死神の逃亡者
橘 紀里
Main story
1. 僕の愛したアップルパイと無精髭
「えーと、『最終回のワイルドガイと遊園地』?」
「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』」
「なんか惜しい感じはしましたね。次は……と『国境と晴れの日』?」
「『国境の南、太陽の西』」
「うん、近い。次、『すごく透明な水色』」
「『限りなく透明に近いブルー』……って何だよ村上春樹しばりかと思ったら、村上龍が交じってくんのかよ、雑すぎんだろ⁉︎」
「僕に怒らないでくださいよ」
白いカードをトランプのように手元で広げながらそう言った僕に、相手はふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
僕が読み上げていたのは、最近バイトを始めた図書館で渡された、レファレンス練習用の過去問題だ。図書館の受付では、探している本が見つからない人や、調べ物をしたい人の話を聞いて本を探したり、適切な資料を紹介してくれたりするサービスも行っている。
資料の紹介はにわかバイトの僕にはまあ無理なので、目的の本を探す方を手伝うように言われたのだが、何しろ問い合わせしてくる人はタイトルもわからない状態で、うろ覚え選手権! みたいな感じだ。わかる人にはその断片的な情報でもすぱっとわかってしまうらしいのだが、いかんせん読書量の足りない僕ではノーヒントに等しい。
そんなわけで、僕は本に詳しい知り合いに、この宿題のサポートをお願いに来ていたのだった。
無造作に伸びた髪に、頬にはまばらな
「おい、お前いま完全にインテリヤクザみたいとか、失礼なことを考えただろう?」
「え、やだなあそこまではっきりとは考えてませんでしたよ?」
にっこりと作り笑顔で
「すみません考えてました」
「正直でよろしい」
頬を緩めながら立ち上がって、ぽんぽんと頭を撫でられた。
そうして立ち上がると、床に座っている僕からは見上げるのに首が痛くなるくらい背が高い。その割に威圧感がないのは猫背のせいだろうか。トイレに立ったその背を見送ったまま、ぼーっとそちらを眺めていると、戻ってきて首を傾げる。
「何だ?」
「いや、でっかいのに威圧感がないな、と思って」
今度は正直に答えたのに、消しゴムが飛んできて額に直撃した。使い慣れたアイテムのせいか、
「口は災いの元って知ってるか?」
「
初めて会った時、せっかくだからとサインまでしてくれた本をネットで売ったら思いのほか高額で売れた。味を占めた僕は、ほくほくしながら数冊おねだりしていたのだが、後日本人にバレてこっぴどく叱られ、それ以来一冊もくれなくなってしまったのだ。残念無念。
小遣いの少ない身では、本に回す予算などなく、知り合いの小説家の本を読む、という初体験は、さらに遠ざかっているのが現状だ。
「お前もうちょっと教養とか常識とか共感性とか身につけないと、本当に苦労するぞ」
「いや、千秋さんにそれ言われたくないし。僕、けっこううまいこと世の中渡ってますし」
ひらひらと両手を上げて、へらへらとそう笑った僕に、だけど、千秋さんはへっとまた口の端を歪めて笑う。意地悪な顔だ。
「上手いこと世の中を渡ってる陽キャ野郎はこんなとこに入り浸ってねえよ」
割と率直に痛いところを突かれてぐっと詰まる。もう間もなく夏休みも終わる九月。何しろこのご時世だから浜辺でパーリィとまではいかないまでも、マスクをつけて慎ましやかにデートする同級生は数知れず。そうでなくともマックやカフェで宿題を共にするとか、物理的には無理でもオンライン飲み会とか、まあそんな風にみんなそれなりに楽しんでいたりはする。
僕はと言えば、数えてみたら、この夏休みの約五割をここで過ごしていた。あと半分はバイトで埋まっていたから、よく考えたら
「千秋さん、もしかして寂しいの?」
