7. 君はまだ何も知らない 〜後編〜(迅視点)
それから、凪が望むままにさらに近くのいくつかの観光地を巡って、日が沈む頃に宿へと移動する。泊まりがけになったことに凪は驚いていたけれど、部屋に小さいとはいえ、掛け流しの檜風呂を発見して目を輝かせる。
「マジで。何これ豪華!」
「日頃稼がせてもらってるからね。これくらいの贅沢はサービスだよ」
「死神って本当に給料出てんの?」
「じゃなきゃ、君の学費とかどうやって出してると思うの?」
「そりゃまあ、そうなんだけど……」
とはいえ、彼らのシステムがどうなってるかは話していないから、疑問はもっともだろう。実のところ、話す気も、権限もないのだけれど。その辺りは凪も感じ取っているらしく、それ以上は訊こうとはしてこなかった。
「温泉とか、当面入れないと思ってたから、わりと本気で嬉しい」
ぱあっと輝いた顔に、ほんの少しだけ胸のどこかが痛んだ気がした。その理由が明らかだったからだ。
「入っておいで。俺はここでのんびりしてるから」
「え、いいの?」
「それとも一緒に入るかい?」
にっこり笑ってやれば、全力でぶんぶんと首を振って浴衣を掴むと浴室の方へ駆けていく。本人が気づいていないようだったので、窓にかかったブラインドを半分下ろしておく。
凪の体にはあちこち深い傷がある。それらは癒えてはいても、傷痕は完全に消えはしない。顔のそれは可能な限り消えるように力を注いだけれど、切り裂かれた首や胸元、刃を突き立てられた肩など、数え上げればきりがないほどだ。体が温まれば浮かび上がって、公衆の面前ではより人目を引いてしまうだろう。
以前なら、そんなものは気にしなければいい、とそれで片付けてしまっていただろうけれど。
消えない傷痕は、彼が凪を傷つけてしまったことの証左だ。気づかなかったとはいえ、彼女の忘れ形見である凪を、半端な形でしか守ってこなかったことを今さらに後悔しても遅すぎる。それでも、凪が彼の側にいることを望んでくれたことが不思議に思えた。
「どうしたんだ、難しい顔して。あんたらしくもない」
浴衣姿でほかほかと湯気を上げながら、口調はいつも通りでも、どこか柔らかい雰囲気の凪に苦笑を返す。まだ濡れた髪をタオルで拭う左腕には、黒い輪。凪の命を守る、最後の切り札のそれが功を奏しているのか、ここしばらくは命の危険を感じさせるような危機は間遠だった。
じっと見つめていると、ほんの少し紺に近い瞳が怪訝そうな色を浮かべる。立ち上がってその頬に手を伸ばすと、びくりと肩が震えた。何かを言いかけて口を開いて、けれど、言葉を探しあぐねたようにまた閉じて、視線が逸らされる。
そうして目を逸らした顔と、湯で上気した頬と滑らかな首筋が何だか艶めいて見えて、ほとんど無意識に顔を寄せる。二十センチ近い身長差があるから、顔を覗き込もうとすればかがみ込む形になる。流れた髪に凪が目を奪われた隙に、軽く唇を重ねた。それがどういう心情の表れなのか、自分でもほとんど考えなしに。
抱きしめもせずに、ただ顔を近づけて、軽く触れるそれを何度か繰り返す。開いた唇の隙間から舌を潜り込ませると、驚いたように身を引こうとしたから、そのまま顔を離して目を開くと、戸惑ったような顔がそこにあった。軽く笑って離れようとすると、胸元を掴まれた。眉根を寄せた顔はやっぱり戸惑っていて、それでも手はしっかりと彼の胸元を掴んでいて離そうとしない。その意味を考えて、けれど考えすぎても意味がないと今さらのように気づいて、腰に手を回して強く引き寄せた。
互いに何を求めているのかは曖昧なままだったけれど、必要とされているということだけはわかったから。
和室の端に
あの時ほどは激しくはないつもりだったけれど、温かい体を抱いているうちに我を忘れたかもしれない、と後から考える。快楽に喘ぐ声も、潤む眼差しも、柔らかい女性のものではあり得ないし、彼女とも違うとわかっているのに、それでも止まらなかった。
「何でだろうねえ」
「……あんたのそういうとこ、信じらんない」
