Extra - 誰が何と言おうと、そんなつもりはなかったんだが(千秋視点)

 最初の印象は、何かでかいものが目の前に落ちている、だった。


 都心ながら風情のある下町の、それなりに古いがよく手入れのされた家。庭もあるから今となっては贅沢ぜいたくだが、古いだけで資産価値はほぼ土地のみだ。そんな自分の家の前で行き倒れる人間がいるとは想像もしたことがなかったから、とりあえず次の行動を決めかねた。


 季節は夏。夕方とはいえ、地面はまだ熱を持っているし、日差しもまだ明るい。こんなところで倒れていれば、熱中症は必至だ。どう見ても不審だし、とりあえず警察110番か、せめても救急119番が妥当なラインだろう。とりあえずしゃがみこんで顔をのぞき込むと、思いの外、若い顔がそこにあった。

 どこかまだ幼さの残るなめらかな頬と、長いまつ毛。少し癖のある長めの前髪は、あえて伸ばしていると言うよりは、どちらかといえば——彼と同じく——無精ぶしょうな感じが否めなかった。圧倒的に清潔感は向こうの方が上だと言われてしまうだろうが。


 黒いTシャツにジーンズ、それからグレイのバックパック。高校生か、大学生か、それくらいに見えた。軽く肩を叩くと眉根を寄せて、何事かを呟いた。意識がはっきりしていないようだから、ここは救急かと携帯スマートフォンを取り出したとき、不意に青年の目が大きく見開かれた。


 やけに綺麗な瞳だな、と思ったのを何となく覚えている。


 けれど、すぐにその顔におびえの色が浮かんで、逃げ出そうとでもするように、身を起こして後ずさりする。

「嫌だ……ッ!」

「おい、何だ急に。落ち着けって——」

 めいっぱいに何かに怯え、かすれた声で叫ぶその様子は傍から見れば、完全に彼の方が若者を脅かしている状況に見えるだろう。それでなくとも、無精髭に無造作に伸びてしまった髪、おまけに定職についている人間ならおよそしないであろうラフな格好で昼日中からこうして出歩いている姿を見られると、古い付き合いのある隣人はともかく、馴染みのない近隣住人から通報でもされかねない。


 とりあえず両手を上げて、敵意のないことを示したが、相手の怯えた様子は変わらない。というより、視線は彼を素通りしてどこか遠くを見ているようで、幽霊にでも怯えているようだった。まさか薬物中毒とかその手のたぐいじゃあるまいな、と一瞬疑いが脳裏によぎった。だが、年若い姿はやつれては見えるものの、そういうすさんだ雰囲気は感じられなかったから、とりあえず腕を掴んで引き寄せた。それでももがいて逃れようとするので、面倒になっていわゆるお姫様抱っこで抱き上げる。


 曲がりなりにも相手は男で、そう易々とはいかないだろうと思っていたのに、その体は予想外に軽く細い。相手も驚いたようで、どこか遠くを見ていた——ほんのわずか涙を浮かべていた瞳がぴたりと焦点を結び、彼を捉えた。

「誰……?」

 その声が、あまりにも頼りなげだったせいだろうか。とっさに名乗ってしまったのは。

千秋ちあき鴨川かもがわ千秋ちあきだ。お前は?」

「ちあき……」

「せめてさんをつけろ、ガキ」

 その声にまた怯えたように腕の中の相手がびくりと体を震わせた。しまったと後悔したが、相手は少し不思議そうに彼を見つめて、それから小さな子供のように、こくんと頷いた。

「ちあき、さん。僕は、ナギ——」

 そこまで言って、けれど腕の中の相手は力尽きたように意識を失ってしまった。


 ひとまず家の中に運び込んで、身元を確認できるものはないかと探ると、財布の中に、ここからほど近い国立大学の学生証が入っていた。


 駿河するが なぎ


 どうやらナギ、は個人名パーソナルネームの方だったらしい。そこの一回生だということは、十八歳か、十九歳。大学生とはいえ、まだ酒も飲めない年齢の青年が、行き倒れるなどよほどのことだろう。

 ひとまずはかかりつけ医にもなっている近所の町医者に無理を言って往診に来てもらったが、特に異常はないとのことだった。ただ、顔色が悪く体重もかなり軽い。過労とか栄養失調とかその辺りの疑いがあるから、目が覚めたらしっかり食わせておけと言われてしまった。

 自分の息子や家族でもあるまいし、家族が引き取りに来たら伝えることにして、大学に連絡を取ったが、事務室の担当者の回答はより事態をややこしくした。


 一人暮らしで、緊急連絡先の登録もなし。


 どうやら個人的な知り合いらしい、その年配の——と思われる——女性によると、凪は少し前に唯一の肉親だった父親を事故で亡くし、天涯てんがい孤独こどくの身の上らしい。

 個人情報保護プライバシーの観点はどうなっているのかと頭を抱えたくもなったが、他にも何やら事情を抱えているらしく、どうかよく面倒を見てやってほしいと電話越しに懇願こんがんされてしまった。

「いったい何なんだ……厄日か?」


 ぼやいたが、厄介なのはむしろその後だった。布団の上に寝かせてやった凪は、それから二日ほど、ほとんど意識を取り戻さなかった。本来なら病院に入院させて点滴なりなんなりを受けさせた方がよかったのだろう。

