Extra - 誰が何と言おうと、そんなつもりはなかったんだが(千秋視点)
最初の印象は、何かでかいものが目の前に落ちている、だった。
都心ながら風情のある下町の、それなりに古いがよく手入れのされた家。庭もあるから今となっては
季節は夏。夕方とはいえ、地面はまだ熱を持っているし、日差しもまだ明るい。こんなところで倒れていれば、熱中症は必至だ。どう見ても不審だし、とりあえず
どこかまだ幼さの残る
黒いTシャツにジーンズ、それからグレイのバックパック。高校生か、大学生か、それくらいに見えた。軽く肩を叩くと眉根を寄せて、何事かを呟いた。意識がはっきりしていないようだから、ここは救急かと
やけに綺麗な瞳だな、と思ったのを何となく覚えている。
けれど、すぐにその顔に
「嫌だ……ッ!」
「おい、何だ急に。落ち着けって——」
めいっぱいに何かに怯え、
とりあえず両手を上げて、敵意のないことを示したが、相手の怯えた様子は変わらない。というより、視線は彼を素通りしてどこか遠くを見ているようで、幽霊にでも怯えているようだった。まさか薬物中毒とかその手の
曲がりなりにも相手は男で、そう易々とはいかないだろうと思っていたのに、その体は予想外に軽く細い。相手も驚いたようで、どこか遠くを見ていた——ほんのわずか涙を浮かべていた瞳がぴたりと焦点を結び、彼を捉えた。
「誰……?」
その声が、あまりにも頼りなげだったせいだろうか。とっさに名乗ってしまったのは。
「
「ちあき……」
「せめてさんをつけろ、ガキ」
その声にまた怯えたように腕の中の相手がびくりと体を震わせた。しまったと後悔したが、相手は少し不思議そうに彼を見つめて、それから小さな子供のように、こくんと頷いた。
「ちあき、さん。僕は、ナギ——」
そこまで言って、けれど腕の中の相手は力尽きたように意識を失ってしまった。
ひとまず家の中に運び込んで、身元を確認できるものはないかと探ると、財布の中に、ここからほど近い国立大学の学生証が入っていた。
どうやらナギ、は
ひとまずはかかりつけ医にもなっている近所の町医者に無理を言って往診に来てもらったが、特に異常はないとのことだった。ただ、顔色が悪く体重もかなり軽い。過労とか栄養失調とかその辺りの疑いがあるから、目が覚めたらしっかり食わせておけと言われてしまった。
自分の息子や家族でもあるまいし、家族が引き取りに来たら伝えることにして、大学に連絡を取ったが、事務室の担当者の回答はより事態をややこしくした。
一人暮らしで、緊急連絡先の登録もなし。
どうやら個人的な知り合いらしい、その年配の——と思われる——女性によると、凪は少し前に唯一の肉親だった父親を事故で亡くし、
「いったい何なんだ……厄日か?」
ぼやいたが、厄介なのはむしろその後だった。布団の上に寝かせてやった凪は、それから二日ほど、ほとんど意識を取り戻さなかった。本来なら病院に入院させて点滴なりなんなりを受けさせた方がよかったのだろう。
そうする気になれなかったのは、途切れ途切れに目を覚ますたびに、凪が何かに怯え、涙を流し、そしてやむなく彼が抱き寄せてやると、落ち着いて眠るせいだった。
「ジン、嫌だ。もう見たくない。やめて——」
凪はかろうじて意識を取り戻すたびに、掠れた声でそう繰り返した。ジン、というのが何者なのかはわからないが、虐待でもされているのだろうか。だとしたら、不用意にどこかに引き渡してしまえば、もっとひどいことになるかもしれない。ならばせめて本人が回復して、事情がわかるまでは、と世話を焼く羽目になってしまっていたのだった。
これが可愛い女の子なら、
ただ——だらこそ——ろくに食事も水分も取れない凪に、彼が意識をきちんと取り戻すまでの間、医者から勧められた
