3. 「それ」をなんて言うかなんて知らないけれど

 よく眠れないし食べられない。そんな状況も続くと日常になってしまうということを、身をもって知った。何を見ても美味しそうに見えないし、一応口に入れてみても砂みたいな変な味がする。砂を食べてみたことなんてないからまあ比喩だけど。


 そうして、大学からの帰り道、門を出たところで動けなくなった。が、なんとか気力を振り絞って、なるべく人目につかないように、近くの公園まで移動して木陰に座り込む。神社のすぐ近くのその公園は、小さな遊具がいくつかあるだけで、都心だというのに鬱蒼と茂った木々のせいか、寄り付く大人も子供もいないみたいだった。


「なんか、こんなこと前にもあったな」


 あれは、歌舞伎町のうらぶれた路地裏だったけれど。あの時、差し出された手をとってしまったことが良かったのか悪かったのか。

 ずるずると木の根本に倒れるように寝転んで上を見上げると、ひどく木漏れ日が綺麗に見えた。なんだっけ、死ぬ間際に星が綺麗に見えるとかそんなやつ。まだ昼間だけど。

 やたらとキラキラして見えるその光をぼんやりと眺めていると、不意にガサガサというなんとも無粋な音と一緒に白いものが視界を遮った。


「またやってんの、お前」


 あ、やばい、と思って逃げ出そうとしたが、手をついて体を起こしただけでぐらりと地球が回った。いや地球は常に回ってるから、おかしいのは僕の三半規管で、ついでに支え損ねたせいでこのあとは地球に頭部を直撃だな、なんてことをやけにスローな時の流れにのって考えていたけど、衝撃はやってこなかった。

「……あれ?」

「あれ、じゃねえよ。何やってんだ、お前は。馬鹿なのか?」

 地面に衝突しそうになった頭を、思ったより厚い胸板に引き寄せられていることに気づいたけれど、僕の舌は壊れたラジオみたいに勝手に言葉を紡いでいた。

「ええ、馬鹿という人も馬鹿だし、馬鹿な行動をとる人間を馬鹿と呼ぶのであれば——」

「うるせえ、黙れ」

 訊かれたから答えたのに横暴な、というへらず口は、恐ろしいほど低い声と、えらく険しい眼差しに阻まれて行き場を失ってしまった。間近にあるその顔を見ればいつも通りなのに、眼に浮かぶ光だけが、こちらを切り裂きそうなほどに鋭い。


 ああ、だから僕はこの人が嫌いなんだ、と心の中だけで呟く。多分口に出したら、今度こそ殴られる気がして。


 ほとんどなすがままに放り込まれた車の助手席でぼんやりしていると、この馬鹿、ともう一度低く呟かれた。

「三週間だ。たったそれだけで、どうやったら死にかけるんだ、お前は」

「別に死にかけてなんかないでーす。ちょっと行き倒れてただけで」

 笑い事にするつもりで軽く言ってみたけれど、返ってきたのは極寒の眼差しだけだった。


 車は首都高に乗って、そのままスピードを上げて走り抜けていく。平日の昼間だからそこまで混んでいないけれど、いったいどこへ向かっているのだろうか。疑問は浮かんだけれど、不安はなくて、気がつけば完全に寝こけていたらしい。いつの間にか止まっていた車の中で、呆れた顔に揺り起こされた。

 シートの温もりが心地よくて、このままもうちょっと寝ていたいなと思ったけれど、無情にも許されず、ドアが開いて引っ張り出された。はたからから見たら完全に拉致事件だ。

「見えるか馬鹿」

「え、じゃあ何ですかね? デート?」

 へらへらと笑ってそう言うと、こちらを見下ろす視線が極寒の地の氷河もかくやというくらいに冷え切って、それからなんだか怪しく光った気がした。


 顎を掴まれて、無精髭の残る顔が近づいてくる。銀縁眼鏡の奥の眼は恐ろしく剣呑で、でもその大きな手の温かさだとか、鋭角的な顎のラインだとか、そんなものに目を奪われて呆然と見返していると、ぎりぎり鼻先が触れるか触れないかくらいのところでぴたりと止まって、それから呆れたような声が聞こえた。

「寝ぼけてんのか?」

 手を離し、がしがしと頭をかきながらきびすを返して、駐車場の先の横断歩道を迷いなく渡って進んでいく。ちょっとだけ逡巡して、けれど帰るあてもなかったから後を追う。

 都立の植物公園の名前が書かれた看板で、その場所の名前を知った。

「デート?」

「取材と気分転換だ」

「なんで僕がご一緒に?」

 言った瞬間、ぎろりと睨まれて、反射的に両手を上げて降参の意を示す。そのまま花の写真がついたチケットを渡され、ゆるっとした入場口を通って園内へと入る。


 両脇を林に囲まれた道を進んでいくと、急に視界が開けてぱあっと西洋風の情緒溢れる鮮やかな庭園が見えた。下に降りていく階段があり、その先には長方形を囲むように噴水が両脇から弧を描きながら涼やかな水音を響かせている。こう言っちゃ何だけど、まるで天国の風景みたいに見えた。


「神さまなんて信じてないだろ」

「心を読むのやめてくれます?」

「だだ漏れてんだよ」

 思わずじっと見つめた僕の視線を平然とかわして、そのままさっさと先に進んでいってしまう。そうして、その噴水の奥にある、何やらギリシャ建築みたいな屋根の下のテーブルにバックパックを下ろすと、財布を僕に放り投げてきた。

