2. Reminiscence - 君が逃げ出した理由は(死神視点)

 ぎらりと不穏な輝きを放つジャックナイフが凪に届く直前で、得物それを握っていた男の首に刃をかけて手前に引く。あっさりと、熟したバナナを切るようにすらりと綺麗な切り口を見せて落ちた首に、凪が目を見開いて、それから顔を背けるのが見えた。


 心底嫌そうな顔で、それでも真っ直ぐに彼を見据えていた、ほんのわずか淡い、紺がかった瞳。それが、こちらを見なくなったのはいつからだったろうか。


「大丈夫、ナギ?」

「触んな」

 伸ばした手を、思いのほか強い力で振り払われる。俯いた顔は、それでもはっきりとわかるくらい青ざめていた。


 死神と、その共謀者Collaborator。理由は不明だが、次々となぎに襲いかかってくる連続殺人者シリアルキラーや口にするのもはばかられるような悪行を重ねてきた「悪人」たち。

 そんな人間たちの命を狩る、言ってみれば良き相棒パートナーとしてずっとやってきたと思っていたのに。まあ、彼自身は自分が決してタイプではないことは自覚していたけれど。


「どうしたの、ナギ?」

 

 黒いスーツに背の半ばを覆う長い髪。普段はかけているシルバーフレームの眼鏡も今は外しているから、人にはありえない金の双眸そうぼうあらわになっている。

 その上、一般人が見れば何かの冗談のような、血に濡れた三日月型の刃の大鎌を背負ったまま、足元に広がる血溜まりを踏み越えて近づこうとした彼に、凪は顔を背けて後ずさる。


 まるで、死神に怯える人間のように。


 その、余りにはっきりとした拒絶に、遥かな昔に封じ込めた心のどこかが痛んだ気がして、足を止める。

「——無理だ、もう」

 絞り出すような声は本当に苦しげで、遠い記憶を呼び起こす。

「何が?」

「あんたには、わかんない……んだよな」


 絶望的な声で呟きながらこちらを見上げた顔は、それでも怒りや憎しみといったわかりやすい感情を浮かべてはいなかった。苦しげに眉根を寄せて、助けを求めてすがるような光を浮かべる瞳に、心臓がおかしな音を立てる。


 百九十五センチの彼からすれば、二十センチほどの身長差のある凪の顔を覗き込もうとすれば、必然的にかがむ形になる。まるでキスでもするように顔を寄せた彼に、凪はさらに眉根を寄せた。そんな表情に肩を竦めながら、彼は問いを重ねる。


「何をわかって欲しいの、ナギ? ちゃんと言ってくれないと俺にはわからないよ。おしどり夫婦ってわけじゃないしね」

 片目を瞑ってふざけてそう言ってみると、ほんの少しだけ表情が緩む。あとは棒付き飴ロリポップでも差し出せば、うんざりしたようなため息をつきながらも、仕方がないと頷いてくれるのが彼らの日常いつものことだったのに。

ジン

「何だい?」

「あんたは、屑野郎だけど、でも家族以外で、初めて手を僕に差し伸べてくれた人だから——」

 苦しそうに、どこか切なく笑うその表情には、なぜか見覚えがある気がした。遠い記憶の底から蘇りそうになるそれを掴む前に、凪が言葉を続ける。


 だから、それでも僕は——。


 告げられた言葉を理解するのにしばらくかかった。何も言えずに立ち尽くす彼に、凪は泣き笑いのような表情を浮かべると、不思議なほどきっぱりと続けた。


「だから、もう側にはいられない」

 

 数歩後ずさりした後、視線を断ち切ってそのまま駆け出してしまう。それがどれほど危険なことか、本人がわかっていないはずもないのに。

 不規則な鼓動を打つ心臓を無視して、目を閉じて気配を探る。淡く光る透き通った色と、規則的に聞こえる弦を弾くような音。それで、まだ大丈夫だ、と確信する。少なくとも彼が望めば凪を追うことはできる。本当に凪が助けを必要とするときには。


 誰かの身を、これほどに案じる自分に違和感を覚えて、そうして一つの可能性に思い当たる。


「『』……?」


 我知らず口元を押さえて、ようやくその可能性に思い至る。むしろどうして気づかずにいられたのか、とあまりの迂闊うかつさに目眩めまいがした。

 まずは確認しなくては、と眼鏡を取り出してかけながら考える。もう二度と、あの時のような手痛い失敗ミスをしないためにも。


「ねえ、本当にあの子が君の——なら、俺ができることは何だろうね?」


 虚空そらに向けて問いかけても、答えが返らないことはわかりきっていたけれど。


 そうしてあらゆる伝手を辿って彼が全てを確信し、もう一度凪に再会したのは、それからおよそ二月後のことだった。

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