「馬鹿か。あ、しまった馬鹿に馬鹿と言う愚を犯しちまった」
「失敬な。僕だって自分が馬鹿なことくらいは自覚しているので、今更言われたところでノープロブレムです」
「某国立大に入っておきながら、馬鹿とはご謙遜がすぎるが本当に馬鹿だなお前は」
「馬鹿とは馬鹿な行いをする人が馬鹿なのです。故に僕は馬鹿です」
馬鹿がゲシュタルト崩壊しそうだ。それでも馬鹿な振る舞いをしていれば、ここにいてもいいと許されるような気がして、だから何となく僕はやっぱりこの人の本は読まないし、ここでこうして馬鹿な会話を続けている。
千秋さんはやれやれと呆れたようにため息をついてから、また机に向き直る。この人はまあまあ若いくせに、小説を原稿用紙で手書きで書いている。しかも鉛筆で。
文豪気取りか! と呟いたらまた消しゴムが飛んできて正確に眉間にヒットした。
いったい僕はこんなところで何をしてるんだろうか。エアコンもついていない、扇風機だけが頼りの、でも風が通って妙に居心地のいいこの部屋で。
気がつけばうとうととしてしまっていたらしい、何やら乱雑に肩を揺すられる感覚で目が覚めて、見れば
「いくら何でも足で起こすのは、あまり人道的行いとは言えないのでは」
「しょうがねえだろう、手が塞がってるんだから。ちょっとその
見上げた両手には何やら皿を持っている。視線の先のごく使い古されて、けれども味わい深い風情の卓袱台の上にはレファレンスカードが散らばっていた。目を擦りながら起き上がってカードをまとめると、千秋さんは持っていた皿を置く。
「そういえば、宿題は終わったのか?」
「ああ、えっとあと一枚は、『僕の愛した——』アップルパイ?」
手持ちの未解決のカードを読み上げながら、ふと卓袱台の上に目を向ければ、皿の上にのっていたのはつやつやとした茶色い編み目に、溢れんばかりの
しかも、たぶん、いや間違いなく、なんかこないだテレビで見たばかりの、ワンカット八百五十円という暴力的な値段のするやつ。
「『僕の愛したアップルパイ』? さすがに聞いたことねえな。もうちょっとヒントはないのか?」
「あ、違……『僕の愛した二次方程式』です。いやなんで突然アップルパイ?」
「『博士の愛した数式』だろ。なんか食いたそうにしてただろ、こないだ」
お昼の情報番組に登場したアップルパイがものすごく美味しそうで、食べたいと思ったのは確かだった。けれど、何しろ学費を
「ろくに食い物にも興味を示さないお前が、珍しいな、と思ってな」
示さない、わけではなく、示すほど普段は余裕がないのが現状で、きっとこの無精髭はそれをわかっているのだろうけれど。
「食わないのか?」
「食う!」
こちらの皿にフォークを差し出してきたのを見て、慌てて自分の腕に囲い込む。
フォークを突き刺したパイはさくりと割れて、ぽろぽろと崩れていく。中の林檎はちょっとカットが大きすぎてナイフでもないと綺麗に食べられない気がしたけれど、もういいやと手でもってかぶりつくと、バターの風味とサクサクした食感のパイと、甘く煮た林檎とカスタードクリームが程よくマリアージュして、もうなんていうか至福の味だった。
こんなにちゃんとしたデザートを食べたのなんて、いつ以来だったっけ。
ふと、低く笑う声に目を向ければ、眼鏡の奥の目がひどく優しく笑っていた。ほんの断片的な情報から、相手の状況を読み取って的確に対応してしまう。きっと、この人の本もそんなふうに僕の中に切り込んでくる確信があったから、やっぱりまだ手に取る気にはなれなかった。
「次の新刊はサインしてやろうか? ホラーだから怖くないぞ」
何を僕が怖がっているのか、ちゃんとわかった上でそんなことを言う。あんたのそういうところが嫌いなんだ、とぼそりと呟いたけれど、はいはいといなされる声が聞こえたから、たぶんきっと失敗だったんだろうと思った。
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