「アイスコーヒーと、あとなんか適当に」

 視線の先にはひらひらとのぼりの揺れる小さな売店があった。

「大人買いしちゃってもいいんです?」

「食えるならな」

 ニッと笑った顔はようやくいつもの意地の悪いそれで、ホッとしてしまった自分に呆れながらも、大人しく売店に並ぶ。アイスコーヒーと磯辺もち。それから名物らしき薔薇ソフトクリームとたこ焼きを買って戻ると、あからさまに嫌な顔をされた。

「ちゃんと全部食えよ」

「え、そんなに?」

「名物に美味いものなしって言うだろ」

「いやそんな今時まさか」

 薄紅色のソフトクリームは、実際食べてみてまあ色々思うところはあったけれど、まあでも好きな人は好きな味かもしれない、くらいだった。


 財布を返すと、こちらを見向きもせずにアイスコーヒーに口をつけて、あとは噴水を眺めながら、原稿用紙を広げて書き始めた。

 ちょっと呆気に取られて、けれどまあ、重厚な石造の屋根の下は風が吹いて心地よくて、この人のエアコンのない家と環境的にはそう変わらない気もしたから黙って磯辺もちとたこ焼きを食べた。こんなに食べたのはずいぶん久しぶりだ。ちゃんと醤油とソースの味もする。この三週間が何だったのか、と自分でも呆れるくらいに。


 食べ終わってしまうとすることもなくて、昼寝でもするかと伸びをしたら、視界に単行本が一冊滑り込んできた。

「暇なら読んでたらどうだ。怖くないぞ」

「ホラーなのに怖くないの、致命的じゃないです?」

「あいにくと重版御礼だ」

「おや、さすがの売れっ子作家さま。ごちそうさまです」

 にっこり笑って見せたけれど、珍しく相手の顔が緩まない。渋々その本を受け取って、読み始めると、向こうはまた原稿用紙に向き直った。


 でも、二ページ目でもう後悔した。とはいえ確かに惹き込まれるほど面白くて、そして最後まで読んで、もう圧倒的に絶望するくらい後悔した。


 最後のシーンが、湖に沈んでいく少年の魂とそれを最後まで見つめ続けた主人公だなんて。


 わかりやすい個人宛のメッセージを一般流通物に載せるんじゃねえよと思いながら立ち上がった僕は、後ろから腕を掴まれてふらついた。背中を受け止められて見上げた顔は、ひどく静かだった。

千秋ちあきさん、離して」

「離さねえよ。逃げんな馬鹿」

 この人に何回馬鹿と言われただろう。それでも抵抗しようとした僕を、あっさりと千秋さんは引き寄せる。間近に迫った顔は、ひどく静かでそのくせ、わかりやすく怒りを充満させていた。


「馬鹿だな、なぎ


 ほとんど初めて呼ばれた自分の名前は、どこか他人みたいな響きをしていた。


「どうすりゃお前は納得するんだ?」

「何を——」

「抱いてやりゃあいいのか? それでお前は真っ当に生きていけるのか」

「ちょ、ちょっと待って何の話してんの⁉︎」

 流石に話の先が読めなくて声を上げた僕に、千秋さんはもう一度馬鹿が、と吐き捨てるように言う。

「ようやく普通の生活を始めたのかと思いきや、行き倒れてやがる」


 ああ、そのことか、とやっぱり他人事みたいに考える。


「——あなたは、僕のことを何も知らない」

「だから何だ」

 決め台詞のつもりで言った言葉を、あっさりと切り捨てられた。それでも、ここで踏みとどまっておかないと、後で絶対に後悔する気がしたから、何とか声を振り絞る。

「僕はあなたに助けてもらう理由なんて何一つない」


 無条件に庇護してもらえると思うほど、もう子供でもない。いつか失うことに怯えるくらいなら、最初からない方がいい。


 そう続けた僕に、千秋さんは馬鹿にしたように鼻で笑う。

「お前が何か事情を抱えてるのなんか一目瞭然だ」

「——なら」

「だが、少なくとも俺のところに入り浸っている間、何も起きなかったんだろう? だったらもう大人しくそばにいろ」


 掴まれたままの腕をじっと見下ろす。それから言われた言葉を吟味ぎんみして、改めて回路がつながって、え、と声を上げると、ようやく手が離れた。


「え、ちょっと待って千秋さんて僕のこと好きなの?」

「ちげーよ馬鹿。どの回路がどう思考したらそうなるんだよ?」

 いやむしろそっちの方がまだ納得しやすい気がするんだけど、じゃあ結局何なんだ。

「俺は根が善良で親切にできてるからな」

「はあ……?」

 眉根を寄せていると、どっからどう見てもただの親切なお兄さんには見えない無精髭の顔で、むしろ完全に悪役っぽく口の端を歪めて笑う。

「せっかく懐いた小動物が行き倒れてりゃ、気にするだろうが」

「小動物……つまり可愛い?」

「うるせえ馬鹿」

 上げられた右手に思わず身を固くした僕を見てニヤリと笑って、それからぐしゃぐしゃと髪をかき回された。


 結局この人が何を考えているのかは全然わからなかったけれど、とりあえずはそれでいいのか、とその手の温かさのせいでなんとなく思ってしまったのだった。

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