さほど大きくはない檜風呂の中で、凪を抱きしめたままそう呟いた彼に、うんざりと呆れの間くらいの声が返る。それでも逃げ出そうとしないのは、湯の心地よさのせいか、或いは疲れ切っているせいだろうか。
まあ、両方だろうとわかってはいたけれど。
「……前に」
彼に抱きすくめられ、半分湯に沈みながら凪が不意に口を開く。目を向けたが、視線は合わない。ただ、そのまま言葉を続ける。
「父さんが亡くなった時に、色んな手続きをするのに戸籍謄本を取ったんだ」
何となく、話がどこに行き着くのかはわかった気はしたけれど、あえて口を開かず先を待つ。
「その時、初めて自分が二人の実子じゃないって知った」
「……そう」
「父さんは、まあいろいろ困ったところもある人だったけど、すごく大事に育ててもらったし、その——愛されてた、と思う」
「間違いないだろうね」
世界からその存在を拒絶される凪が、ごく最近まで穏やかに暮らせていたのは、両親の——特に父親の守護者の性質があったからこそだ。そして、それはきっと深い愛に根差している。
そう答えた彼に、凪はけれどどこか浮かない顔をしている。
「実の親が気になる?」
率直にそう尋ねた彼に、凪が弾かれたように顔を上げる。大切に愛されて育って、それでも実母を思うのは、複雑なのかもしれない。それは、子供からすればごく自然な心の動きだとは思えたけれど。
「……二人が大切にしてくれたことはわかってる。でも、僕は——」
——誰かにとって、いらない子供だったのかな、って。
小さくそうこぼす顔はまるで迷子のようで。
「違うよ」
告げるつもりのなかった言葉はあっさりと口からこぼれてしまっていた。驚いたように見上げるその顔に、ほんの少しだけ迷って、けれど額に口づけながら先を続ける。
「彼女は君を愛してた。俺に——俺なんかに願うくらいに」
「あんたに……?」
「誰よりも君を必要として、君と共に在りたいと願っていた。なのに、俺は守りきれなかった」
あの時、彼女が何を考えていたのか、もう今となってはわからないけれど。
「君がこの世界にたった一人で取り残されて、その上、さまざまな困難に降り掛かられるのは、俺のせいだ」
俺を恨んでいいんだよ、と静かな声で告げた彼に、凪は大きく目を見開いてまじまじと見つめてくる。真意を探るように、ただ静かにこちらを
「だから、僕を必要としてくれるの?」
小さな呟きは、それでも切実なものだった。そして、彼はきちんともうその答えを知っているような気がしていた。
「違うよ」
彼女の忘れ形見だから。それだけの理由なら、抱いたりはしない。もっと激しい何かが燻っているのにようやく気づいて、今さらのように自分に呆れる。望んでいる関係を何と呼ぶのかは、それでも定かではなかったけれど。
抱きしめていた腕を離して、湯船から上がる。
「さて、そろそろ上がろうか、部屋食にしておいたから。君のその可愛いところを見せつけていいなら、話は別だけど」
「な……ッ、馬鹿なこと言ってんじゃ……!」
「そうそう、その調子」
明るい声で言いながら軽く唇を重ねると、途端に凪の顔が真っ赤に染まる。わかりやすいその様子に、声を上げて笑いそうになって何とかギリギリでこらえる。それ以上やるときっと怒らせてしまうだろうから。楽しい夕食——少なくとも凪にとっては——を台無しにしたくはなかったので。
怒りなのか羞恥なのか、ともあれ肩を震わせながら体を拭いて浴衣を身につけるその背中に声をかける。
「ナギ」
「……何だよ?」
「君は、必ず守るから」
一応、可能な限り真摯な顔と声でそう言った彼に、凪は息をのんで、けれどすぐに呆れたように目を逸らした。
「あれ、イマイチだった? 割と真面目に言ったつもりだったんだけど」
「……せめて、浴衣着てから言えよ」
「おや、これは失敬」
まあ、後でまたゆっくりね、とそう耳元で囁いてみたら、また真っ赤になっていたけれど、拒絶する様子はなくて。
思わず熱が上がりそうになったのをこらえる羽目になったことは、ひとまずは彼の胸の内に秘めておくことにしたのだった。
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