4. 多分、それを人は運命とか呼ぶんだろうけれど

 きっかけは何かの拍子に顔が近づいて、千秋ちあきさんの耳に穴が空いているのに気づいたことだった。


「千秋さん、ピアスとかすんの?」


 耳たぶに顔を近づけてそう聞いた僕に、千秋さんは犬の子でも追い払うように手を振った。失敬な。

「まあな。最近はあんまりしてないから、ほとんど塞がっちまったけど」

「まだ開いてるけど」

 よく見ると、一つじゃなかった。

「結構やんちゃしてました?」

「別に、普通だろ」

「まだ持ってる?」

 重ねて尋ねると、ようやく鉛筆を置いてこちらに向き直った。若干そのこめかみがひきつっているような気がするけれど、あんまり怖くないのは、きっともうこの人の本を読んでしまったせいだ。


 ひらひら手を振って、へらへら笑っていると、不機嫌でいるのも面倒になったのか、呆れたようなため息をつかれた。机の引き出しを開けて何かの空き箱らしきものを取り出し、こちらに放り投げてくる。

 がさがさと乱雑な音のするそれを開けると、概ね銀色の物体がたくさん入っていた。装飾品と言うよりは、ただの輪っかだったり、金属片みたいなものが多くて、しかもかなり黒ずんでいるものも多かった。

「結構びてんな」

 自分でも覗き込みながら、千秋さんが肩を竦めてそう言った。しばらくつけていないと言うのは嘘じゃなかったらしい。

 銀色の綺麗な金属片みたいなやつを手に取って眺めていると、不意に千秋さんが意地悪な顔で笑った。すごく嫌な予感がして、離れようとすると、耳を掴まれた。

「したいなら、開けてやろうか?」

「開けてって……どうやって……?」

「そりゃもうぶっとい布団ふとんばりで」

「布団針って何⁉︎ そもそもあんたもそうやって開けたの⁉︎」

「まさか、ちゃんと耳鼻科で開けてもらったさ。化膿とかしたらとかやだしな」

「なんで僕で試そうとすんの!」

「だって、お前病院で開けてもらう金も無いだろ」

「だからって痛いのヤだし、そもそも化膿とかしちゃったら余計に医療費かかるだろ!」

「そんなヘマしねえよ」

 今にも引き出しから針を取り出して襲いかかりそうなマッドサイエンティストの顔で笑うその腕を振り払って、ずざざざっと音がする勢いで壁まで後ずさりした。

 すぐに冗談だ、と言いながら千秋さんは肩を竦めたけれど、その顔がやっぱりどこか残念そうに見えたのは、多分僕の気のせいじゃないと思う。



 それが理由というわけでもないけれど、それから一週間ほど、何となく千秋さんの家に寄りつかなかった。幸い特に厄介事トラブルも起こらず日々は過ぎていった。それがもはや奇跡的なことなのは、僕とだけが知っていることだった。


 でも、何となく予感はしていたのだ。


 大学を出て、帰り道を歩く。奨学金とバイトで賄える安アパートは裏路地にあって、まあまあ治安が悪い。とはいえ似たような境遇の学生はたくさんいたし、周囲に顔見知りがいないわけじゃない。だから、平気平気と自分に言い聞かせていた。あと少しで家に辿り着くというところで、頭の脇を出刃包丁がかすめて飛んでいって、木造の柱に突き刺さるまでは。


 とっさに身を翻して、後ろから体当たりしてきた影を避ける。本当に、なんていうか経験の賜物だよな、と思う。ついでに、千秋さんのところでまあまあいい食生活をさせてもらったおかげで、走れるくらいには体力が回復していた。


 けど、その油断が逆に命取り、だったかもしれない。ガッと予想以上に強い力で壁に叩きつけられて、喉を締め上げられる。どう見ても素面しらふじゃない、血走った目に、荒い呼吸。けれど酒臭くはなくて、だからこそむしろもっとやばい状況なのは明らかだった。

「お、お兄さん、何か御用ですか?」

「金出せよ」

「え、えーと、些少ですがこちらでよければ」

 命と金なら断然前者が重いことを僕はもう学んでいたので、素直に財布を差し出す。そのまま引き下がってくれないかなあという僕のささやかな望みは、けれどまあ予想通り裏切られた。

 受け取るなり、さらに男は僕の喉を締め上げる。生白い腕の、どこにそんな力があるのか、気がつけば足が宙に浮いていた。やばいかも、という思いが半分。あとは、またか、というのが半分。


 不意によぎった影に、やめろ、と声を上げる暇もなかった。


 ふっと僕を締め上げていた腕から力が抜けた。とっさに、なんとか力を振り絞って横に飛び退る。ごとんと何かが落ちると音とともに、びちゃりと嫌な音が響いた。


「相変わらず、生きのいいやつを釣ってくれるねえ、ナギ」


 座り込んで、げほげほと咳き込む僕の頭の上からたのしげな声が降ってくる。むせ返るような、錆びた鉄みたいな匂いに、反射的に目を瞑る。自分が、もうに耐えられないと分かっていたので。

