5. それは実は奇跡とか運命じゃなくて
気がつくと、見慣れた畳の上に転がっていた。頭の下には枕がある。頭の形にぴったりフィットする、結構いいやつだ。枕カバーも洗い立てらしいさっぱりとした肌触りで完璧。畳に肩が食い込んで、ちょっと痛い以外は。
「文句言ってるくらいなら、いい加減起きたらどうだ」
相変わらずの、もう聞き慣れた不機嫌そうな声に、だけど目を瞑ったままでいると、額に何かが直撃した。
「いってえ!」
「たかが消しゴムだろ、大袈裟な奴」
「軌道が正確過ぎんの!」
抗議の声を上げて起き上がる。どれくらい眠っていたのか、外はもう真っ暗だった。時計の針はもう八時をずいぶん回っていた。時間の経過を認識した瞬間、ぐうと腹が盛大な音を立てた。すぐに馬鹿にするみたいに鼻を鳴らす音が聞こえて、ついでに自分でも驚く。
あんな
ほとんど無意識に前髪を掴んで歯を食いしばった僕の上から、呆れたようなため息が降ってくる。鉛筆を置いて立ち上がる音がして、近づいてくるのかと思ったら、そのまま素通りしていった。
千秋さんは、あの現場を確かに見たはずなのに、何も言わなかった。ただ、前回と同じように、情けない顔の僕を車に押し込んで——その先の記憶がないから、眠ったまま運ばれたんだろう。
つまりそれは、千秋さんが僕の「事情」を知った上で、ここに連れてきてくれたということだ。それは何を意味するんだろう?
ぼんやり網戸の向こうの空を眺めていると、いい匂いが漂ってきた。しばらくして戻ってきた千秋さんは、両手に平皿を持っていた。香ってくるのはカレーの匂い。
「ドライカレー?」
「肉も野菜も摂れて手軽でいいだろ」
古い家特有の少し薄暗い、けれど温かい匂い。それは、全然似ていないけれど、家族と過ごしていた場所を思い出させて、僕は動けなくなってしまった。
コップを持ったまま立ち尽くしていると、不機嫌そうな気配が近づいてくる。面倒なら放っておけばいいのに。でもそんなことを面倒くさがる人なら、そもそも僕はここにいない。
だから、つまりはそういうことなのだ。
耳に嵌められた金属片に触れる。それは率直に存在を主張していて、形あるものにどこか安心してしまう自分を自覚したけれど、まあいいか、と何となく言い訳する。多分この人はそういうんじゃないから。
見上げた顔はやっぱり不機嫌そうで、出てきた言葉は飯は冷める前に食え、だったから、はいそうですね、と素直に頷いて後に続いた。
腹がくちると現金なもので、細かいことは何だかどうでも良くなってきた。衣食足りるって素晴らしい。そうして基本欲求が満たされると、ようやく頭も回ってついでに疑問が湧いてきた。
「千秋さん」
「何だ」
「何であの時、僕の居場所がわかったんですか?」
まあまあ非常識な体験をし続けているけれど、運命だとか、奇跡だとか、そういうものを安易に信じられるほど、僕は敬虔でもなかった。じっと見つめていると、千秋さんはしばらく静かに見返してきて、やがて、口の端を上げて不穏な笑みを浮かべた。
「ようやく気づいたか」
「え?」
ぽかんと口を開けて、けど、その言葉で何となくピンときて、後ろポケットに入れたままだった千秋さんの家の鍵を取り出す。面倒だから自分で鍵を開けて入れと渡されたそれには、白い小さな箱がついていた。
鍵は所定の場所に、と来るたびに言われていたけれど、思えばあれは——。
「小型GPSで、非接触型充電器⁉︎」
「ご名答」
「うわっ、信じらんねえ!」
そりゃあ、ただの優しいお兄さんだと思っていたわけじゃないけれど。まさか常にトラッキングされてたとか。
「誰のせいだと思ってんだ、馬鹿。毎回毎回行き倒れやがって」
「だからって、勝手に位置情報把握するとかマジかよ! いつも見てたんですか⁉︎」
「そんなに暇じゃねえよ。だいたいなあ、何か嫌な予感がするなと思って行ってみりゃあビンゴじゃねえか。なんだあのスプラッタ映画みてえな野郎は」
向けられた視線は思いの外鋭くて、でも、怒っているというよりはそれは状況を把握しようとしている時の顔だった。言葉に詰まった僕に、千秋さんは少しだけ逡巡して、深い深い嫌味なため息をついてから、何かを僕に放って寄越した。
「まあ、そう言うだろうと思ってな」
それは、りんごがトレードマークの小さめのスマートフォンだった。多分ちょっと古いやつ。
「中古の安いやつだが、一応バッテリーも変えてあるから数日は保つだろ。ちゃんと毎日充電しろよ」
「え、でもこれ持ってたら千秋さんからいつでも位置把握されるんじゃないの?」
「ああ、ファミリーアカウントに入ってるからな」
「やっぱりかよ!」
ファミリーという言葉に、なんかこう落ち着かない気分になったのは、でも僕だけじゃなかったらしく、千秋さんは懐から煙草を取り出すと、火を点ける。ゆらりと煙を立ち上らせて一息吸ってから、ちょっとだけいつもとは違う笑い方をした。
「
それに、とひどく静かな声で続ける。
「そんなもんで探させるな。必要があれば連絡する。お前もそうしろ」
——この人は、そうやってあっさりと僕の心に切り込んでくる。
息が止まるほど真剣な眼差しは、でも一瞬で逸らされて、あとはただいつも通りに煙草を吹かしている。言葉を失ったまま答えられない僕を、千秋さんは追い詰めない。多分、全部お見通しだから。
ちょっとぼさっと伸びた髪に、無精髭。シルバーフレームの眼鏡の横顔は、改めて見ればやっぱり結構
そういう全部を含めて、この人モテるんだろうなあとか唐突に思ったりした。心臓が変な風に動いたような気がするけど、多分ただの疲労だ。
頭を一つ振って、それから手の中の四角を眺める。
「……これも誕プレ?」
「出世払いだ」
「出世、できるかなあ……」
「できなきゃ、体で払ってもらうぞ」
低い声で言われた言葉に、え、と思わず固まった僕に、千秋さんの方が何だか驚いた顔をした。それからがしがしと頭をかく。
「アホか、冗談に決まってんだろ」
「……そういえばアホウドリって、アホみたいに寄ってきて捕まっちゃうからアホウドリって言うらしいですよ」
すごくどうでもいい雑学を披露した僕に、千秋さんはもう面倒臭くなったらしく、立ち上がって机に向かう。その大きな背中にかける言葉を探したけれど、結局見つからなくて、僕はふと自分の耳に嵌められた銀色のそれを思い出す。
「……まさか、これにもGPS仕込んでないですよね?」
「バレたか」
「嘘でしょ⁉︎」
大声を上げた僕に、千秋さんは今度こそ馬鹿にしたように笑う。
「嘘に決まってんだろ」
この人ならやりかねない、とじっと見つめたけれど、千秋さんはいつもの人を食ったような笑みを浮かべるばかりで、そのまま僕に背を向けて鉛筆を走らせ始めてしまった。
結局真実がどうなのかはわからなかったけれど、多分僕はこの銀色を外さないんだろうな、と考えて、そんな自分にちょっと頭を抱えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます