11. もしかして、そういうことなんですかね?
突然降り始めた雨は、ざあざあと音を音を立てて地面を跳ねる。天気予報では午後の予報は雨だったらしく、意外とみんな動じず傘を広げて歩き出していた。
あれから迅とも、そして千秋さんとも会っていない。この輪っかの効能を確認したいから、とそう言ったら、そうか、と頷いて、夕飯を終えた後に車で家まで送ってくれてそれっきりだ。
最初の数日は生存報告みたいなメッセージを送っていたけれど、既読はつくけどやっぱり返信は来なくて、厄介事に巻き込まれない日常はそれなりに忙しくなって、スタンプの一つも返ってこないメッセージはだんだん面倒になって、送らなくなった。
携帯は常に充電しているから、本当に心配だったり、気になるなら連絡をくれるだろう——本人がそう言っていた通り。だから、過剰に心配する必要もないし、僕はほんの一年前には当たり前だったように、ごく普通の生活を送ることにだんだん慣れていった。
理由がなければ会うこともない。それはわかっていたけれど。
校舎の端で、降りしきる雨を眺めながらぼんやりと考える。今日はバイトもないし、あとはどこかをふらつくか——気兼ねなくふらつけるって素晴らしい——帰って、ネットでも眺めながら宿題をするか。友達と呼べる相手もいなくはないけれど、積極的に声をかけない限りは、意外と大学というのは人間関係が希薄だ。学生の本分として学ぶことは山ほどあるし、だから、暇を持て余すということはないのだけれど。
少し小降りになり始めた空を見て、パーカーのフードを被って歩き出す。何となく、そのまま帰る気にもなれなくて気がついたらあの公園にいた。雨だからあの時よりもさらに
あの頃は、もう毎日が地獄の底みたいにしんどくて、だからこうして普通の生活に戻ってみると、慣れたとは言っても落ち着かない。
意外と濡れていない木の根本に腰を下ろして空を見上げると、何だかすごく世界でひとりぼっちみたいな気がしてびっくりした。家族はもう誰もいないから、天涯孤独、というのはあながち間違ってはいないのだけれど。
しばらくそうやってぼんやりして、ちょっとやっぱりこれはダメ人間すぎるなと気づいて立ち上がる。もう一度フードを被って歩き出そうとした時に、不意に目の前に現れた人影にぶつかって、驚いた拍子に水溜りに足を突っ込んで、昨日洗ったばかりのスニーカーが泥まみれになる。
「何やってんだ、お前は」
聞き慣れた声に、ものすごく驚いて顔を上げると、見慣れたシルバーフレームの眼鏡の顔が僕を見下ろしていた。視線が首のあたりに下りて、何だかすごく苛立ったような顔をする。
「ダ、ダメですよ。まだ取りませんからね!」
またむしられるのかととっさに首元を押さえたら、もっとあからさまに不機嫌な顔になる。
「何でだ?」
「何でって……どんだけ僕が苦労してきたか、知ってるでしょ?」
「俺がいるんだからいいだろう」
「いるって……あれ、そもそも何でここに?」
そういえば、GPSはONのままだった。
「……そんなんで探さないって言ってたじゃないですか!」
「うるせえ馬鹿。そっちこそ、落ち着いたんだか何だか知らねえが、連絡のひとつも寄越さなくなりやがって」
「いやいや、千秋さんだって一度も返信くれたことないじゃないですか。大体それなら一度くらい連絡くれたって——」
そこまで言ったところで、急に両肩を掴まれて、後ろの木の幹に押し付けられる。
「ってぇ……」
思わず漏れた呻きに、ほんの少しだけ千秋さんの表情が揺らいだけれど、そのまま首に巻かれた黒い輪をむしり取られた。
「ちょっと、千秋さん‼︎」
「もう
「はあ、何言ってんすか? 意味わかんないし! 返してくださいよ」
千秋さんはどちらかというと温厚というよりはいかついし威圧的だけど、こんな風に口論するのは、そういえば初めてだった。大体僕が馬鹿なことを言っているか、千秋さんが、そんな僕を見透かして納めてしまう。ずっとそんな関係が続いていたのに。
ともかくも、チョーカーを取り返そうと手を伸ばすと、その手を掴まれた。びっくりするくらい強く。骨が
「痛いって、千秋さん!」
「そんなにこれが必要なのか」
「当たり前でしょ。僕にとっては、今のところそれしか可能性がないんだから」
この半年以上、へらへらと笑ってやり過ごしてきたけれど——結局やり過ごしきれなくてこの人に拾われたんだけど——常に命の危険にさらされているのも、そこから救い出される度に、誰かの命が目の前で失われるのを見るのも、どっちもしんどかった。
そりゃそうだ。普通の人間が、生涯のうち、何回他人の死を目にするだろう。何回命の危機なんてものに遭遇するだろう?
