分でもどうしてかわからないけれど、とっさに身を引いた。その拍子に台所と居間の境の畳縁に足を取られて、そのまま後ろに倒れ込んだ。幸い居間も畳敷だから、さほどダメージはなかったけれど。
後頭部をさすりながら体を起こそうとして、大きな影が目の前を覆った。僕の膝の上をホールドするように千秋さんがまたがって、もう一度僕の首に手を伸ばしてくる。
「ちょ、千秋さん、何してんの!?」
声を上げたけれど、どうやら少し酔っているらしい眼は、やたらと強い光を浮かべていて、僕は思わず口をつぐんでしまった。
千秋さんは遠慮なくチョーカーをむしりとって、それから眼鏡を外して卓袱台の上に置くと、そのまま僕の頭の両脇に手をついた。
眼鏡のない、いつもより髭もちゃんと剃られた顔は、割と端正で、その眼差しは射抜くように強い。
その強さの理由がわからなくてただ困惑していると、千秋さんの顔が首に近づいてきた。
「痕、ついてるな」
「あ、ナイフの……」
「それもある」
言いながら、昨日つけられたばかりの刃物の傷に触れ、それからぐるりと首の周りを千秋さんの大きな手がなぞる。ぞくりと背筋が震えて、あ、これはまずいかもしれないと直感する。
何とかそうっと抜け出そうとしたけれど、千秋さんは今度は僕の顔の脇に両肘をついてのしかかってくる。もう慣れた煙草と、それから普段はあまり馴染みのないアルコールの匂い。
間近には、いつになく熱と怒りを浮かべた眼。
「……何、怒ってるんですか」
「別に」
「いや、なんか絶対怒ってますよね?」
普段はいつだって僕の状態をあっさり見抜いて、嫌になるくらい的確に対処してくるくせに。今日の千秋さんは明らかにおかしい。酔っ払っているせいなのかもしれないけど、多分違うんだろうとは薄々わかっていた。
しばらくじっと僕を見下ろして、それからその顔がもう一度近づいてきて、切りつけられたのと反対の首筋に、柔らかいものが触れた。次いで小さな痛みが走る。思わず身を震わせて、反射的に逃げようとした体を押さえつけられて、今度は真っ直ぐに眼が合った。ほんの少しだけその眼が迷うように揺れて、でもすぐにゼロ距離になる。
噛みつかれているようなそれは、全然甘くなくて、何かを刻みつけようとする
離れた顔が、もう一度僕をじっと見つめた。その眼には熱と同じくらい迷う色があったから、一呼吸置いてから、僕はちゃんと笑ってみせる。困らせているのは多分僕の方で、切り抜ける方法もわかっていたから。
「——千秋さん、僕のこと好きなの?」
「うるせえ馬鹿」
予想通りの台詞を吐いて、千秋さんは身を起こす。ちょっとした気の迷いだとか、アルコールの勢いだとか、あとは多分、死神の余計な茶々とか多分そういうもののせいにして。
ぐしゃぐしゃと前髪をかき回しながら眼鏡をかけた千秋さんの顔を見て、ほっと息を吐く。それから黒いチョーカーを拾い上げると、でも、その手を掴まれた。見上げた顔は、やっぱり何だか険しい表情を浮かべている。
でも、死神は言っていた。いらなければ捨ててもいいけれど、これは僕を守るものだと。
つけていても害がないのなら、その効能を試すのは悪いことじゃないはずだ。
口に出さなくても伝わったのがわかった。なのに、千秋さんは僕の手からそれを取り上げると、玄関の方に放り投げた。
「ちょ、千秋さん……!」
さすがに声を上げた僕を無視して、千秋さんは立ち上がって台所へと戻っていく。やれやれとため息をついた僕の耳に、低い声が届いた。
「少なくとも、俺の前ではつけるな」
声の方を見たけれど、ビールグラスを持っている背中しか見えない。もう一度、ため息をつきながら立ち上がって、玄関の方に向かう。黒い金属と布の間みたいな不思議な手触りのそれを拾い上げて、ほんの少しだけ悩んでから、玄関の棚の上に置いておく。
その理由について考えるのは、とりあえず先送りすることにして、美味しい夕飯に集中することにした僕を責められる人は、多分いないと思う。
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