 ごとり、と何か重いものが落ちる音がした。さらに血臭——そうだ血だ——が強くなって、くらりと目眩がする。地面に両手をついて、わざと何かが転がってくる気配をから顔を逸らそうとして、失敗する。ぐらりと地球が回って、ああ、倒れるなと思ったところで腕を掴まれた。

「——離せッ!」

 それだけは、嫌だと思った。こんなものを見続けることで——側にいて、凄惨な場面を見せ続けられることで、自分の中で壊れていく「何か」に気づいてしまうのは。

 顔も上げずに振り払おうと腕を振ると、けれど今度は強い力に引き寄せられて、そこにいるはずのない声が聞こえた。


「馬鹿、俺だ」


 不機嫌そうな無精髭の顔と、そういえばあいつとよく似たシルバーフレームの眼鏡。それこそ馬鹿みたいに目を見開いて口を大きく開けたままの僕に、千秋さんはもう一度馬鹿、と低く吐き捨てた。

「なん……で、ここに」

 だが、返事が返るより先に、くつくつという笑い声と共に愉しげな声が割って入った。

「おや、ようやくお目にかかれたね」

 反射的に声の方に目を向けてしまい、後悔したけれど遅かった。黒いコートに白いシャツ、黒いスラックス。長い黒髪は真っ直ぐで、今は眼鏡をしていないその双眸は人間にはありえない金色。おまけに血に濡れた大鎌を肩にかけた、ごく非常識なその姿。


 足元には、切り落とされた腕と、胴と離れて黒い塊に成り果てた、それ。


 吐き気を感じて口元を押さえたけれど、それよりも腕を引かれた。駆け出しているのだと気づいて振り返ると、あいつは何でか余裕の表情で手を振っていた。低い声が、どうしてだかはっきりと耳に届いた。

「ナギ、必要になったら、いつでもどうぞ。契約はまだ有効だよ。受け取った分のは、ちゃんと払うから」

 その言葉に、心臓がずきりと痛んだ気がした。対価を払ってくれ、と初めにそう言ったのは、僕の方だったのに。


 けれど、深く考える時間も与えられず、ただ僕は千秋さんに腕を引かれてその場を逃げ出した。



 結構な長い距離を走った気がしたけれど、ふと見ればそこは以前千秋さんに拾われた大学からほど近い公園で、だからほんの数分だったのだろう。けれど心臓は馬鹿みたいに速い鼓動を打っていて、いつまで経っても落ち着いてはくれなかった。それどころか、呼吸がおかしくなってきて、まるで溺れてるみたいに錯覚する。同時にさっき見た光景がフラッシュバックして、完全に呼吸の仕方を忘れた。

「——なぎ

 溺れた僕の意識を、低く柔らかい声が引き戻す。ちゃんと僕の名前を、かつてそう呼んでくれた人たちと同じように、ごく正しく。あいつみたいな常に揶揄うような響きじゃなくて。

「凪」

 顎をぐいと持ち上げられて、間近に迫っているはずの顔がよく見えなくて、そこで僕はようやく自分が馬鹿みたいに涙をぼろぼろ流していることに気づいた。呼吸がうまくできないのが、声にならない嗚咽のせいだとも。


 頭を胸に引き寄せられる。もう慣れた、銘柄まで知っている煙草の匂いのするそこで、僕は多分、父が死んで以来、初めて声をあげて泣いた。


 まるで子供みたいにそうやって泣いて、もう泣き疲れた頃、突然千秋さんが僕の耳を引っ張った。驚いて顔を見上げると、ぐいと耳に何かが嵌め込まれる。

「いってぇ!」

「うるせえな、ちょっとは我慢しろ」

「我慢て、いきなり何だよ⁉︎」

 触れてみたそこは、硬い感触があった。千秋さんの手で温もったそれは、多分金属の何か。自分では見えないから、どんな色をしているのかもよくわからなかったけれど。

 疑問を正確に読み取って、千秋さんは僕の手を取ると、小さな物を手のひらに落とした。それは銀色のごくシンプルなイヤーカフだった。

「……何で?」

「欲しかったんだろ」

「や、まあ欲しかったですけど」

 いきなりプレゼントとかちょっと意味わかんないんですけど、と思ったけれど口に出したら取り上げられるのは目に見えていたから、ぎゅっと握り込んで、もう一度その顔を見上げる。

「じゃあ、誕プレってことで」

「……いつだよ?」

「実は今日です」

 しれっと言った僕に、千秋さんは明らかに怪訝そうに顔を顰める。

「嘘だろ?」

「本当です」


 信じられないくらいの偶然の重なりを、一般的に何と呼ぶのか、本当は知っている気がしていたけれど。僕はぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭って、今度こそニッと笑ってみせる。


 千秋さんはそんな僕の顔を見て、何か言いかけて、けれど呆れたようにため息をついた。そうして、もう一度この馬鹿、と呟いてから僕の頭を引き寄せた。

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