案外
そこまで考えて、千秋さんの顔を改めて見上げる。そう、そんなことをこの人がわかっていないはずがないのに。あれほど、僕の心に容易に切り込んで、すくい上げてしまったこの人が。
そこでようやく一つの可能性に思い当たる。ものすごく馬鹿みたいな発想に思えたけど、でもそれ以外、綺麗に嵌るピースはない気がして。
「え、千秋さん、もしかして
言った瞬間、千秋さんの顔が鬼みたいにすんごい怖い顔になった。右腕を振り上げたから、ああまた殴られるんだろうな、と思ったら、ものすごい力で引き寄せられた。何だか久しぶりの、でもずいぶん濃く漂う煙草の匂い。
正直、煙草の匂いは苦手だと思っていたのに、ひどく安心してしまった自分に気づいて、内心で頭を抱える。でも、ごく近い距離で聞こえる心臓の音がいやに早い気がしたから、多分それは千秋さんも同じなんだとわかってしまった。
「……また本数増えました?」
「うるせえ、誰のせいだと思ってる」
低く、絞り出すような声で。それがどんな意味を持つかわかってしまったけれど、なら、素直に連絡でもくれればよかったのに。
「できるか馬鹿」
「え、もしかしてスタンプの送り方がわからない……とか?」
可能な限りふざけてそう言った僕に、だけど千秋さんは表情を変えなかった。この一ヶ月を別とすれば、千秋さんがメッセージを送ってきた頻度はそれほど低くない。二日にいっぺんくらいは、僕を惹きつけるような夕飯のメニューがアラームみたいに夕方に送られてきたものだ。だから。
「一度くらい夕飯のメニューが送られてきたら、僕だってふらふら会いにいってしまったかもしれなかったのに」
心の中で呟いたつもりの言葉は、自分でもはっきりとわかるくらい思い切り口から溢れてしまっていた。
「……何だそれ」
ちょっと気の抜けた、呆れたような声に、僕も思わずふき出して笑う。踏み込まれるたびに、怖い、嫌いだと、そう言い続けていたけれど、結局のところ、思ったより僕はこの人のことが好きなのかもしれない、と今さらのように自覚する。
「何でしょうね」
うまく言葉にする方法が思いつかなくて、肩を竦めて笑うと、千秋さんは惚けたように僕の顔をじっと見つめて、それからその大きな手が、僕の顎を掴んだ。その顔に、何かを諦めたみたいな、見たこともない柔らかい表情が浮かんでいて、あ、なんかやばそうと本能的に感じた。このまま流されたら、きっと何かが変わってしまう。
それは、女の子にするみたいに触れられることへの違和感だとか、恋だの愛だのという浮ついた
でも、身を引こうとした直前、明るくて嫌味な声が聞こえた。
「おやおや、いくら雨だからって、真っ昼間から公園で大胆だなあ」
びくりと千秋さんの体が震えて、目に見えるんじゃないかっていうくらいの怒りの
「失せろ」
「そうもいかなくてね」
迅はそう言いながら近づいてくると、突然僕の両目をその手で塞いだ。
「ちょっとこの男と話があるから、君は少しおやすみ、ナギ」
歌うように言う死神に、ふざけんな、とせめて毒づこうとしたけれど、口を開く前に、僕の意識はまんまと闇に飲まれてしまった。
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