8. Interlude - 君はきっと気に入らないと思うけれど(死神視点)

 ビィン、と弦を弾くような音が聞こえた。もう聞き慣れた、人の命の灯火ともしびが尽きようとしている時に響くそれ。けれど、今聞こえた音にはそこにほんのわずかな異音が混じる。ごく小さな、鈴を鳴らすような透き通る音——あるいは、ガラス瓶を砕いたような。


 浮かび上がりそうになった記憶を、頭を一つ振って振り払う。聞く者もないのに、やれやれとわざとらしいため息をついて、ごく自然に一歩を踏み出す。目の前の道ではなく、彼が契約した相手——共謀者Collaboratorの元へ。


 視界が開けた先には、壁際に追い詰められて、刃渡り十五センチはあろうかというサバイバルナイフを突きつけられている凪の姿があった。相変わらず、襲われる武器のバリエーションが豊富だ。

 内心呆れながら、すい、と手を振って何もない空間から三日月型の刃を持つ鎌を取り出す。きらりと日の光を受けて輝いたそれが目に入ったのか、凪の視線がこちらに向いて、それから一気にその顔が蒼ざめた。

「そんな顔されると傷つくなあ。どう考えたってそっちの方がやばいでしょ?」

 彼の軽口に、けれど凪はぎゅっと眉根を寄せる。何に怯えているのかはわかっていた。そのせいで、「正式な契約」さえも危うくなっていたし、それは、あの守護者の性質を持つ男との邂逅であいで決定的になりかけていた。


「……ッ」


 ほんのわずか、逸れた意識がうめき声で戻ってくる。目を向けると、凪の首筋から赤い色が溢れていた。呆然としたように目を見開いたまま、がくりと膝から崩れたその体をぎりぎりで抱き止める。同時に襲いかかってきた男の首を落とした。


 返り血を気にする必要もないほどの血が、彼の白いシャツを染め上げていく。


「ナギ、聞こえるかい?」

 静かに声をかけると、ぼんやりとした視線がゆっくりと彼を捉える。流れ出る血のせいか、ひどくその動きは緩慢で、幼な子のような透明な色をしていた。

「……さすがに、死ぬ?」

「まさか、俺と契約した以上、何があっても死なせたりしないよ。痛い?」

「何か、わかん……ないけど、熱い」

 ざっくりと頸動脈を正確に切り裂かれたその首に唇を寄せる。本来なら同意を得てから行うべきだが、今は一刻を争う。それに、彼に他の選択を与える気はさらさらなかった。


 いつかまた、奈落の底で会う君のために。そう誓ったあの時から。

 君を守るためなら、俺はどんな残酷な選択でもしてみせる。


ジン、僕は……」

「ダメだよ、ナギ。君に選択肢なんてない。契約をした以上、それを全うするまではちゃんと生きて、働いてもらうよ」

 口の端を上げてそう笑って言ったが、凪はいつになく静かな眼差しで見返してくる。そういえば、なぜ彼はこんなところで危機に晒されているのか。あの男がそんなことを許すとは思えないのに。


 ともかくも、まじないの言葉と契約の証をその魂に刻み込んで、傷に唇を這わせると、ふわりとその傷が光って塞がっていく。血が止まったことを確認すると同時に視線を上げたが、もう凪は意識を失っていた。


 壊れ物でも扱うようにそっとその体を抱きしめて立ち上がる。落ちた首には見向きもせず、そのまま寝ぐらへと飛ぶ。ベッドに下ろす前に、血に濡れたシャツを脱がして適当に引っ張り出したTシャツに着替えさせたが、目を覚ます気配もない。かなり血を失っていたから、その分回復に時間がかかっているのかも知れなかった。


