7. だからその理由が気になるわけなんですけど
左手首の内側。はっきりと血管の浮き出るそこに、横一線の傷痕がある。この男がつけたものだ。行き倒れかけていた僕を曲がりなりにも助けてくれて、衣食住を約束すると言った。そうして、この男は「契約だ」と口にしながら、僕の手首を切り裂いたのだ。
どう考えても非常識なその行為は、けれどすぐに塞がった傷痕でさらに非常識さを増したし、そもそも常識で測れるようなものではないと、すぐに悟らざるを得なかった。
「その傷は、君と俺の契約の証だ」
「——
「ナギ、俺は別に君を傷つけたいわけじゃない」
空になったコーヒーのカップを握りつぶしてゴミ箱に正確に投げ入れながら、迅は立ち上がると、僕の前に立つ。千秋さんより背が高いせいで、僕の目線は奴の肩くらいまでしかない。だから、意識して目を上げなければ顔は見えない。どんな表情をしているかも。
「ナギ」
「……何だよ」
ココアのカップに口をつけて、肩口のあたりを見つめていると、珍しく何かを迷うような気配がした。さらりと長い黒髪が揺れて、黒い手袋を外すのが見えた。いつかも見た、やけに綺麗な手が僕の頬を包み込んで上向かせる。いつの間にか眼鏡は外していて、鮮やかな金の瞳が僕を真っ直ぐに射抜くように見つめた。
「——
低い声が、僕の名を呼ぶ。千秋さんがそうしてくれるみたいに、ちゃんとした呼び方で。驚いて目を見開いた僕に、でもやっぱり迅はいつもの人を食ったような笑みを浮かべる。何かの核心に迫るのを、あえて避けるように。
「俺には、君を庇護する理由がある」
「……契約だろ?」
「そうだよ。でもそれだけじゃない」
やけにきっぱりとした声に、目線で先を促したが、迅はただ肩を竦めるばかりだった。
「……話す気がないなら、そんな理由なんて、ないのと同じだろ」
「目に見えないものは全て存在しない? 昼間に見えない星だって、ちゃんと存在するだろう」
ごく低い位置の、上りたての満月の光を凝縮したような金色が、ひどく真摯な色でこちらを見つめていた。今さら、どうしてこいつはこんな顔をしているんだろう。
——まるで、ちゃんと僕が大切で迎えにきた、みたいな。
「えらく詩的だが、そろそろ子供は寝る時間なんで、帰してもらっていいか」
不意に割り込んだ声に、振り向く間もなく腕を引かれた。頬を包んでいた手が離れ、慣れた煙草の匂いのする胸に引き寄せられた。
「……路上喫煙は二万円以下の
首だけで見上げて言った僕に、咥え煙草で紫煙を
「さすが弁護士志望ってか?」
「安定して稼げそうでしょ」
「無理だろ」
「え……? ちょっといきなり若者の夢を挫くの良くないと思います!」
「向いてねえだろ。民事も刑事も」
「大企業の顧問弁護士でワンチャン……!」
「まあ、それならありか……?」
少なくとも、死神の事務所の事務員よりは、安定してまっとうそうな気はする。
「夢が大きいのは結構なことだが、とりあえず帰るぞ。コンビニ来るだけでどんだけかかってんだよ」
「せいぜいが三十分てとこでしょ。随分過保護だね」
後ろから投げかけられた揶揄うような声に、ぐっと千秋さんの気配が尖る。見上げた顔の眼鏡の奥の瞳は、いつになく鋭い。
「この辺りに、未成年を
「——自分なら、一生その子を守れるとでも?」
びくり、と千秋さんの体が震えたのがわかった。それで、この人にも迷いがあるのだと気づいてしまって、胸のあたりがずっしりと重くなる。
すぐ近くで、死神が鼻で笑うのが聞こえた。
「そのつもりも覚悟もないなら、返してくれるかな。何しろうっかり目を離しておくと、あっという間に死神に攫われてしまうような子だからね」
どこか愉しげな声に、僕が口を開こうとするより早く、低いきっぱりとした声が返る。
「断る」
そうして、僕の腕に自分の腕を絡めて、そのまま引きずるように歩き出した。
「ちょ、千秋さん……! 話はまだ」
「うるせえ、黙れ」
向けられた眼差しが、声以上に熱を持っていたから、僕は言うべき言葉を失ってしまう。そのままずるずると引きずられていく僕の後ろから、迅の声が聞こえた。
