9. とりあえず、無事でよかった……のか?
はっと目を覚ますと、見慣れない天井が見えた。勢いよく上半身を起こそうとして、ぐらりと地球が回ってそのまま倒れ込む。最近こんなことばっかりだ。血が足りてないのかもしれない——と考えて、ガチでそうだったことを思い出した。夢ならいいなと思いながら首に手を伸ばすと、やっぱりそこに斜めに盛り上がる線の感触があった。それもちょうど頸動脈の真上に。
「よく生きてるな、僕……」
我ながらそうあっさり
外は明るくて、時計は七時を指している。つまり、朝だ。
「おはよう、ナギ、目が覚めたかい?」
普通に話しかけられているのに、なぜだかその声の響きに嫌味を感じてしまうのは僕の気のせいだろうか。目を向ければ、いつもの白シャツに黒いスラックスの姿の迅がこちらを覗き込んでいた。
「気分は?」
「あんたの顔見たら息が詰まって倒れそう」
「おや、それは大変だ。人工呼吸でもしてあげようか?」
ぐいと近づいてきた眼鏡のない顔がひどく愉しげに笑っていて、けれどなんだか既視感を覚えて思わず首を傾げる。
「……僕が寝てる間に、なんかした?」
「鋭いね。でも、本当に聞きたいのかい?」
ニヤニヤ笑う顔が心底話したそうだったから、全力で拒否することにした。何をされたにしても、どうせろくでもないことだろうし、大体こいつ相手の場合は騒いだところで取り返しがつかない。それどころか、却って喜ばせるだけだとわかっていたから。
起き上がって、ゆっくりとベッドから降りる。なんとかふらつきもせず立てることにちょっと安心して、それから自分が見慣れないTシャツを着ていることに気づいた。
「ああ、着替えさせてもらったよ。さすがにあのままベッドに寝かせるわけにはいかなかったからね」
死神にしては、ひどくまともな気遣いだ。思わず怪訝な顔になった僕に、迅はなんだかいつもと違う——見たこともないような柔らかい笑みを浮かべた。
「少し心を入れ替えようかと思って」
「何で?」
反射的にそう尋ねてしまった僕に、迅は軽く笑って子供にするみたいに僕の頬を両手で包み込んだ。その手が温かくて、何だか心地よく感じてしまって胸のどこかが変な風に騒いだ気がした。
「君に、これ以上嫌われたくないから」
「……どっかで頭でも打った?」
「ひどいなあ、こんなに真面目に話してるのに」
そう言った時には、もういつも通りの人を食ったような表情に戻っていた。こいつにちょっとでも期待した僕が馬鹿だった。でもふと、馬鹿——とその言葉を思い浮かべて、さっき脳裏に浮かんだことを、今度こそはっきり思い出した。
「ヤバ……千秋さん、今頃探してるんじゃ……」
今週は家に戻っていたけれど、一日に一回くらいはこちらから連絡を入れるようにしている。返信がくることはほとんどないけれど、毎回送るたびにすぐに既読がつく。だから、もしメッセージがなければ僕に何かあったと考えるかもしれない。そう考えたところで目の前に僕の
「ああ、ちゃんとそれっぽいメッセージを送っておいたよ。既読もついてたから大丈夫」
千秋さんのくれた僕の端末は最新機種と違って指紋認証だから、意識を失っていれば容易にロックを解除できてしまう。そしてこいつはプライバシーの尊重なんて屁とも思ってない。
「位置情報は
「自分は尊重してない自覚はあるんだな……」
ため息をつきながら視線を逸らした拍子に、壁にかかった姿見に映った自分の姿が目に入った。何だか違和感を覚えて、それが首の周りに巻かれた黒いもののせいだと気づく。全然感触がなかったのに、触れば確かにそれはそこにあった。
一見おしゃれなチョーカーに見えるそれは、僕の私物にはないもので、意識を失う前にはなかったから、答えはひとつしかない。すぐにむしりとろうとして、けれどその手を掴まれた。
「待って」
「何だよ。僕はあんたのペットじゃない——!」
「——
「守る……?」
「信じられなくてもいい。お試しってことで今日だけでもつけておいてよ。それで本当に君に何も起こらなければ、信じてそのままつけておいて欲しい。少なくとも俺やあいつが君のそばにいない時には」
金色の瞳はいつになく真摯な光を浮かべていて、嘘をついているようには見えなかった。まあ、こいつは呼吸するように嘘をつくから、それが本当かどうかはわからないんだけど。
でも、本当は僕ももう気づいていた。少なくとも死神が——迅が、ちゃんと僕の名を呼ぶ時は、信じてもいいってことに。
「……なんかあったら、速攻外して捨てるからな。代金とか請求されても絶対払わないからな!」
「いいよ、プレゼントだからね」
遅くなったけど、誕生日おめでとう、と耳元で囁かれて、唐突に視界が歪む。え、と思う間もなく気がつけば僕は大学の前に立っていた。非常識にもほどがあるが、便利は便利だともう深く考えないことにした。
それから、しばらく近くのカフェで時間を潰して、いつも通り大学に行く。今日はバイトの日だったから図書館に寄って、特に問題もなく終えたところで、メッセージが届いた。夕飯は、ビーフシチューにコロッケ、サラダに何やら他にもいろいろ。珍しく豪勢なところを見ると、締め切り間近だった原稿が終わったのかもしれない。
なら機嫌もいいだろうと、いつも世話になっているお礼とささやかなお祝いも兼ねて、赤い箱の煙草を買って、千秋さんの家に向かった。
家の中はもういい匂いが充満していた。当たり前のように僕を受け入れてくれるその玄関の空気に、毎回少し戸惑ってしまう。
それでも、靴を脱いで上がると、もうそんな戸惑いは不思議とあっさりどこかへ消えていく。初めてあの人に拾われた時からずっと。
妙に居心地がいい理由は、あえて深く考えないようにしてきた気がする。
千秋さんは
「千秋さん」
声をかけると、ああ、とか適当な返事をしながら振り返る。
「昨日は——」
そこまで言って、僕を見た千秋さんの言葉がぴたりと止まる。その視線がじっと僕の首のあたりに据えられているのを見て、何だかすごく嫌な予感がした。ついでに、いつになく、千秋さんの目が据わっていることにも。
「……あいつに会ったのか」
何で即バレするんだろう——しかも、すごく怒っている気がするんだけど、何で?
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