 血に濡れた自分のシャツをゴミ箱に放り投げて着替え、一息ついたところでベッドの端に腰掛ける。

 柔らかな黒髪と、まだどこか幼さの残る滑らかな頬。目を閉じたその顔は、明らかにの面影をはっきりと宿していて、あっさりと動じる自分に苦笑が漏れた。


 どれほど長い時を経ても、結局自分の覚悟はこの程度なのだ、と。


「……迅?」

 質の違う響きの声が、それでもどうしてか、よく似たアクセントで彼の名を呼ぶ。

「お目覚めかい、ナギ?」

 ぼんやりしていた眼差しが焦点を結んで、それから手を伸ばして首の傷に触れる。そこにきちんと塞がった傷痕があることを確認して、その瞳がさらに暗い色に染まった。

?」

「そうだね、

 ニヤリと笑って告げた彼に、凪は心底嫌そうな顔をする。それでもそんな表情をできる程度には回復していることに安堵して、頬に手を伸ばす。

「ねえ、ナギ、君は何が気に入らなかったんだ? 俺は死神だし、君を守るために誰かの命を奪うことをためらわない。それが許せないのかい?」


 凪は、眉を顰めて何を今さら、というような表情をした。その率直に感情が表れる顔に、けれど彼はほっと息をつく。そんなことではないのだ。彼が凪を失いかけたのは、彼女と同じそんなことが理由ではない。


「あんたの生業なりわいは理解してる。それがあんたにとって必要なことで、どうしようもないってのも、わかってる。けど、気持ち悪いもんは気持ち悪いんだよ」

「気持ちが悪い?」

「あのなあ、普通の人間からしてみりゃ、目の前で首を落とされたり、首の骨折られたりするのを見せられるのなんて、精神的外傷トラウマ以外の何モノでもないんだよ!」

「……それだけ?」

「それだけって……あんた僕の話聞いてたのか⁉︎」

 カッとなって起き上がろうとして、目眩でもしたのかそのままベッドに倒れ込む。眉根を寄せた顔は苦しげで、そんな表情に、人とは違うはずの心臓がおかしな音を立てた。

 なおもこちらを睨む険しい眼差しを手のひらで塞いで、あやすように額に口づける。驚いたようにびくりと肩が震えて、けれどすぐに術が効いたのか、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。

 手を離すと、少しだけ蒼ざめた、けれど穏やかな寝顔があった。頬に触れて、それからふと耳に嵌められた銀色に気づいた。それに触れると、あっさりとその出どころが伝わってきた。

「……まったく、油断も隙もないと言うか」

 一見、無関心を装いながら、それでもその眼差しから容易に伝わってくる、強烈な所有欲と独占欲。あんなものを向けられて、それでも気づかないのは凪くらいなものだろう。あるいは気づいていても、安堵し、なつききっていたせいで、あの男は逆に手が出せないのか。


 いずれにしても、凪自身を守れれば、どちらでもいいかと思っていたのだけれど。


「でもまあ、なんか気に入らないのは、気に入らないんだよねえ」

 呟いて、すいと一つの黒い輪を取り出す。眠るその首にそっと巻きつけて、留め具を締める。凪は一瞬もぞもぞと眉根を寄せて身じろぎしたけれど、それでも目を覚ますことはなかった。


 黒い鋼をごく薄く延ばして作られた、死神かれの所有印。


 今まではただ降りかかる火の粉を愉しみながら払っていたけれど、さすがにこれ以上追い詰めると、結んだ絆さえも解けてしまいそうだった。だからこそ、彼が用意した最後の切り札。


 凪の存在を消し去ろうと襲いかかるいくつもの災難の原因は定かではなかったけれど、その命は彼のものだと高らかに主張して、威嚇する。

 既に試したいくつかの実験Experimentで、彼には勝算があった。自分のために、いくつもの命が消費されたと知ったら、また凪は傷つき怒るだろう。それでも——。


「やっぱり君以外は、俺にとっては大して意味がないからね」


 かつて犯した手痛い失敗ミスを二度とは繰り返さない。他の何を犠牲にしてもいいという、ある意味なりふり構わないこの想いが、悔恨から来るものなのか、あるいはもっと別の感情なのかは定かではなかったけれど。


 穏やかに眠る顔に近づいて、一度だけ深く触れる。の身代わりなのか、そうでないのかはやはり曖昧だった。


 離れてから唇に親指で触れると、柔らかな舌が名残を惜しむように追ってくる。官能的なその感触に思わず笑みが漏れて、もう一度だけ、彼はその穏やかな寝顔に自らのそれを近づけた。

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