「チアキ」
「気安く呼ぶんじゃねえよ」
千秋さんの不機嫌な返答に返ってきたのは、奴には似合わない、ひどく静かな声だった。
「今夜のところは君に預けるけど、俺は諦めないよ」
「しつこい男は嫌われるぞ」
「何とでも。ただ、ナギのそれは、楽天的に構えていていいものじゃない」
飄々とした声の中に、何か切実なものを聞き取って、僕も千秋さんも足を止めた。
「君の『加護』はそれほど長続きしない。それに、ナギ自身の状態に大きく左右される。本当に手元に置く気なら、それを覚えておけ」
振り向くと、金色の瞳がじっと千秋さんを見つめていた。ひどく真摯な、今まで見たことのないような強い眼差しで。
「もし、凪に何かあったら、俺は君を許さないよ」
「そりゃあこっちの台詞だけどな」
「その辺りは、また今度すり合わせさせてもらうよ。じゃあ、ナギ、またね」
そう言って、死神はいつも通りの人を食ったような笑みを浮かべると、非常識にもその場からかき消えた。ぽろりと千秋さんの口から咥えていた煙草が落ちる。
「じゃじゃーん、サプラーイズ!」
ふざけてみた僕の声は、完全にスルーされた。千秋さんはがしがしと頭をかきながら、落ちた煙草を拾って携帯灰皿に入れる。それから僕の腕を掴んだまま、早足で歩き出した。
千秋さんの家に着いて、手洗いうがいをする。それからいつもの部屋に入ると、吸い殻の山は消えていたけれど、何故かやたらと机の上に鉛筆が並んでいた。全部芯が折れている。よっぽどの筆圧で書いていたんだろうか。というか、そもそも何で千秋さんはコンビニまでやってきたんだろうか。
ぼんやりと浮かぶ疑問を、けれど口に出す気にもなれなくて、そのまま続きの畳の部屋の布団の上に寝転がる。千秋さんは椅子に座ると、原稿用紙に向き合い始めた。その横顔を見るともなし眺める。無精髭の残る、割と端正な横顔。
そもそも最初に会ったきっかけは何だったろうか。行き倒れたところを拾われたのは間違いないけれど、その辺りの記憶は曖昧だった。たぶん、繰り返される死神のレイティング高めの「残酷表現」に、かなりやられていたせいで。
ガリ、と何かが引っかかる音がして、千秋さんの手が止まる。それから、なぜだか深いため息をついて、立ち上がってこちらに近づいてきた。漂う煙草の匂いで、ふとボディバッグに突っ込んだままだったコンビニ袋の中身を思い出した。
「何か、本数増えてるみたいだったから」
「未成年が買ってくるんじゃねえよ」
そうは言われても僕が持っていても仕方がないし、と寝転んだまま差し出す。千秋さんは僕の側に膝をつくと袋ごとそれを受け取って脇に置く。それから、何かのついでのように僕の腕を引いた。
顔が近づいて、顎を掴まれて、ぬるりとしたものが押し入ってくる。驚いて逃げようとしたら、右腕で抱きすくめられた上に左手で後頭部を掴まれて、さらに深く入り込まれた。目を閉じて、角度を変えて、何度も繰り返し。
結構長いことそうして拘束されて、今まで誰とも経験したことのないような激しいそれに、呼吸も上手くできなくて酸欠みたいな状態で訳がわからなくなった頃、ようやく解放された。
「——できなくはないが、別に楽しくもねえな」
「はぁ⁉︎」
ニッと笑った顔はいつも通りのそれで、だからそれは完全にさっきのの意趣返しなのだと伝わってきた。千秋さんにとっては、それ以上でもそれ以下でもなくて。それから眉を上げて、僕の濡れた口の端を親指で拭いながら、妙に愉しげに——まるであいつみたいに——笑って肩を竦めた。
「ここにいる理由が、そんなんでいいなら、またしてやるけど?」
「いやいやいやいや、遠慮しときます!」
っていうか、できるんだ、とかいやちょっと待ってやっぱりなんかおかしくない? とかまあ言いたいことは色々あったけれど、考えるのも面倒になって、僕はとりあえずジャスミン茶を飲んで、さっきの感触を誤魔化す。
それから、布団を被って寝てしまうことにしたのだった。
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