ともかくも、町医者とも相談はしつつも、どうなることかとそれなりに気を
「えーと、どちらさま?」
「……まずは自分から名乗ったらどうだ」
「あ、そうですね、駿河 凪です。静岡あたりの旧国名の駿河に、風とか海が
やたらとさっぱりした顔で、はきはきと答える顔に、何だか納得がいかない気がしながらも、彼も名乗る。
「鴨川千秋。京都の鴨川に、千の秋だ」
「画数多そうっすね」
「いや、お前ほどじゃねーだろ」
思わずそうつっこむと、凪はニッとやたらと人好きのする笑みを浮かべる。人の胸に
「……お前、まさか全然覚えてないのか?」
「えーと……大学から帰る途中にちょっと色々あって、道に迷って行き倒れたあたりまでは覚えてるんですけど、もしかしなくてもご迷惑をおかけしました……よね?」
答えあぐねた彼が黙ったままでいると、凪は何やら慌てて立ち上がって、視界に入ったグレイのバックパックを拾うと、そのまま出て行こうとする。
「おい、待てよ」
「あ、あのすみません、お世話になったお代とかは、バイト代が入ったら払うので——」
言い置いて歩き出そうとして、だがその体がぐらりと
「え……あれ……?」
「馬鹿か、お前は。丸二日、何も食ってないんだぞ。急激に動いたりすりゃ倒れるに決まってんだろうが」
「え、そんなに……?」
口調ばかりは明るいが、その顔はまだ青ざめているし、掴んだ手首もさらに細くなった気がする。しばらくじっと彼の方を見つめ、それから凪は、なぜか子供のように首を横に振った。
「ずいぶんお世話になっちゃったみたいで……すみません。もうこれ以上ご迷惑はかけられないので、お
ぺこりと頭を下げて、にっこりとやたらと人好きのする笑みを浮かべると、そのまま本当に出て行こうとする。その
天涯孤独で、緊急連絡先に登録する相手もいない。何やら事情を抱えていて、真っ直ぐ歩くことさえ
「おい」
呼びかけると、びくりと肩が震えて足が止まった。
「どこへ行くつもりだ?」
もう一度、そう呼びかけると、ゆっくりと振り向く。
「どこって……帰りますけど」
「帰る場所があるのか?」
「そんなの——」
あるに決まっている、と言おうとしたのだろうと思う。けれど、開いた口は言葉を
その
凪は、それでも何も言わなかった。それは彼なりの
赤の他人の千秋に、それをどうこうすることはできないけれど。
「外気温はまだ三十五度、湿度は八十パーセント超だ。日本の夏、舐めんなよ?」
口の端を上げて、あえてそう人の悪い笑みを浮かべて言ってやると、凪は少しだけ驚いたように目を見開いた。その拍子に、反対側の瞳からもう一筋涙が流れる。何かを迷うように口を開きかけて、結局言葉にならずに閉じたその頬をごしごしと拭ってやる。
「好きな食い物は何だ?」
「はい?」
「朝からは無理だが、夕飯くらいなら、好きなもん作ってやる」
「え……コロッケとか、グラタンとか……?」
「ずいぶんガキっぽいメニューだな。しかもこのクソ暑い時期に」
「いやそんな急に
その顔はありありと不本意だと告げていたけれど、ほんの少しだけ
「もう少し寝てろ。朝飯ができたら起こしてやるから」
「……これ以上寝たら、
「いいから、年長者の言うことは黙って聞いとけ」
低く言った彼に、凪は少しだけ戸惑ったように眉根を寄せたけれど、ややして、頬をかきながら、
「……千秋さんて、顔は怖いけど、もしかして優しい?」
「うるせえ馬鹿、もう黙って寝てろ」
そうやって甘やかしたことが全ての始まりだったけれど、この時の彼は——彼らはまだ知る由もなかった。
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