6. 不確かなそれの証明は可能だろうか

 授業を終えて、バイトに向かう。それから千秋さんの家で夕飯のご相伴に預かって、どうしようもない時は畳部屋の隅に泊めてもらう。千秋さんの家は、祖父母の代から住んでいる古い家らしく、客用布団が用意されているから宿泊にはあまり困らない。しかも布団からは日向ひなたの匂いがして、ものすごく安眠できてしまう。


 実は、あれ以来、一度も家に帰っていない。


 別にものすごく帰りたくないわけでもないけれど、自宅に向かおうとすると途中の路地でどうしても足が竦んでしまう。

 いつまでもそうしているわけにはいかないから、覚悟を決めて路地を進もうとすると、そんな時に決まってメッセージが届く。ご丁寧に、夕飯のメニューの写真付きで。


 そんなわけで、また僕はこの家の布団の上でごろごろしていた。


「千秋さんて、結構っていうか、かなり僕に甘いよね」

「うるせえ。自覚があるならちょっとは自立しろ」


 背中を向けたまま言う声は不機嫌そうだ。どうやら締め切りが近いらしい。普段は控えめな煙草の本数も増えて、机の端の灰皿には吸い殻が山のように積み上がっている。窓を開けて換気もしているから、それほど煙臭くはないけれど、見ているだけで息が詰まりそうになって、布団から起き上がる。

 ボディバッグを背負って玄関に向かおうとすると、後ろから声をかけられた。振り向くと、家の鍵と、携帯スマートフォンが飛んできた。

「……あっぶな」

「出かけるならちゃんと持ってけ」

「ちょっとコンビニ見てくるだけですよ。なんかおつかいあります?」

 玄関先で靴を履きながらそう声をかけると、ややして背の高い姿が近づいてくる。猫背なのは相変わらずで、締め切りが近いせいか、いつもより髪も伸びているし、無精髭もやや濃くて、柄の悪さが二割増しだ。


「お前、それが仮にも世話になってる相手に言う台詞か?」

「え、ちょっとだから心を読むのやめてくれます?」

「悪かった、馬鹿なお前に馬鹿じゃない認識を期待した俺が馬鹿だった」

 どうやら考えたことが口から漏れ出ていたらしい。いつからこんなに僕は迂闊になったんだっけ。

「最初からだ、馬鹿」

「え、今のも漏れてました?」

「顔に書いてあんだろ」

「……やっぱり読んでるんじゃん」


 ため息をつき返してやって、踵を返そうとしたら顎を掴まれた。無精髭だらけの顔が近づいてきて、鼻先が触れるほど近い距離で何かを探るようにじっと僕を見つめる。子供にするみたいに、健康状態を観察されているのだろうとはわかったけれど、眼鏡の奥が普段は見慣れない真剣な光を浮かべてこちらを見ているものだから、ちょっと魔が差した、のだと思う。


 ぎりぎり残っていた距離をゼロにする。目を閉じて、軽く吸いつくように、三回ほど。最後に驚いたように開いた唇の間から、少しだけ舌先を絡めて、離れる。


 ちょっと煙草の匂いがするけど、それ以外は意外と女の子とするのと感触はあんまり変わらないんだな、みたいなことを考えていると、脳天に強烈な衝撃が来た。

ってえ!」

「何、してんだ、お前は」

 一語一語を強く、地の底から響いてくるような声で言って、腕組みをしながら見下ろしてくる。猫背の伸びた長身は、割と威圧的だ。

「や、ちょっと好奇心?」

「……あぁ⁉︎」

「どんな反応すんのかな、みたいな。たぶん怒るんだろうな、と」

「……証明できて満足か?」

「そうですね。あんま興味ないですけど」


 それ以上何か言われる前に、今度こそ身を翻す。自分でも何をしたかったのかよくわからなかったけれど、とりあえず外に出る。さっぱりした空気に混じって、ひどく甘い匂いが漂ってきた。家の入り口にある金木犀から漂ってくるらしい。一度、以前の台風で早めに散ってしまった花がまた咲いていた。二度咲きというのだと、そういえば千秋さんが教えてくれたんだった。

 甘すぎる香りにくらりと目眩がして、そのせいだろう、門を出た先にあったその人影に気づかなかったのは。ぶつかって、そのまま受け止められる。包み込む腕の温かさに覚えがあって、とっさに逃げようとしたが、がっちりとホールドされていた。


「やあ、ナギ、元気そうだね」

「離せよ」

「いいじゃないか、減るもんじゃなし」

 そう言う声も顔も、屈託なくごく楽しそうなのが、また癇に障った。

「減るわ、僕のSAN値が!」


 叫んでもがくと意外とあっさりと解放される。闇に浮かぶその姿は、昼間見るより明らかに不審だけれど、奇妙に穏やかに見えた。黒いジャケットに白いシャツ。黒いスラックスは変わらないけれど、やたらおしゃれな帽子をかぶっている。それから、千秋さんによく似たシルバーフレームの眼鏡。


「何しにきたんだよ?」

「うーん、様子を見に? ちょっとおしゃべりしようよ。一杯奢ってあげるから」


 なんなら棒付き飴ロリポップもつけるよ、とブルーの包み紙のを一本差し出してくる。僕が一番好きな味のやつ。嫌味で屑で、歪んでいるくせに、そういうところだけは意外とよく覚えている。あの時は、あんなに動揺したのに、その眼がいつになく穏やかなせいで、それ以上、怒ったり拒絶したりする気力を削がれてしまう。もともと自分が負の感情を持続するのが難しい自覚もあった。


 とりあえず飴に罪はないし、受け取って包装紙を剥がして咥える。そのままコンビニの方向へと歩き出すと、低く笑う気配とともに、長身が隣に並ぶ。千秋さんよりもさらにその高い影は、そのくせどこか猫みたいにしなやかで、威圧感がない。

「ついてくんなよ」

「どうして?」

「用がないだろ」

「あるよ」

 平然と嘘をつく男だから、無視してそのまま歩みを進める。街灯の明かりに照らされて、男二人が歩く様は、少し異様だったかもしれない。以前なら、警戒しながら歩いていただろうけれど、ここは千秋さんの領域テリトリーだ。


 コンビニに入ってデザートの棚を眺めていると、死神が馬鹿みたいに生クリームをぎゅうぎゅうに詰めた例のアレを手に取って、僕を見下ろしてくる。

「随分彼を信頼してるんだね」

「あんたよりはな」

「嫌だなあ、俺が嘘吐いたことあったかい?」

「誤魔化したこととか、隠し事はいっぱいあるだろ」

「それは彼だって同じだろう? 君は彼のことを何も知らない」

「別にいいだろ。俺はあんたのことだって全然知らない」


 知っているのは、こいつが本物の死神で、僕の目の前で多くの人間を無惨に手にかけたことだけ。


「だけ、ってことはないだろう。ちゃんと契約して、君を守ってあげてるのに」

 低く笑いながら言う声に僕が顔を顰めると、やっぱり死神は愉しげに笑う。無視して、ペットボトルのジャスミン茶だけ手に取ってレジに向かう。ついでに赤い箱の煙草を二箱、あまり深く考えずにオーダーする。思ったより高くてびっくりした。


 レジ袋に全部入れてもらって受け取って、そのまま店を出る。死神がついてきていなかったから、思わず足を止めてしまったのが迂闊だった。すぐに店から出てきたそいつは両手に蓋をした紙カップを持っていて、ごく自然な感じで僕に差し出してきた。

「はいどうぞ」

「いらない」

「そう言わずに」

 ぐい、と押し付けられたカップを反射的に受け取ってしまう。店の外れの駐車場の縁石の上に腰を下ろしたそいつは、ちょいちょいと僕を手招きする。そうして笑っていれば、まあまあ無害に見えるのが尚更たちが悪い。

 脇に立ったまま、紙カップの蓋を開けて、漂ってきた甘い匂いに思わず息を飲んだ。


 ——ホットココアだった。


「甘いの好きでしょ、君」

「うっさい」

 冷たい風と、その風に乗って漂ってくる金木犀の香り。それから、ココアの匂いと握ったカップから伝わってくる温もりで脳が混乱し始める。

 僕はこんなところで何をしているんだっけ。

「ナギ」

 死神が僕の名を呼ぶ。独特のアクセントで、いつものように面白がるように。

「戻っておいでよ」

「嫌だ」

「彼は君の守護者Guardianだ。だから、まるで運命みたいな出会いだけどね」


 じっと、眼鏡の奥の金の瞳が僕を捉える。ひどく甘い声で、どこか憐れむように、さらに言葉を続ける。


「彼のそばにいれば、悪人や不運を惹きつける君の性質は無効化される。けれど、彼から離れれば、また同じことが起こるよ」

「わかってる」

 大体、千秋さんから離れて一週間。それくらいを越えると、僕の周りには異常なほど厄介事が巻き起こる。鳥のフンが空から降ってくる小さなものから、カツアゲ、さらには命の危険まで。トラブルの見本市みたいなのが僕のここ半年ほどの状況だった。

「だけど、いつまでも彼が君をそばに置いてくれる保証はどこにもない」


 何かの託宣のように、死神はあっさりと僕の不安を口にする。


「家族でも恋人でもない。いいや、万が一恋人になったって、その関係が永遠に続く保証なんてどこにもない。君は圧倒的に彼を必要とするけれど、彼にとってはそうじゃない。君は庇護を、あるいは愛を乞うしかない」


 ——本当に君は、そんな不確かな関係に頼るつもりなのかい?


 優しげな声で、まるで本当に僕を気遣っているような顔で。


「俺と君の間には契約がある。君のその性質は俺に都合がいい。だから俺は君を庇護する。相互利益関係WIN-WINで、君のその手首の傷が示す通り確かなものだよ」


 かつて、切りつけられた傷は、薄くはなっていたけれど、確かにそこにあった。

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