 そうする気になれなかったのは、途切れ途切れに目を覚ますたびに、凪が何かに怯え、涙を流し、そしてやむなく彼が抱き寄せてやると、落ち着いて眠るせいだった。


「ジン、嫌だ。もう見たくない。やめて——」


 凪はかろうじて意識を取り戻すたびに、掠れた声でそう繰り返した。ジン、というのが何者なのかはわからないが、虐待でもされているのだろうか。だとしたら、不用意にどこかに引き渡してしまえば、もっとひどいことになるかもしれない。ならばせめて本人が回復して、事情がわかるまでは、と世話を焼く羽目になってしまっていたのだった。

 これが可愛い女の子なら、恋愛小説ロマンスかラブコメばりの展開もあったのだろうが、あいにくとここにいるのは冴えない無精髭の男と男子大学生だ。そもそも凪が女子大生だったら、さすがに拾うこともなくさっさと警察か消防に届け出ていただろうから、前提条件が成り立たないのだけれど。

 ただ——だらこそ——ろくに食事も水分も取れない凪に、彼が意識をきちんと取り戻すまでの間、医者から勧められた経口けいこう補水液ほすいえきをどうやって与えていたかは、本人には最高秘匿事項トップシークレットである。



 ともかくも、町医者とも相談はしつつも、どうなることかとそれなりに気をんでいたが、三日目の朝、目を覚ました凪は、馬鹿みたいに明るい顔で首を傾げた。

「えーと、どちらさま?」

「……まずは自分から名乗ったらどうだ」

「あ、そうですね、駿河 凪です。静岡あたりの旧国名の駿河に、風とか海がぐときの凪、です」

 やたらとさっぱりした顔で、はきはきと答える顔に、何だか納得がいかない気がしながらも、彼も名乗る。

「鴨川千秋。京都の鴨川に、千の秋だ」

「画数多そうっすね」

「いや、お前ほどじゃねーだろ」

 思わずそうつっこむと、凪はニッとやたらと人好きのする笑みを浮かべる。人の胸にすがりついて、この世の終わりみたいな顔をして泣いていたのは、ほんの数時間前のことのはずなのに。

「……お前、まさか全然覚えてないのか?」

「えーと……大学から帰る途中にちょっと色々あって、道に迷って行き倒れたあたりまでは覚えてるんですけど、もしかしなくてもご迷惑をおかけしました……よね?」

 答えあぐねた彼が黙ったままでいると、凪は何やら慌てて立ち上がって、視界に入ったグレイのバックパックを拾うと、そのまま出て行こうとする。

「おい、待てよ」

「あ、あのすみません、お世話になったお代とかは、バイト代が入ったら払うので——」

 言い置いて歩き出そうとして、だがその体がぐらりとかしぐ。とっさにその体を抱き止めてやると、縋り付くように胸元を掴んできた。

「え……あれ……?」

「馬鹿か、お前は。丸二日、何も食ってないんだぞ。急激に動いたりすりゃ倒れるに決まってんだろうが」

「え、そんなに……?」

 口調ばかりは明るいが、その顔はまだ青ざめているし、掴んだ手首もさらに細くなった気がする。しばらくじっと彼の方を見つめ、それから凪は、なぜか子供のように首を横に振った。

「ずいぶんお世話になっちゃったみたいで……すみません。もうこれ以上ご迷惑はかけられないので、おいとましますね」


 ぺこりと頭を下げて、にっこりとやたらと人好きのする笑みを浮かべると、そのまま本当に出て行こうとする。そのかたくなな背中に、けれどそれまで得た数少ない情報から、凪が何を考えたのかを推論する。


 天涯孤独で、緊急連絡先に登録する相手もいない。何やら事情を抱えていて、真っ直ぐ歩くことさえ覚束おぼつかないのに、差し伸べられた手を振り払って出て行こうとする。


「おい」

 呼びかけると、びくりと肩が震えて足が止まった。

「どこへ行くつもりだ?」

 もう一度、そう呼びかけると、ゆっくりと振り向く。

「どこって……帰りますけど」

「帰る場所があるのか?」

「そんなの——」

 あるに決まっている、と言おうとしたのだろうと思う。けれど、開いた口は言葉をつむぎきれず、その眼に淡く涙が浮かんで、こらえきれなくなったかのように一筋こぼれ落ちた。


 そのしずくが、やたらと綺麗に見えて、手を伸ばして親指で拭う。


 凪は、それでも何も言わなかった。それは彼なりの矜持きょうじで、生き抜くための処世術なのだろう。たった一人で、誰にも頼れずに——頼らずに。


 赤の他人の千秋に、それをどうこうすることはできないけれど。


「外気温はまだ三十五度、湿度は八十パーセント超だ。日本の夏、舐めんなよ?」


 口の端を上げて、あえてそう人の悪い笑みを浮かべて言ってやると、凪は少しだけ驚いたように目を見開いた。その拍子に、反対側の瞳からもう一筋涙が流れる。何かを迷うように口を開きかけて、結局言葉にならずに閉じたその頬をごしごしと拭ってやる。


「好きな食い物は何だ?」

「はい?」

「朝からは無理だが、夕飯くらいなら、好きなもん作ってやる」

「え……コロッケとか、グラタンとか……?」

「ずいぶんガキっぽいメニューだな。しかもこのクソ暑い時期に」

「いやそんな急にくから……。別に食べたいとか言ってないですし」


 その顔はありありと不本意だと告げていたけれど、ほんの少しだけかげりが薄くなっているように見えた。その頭をぐしゃぐしゃとかき回してやって、先ほどまで凪が寝ていた布団を指し示す。


「もう少し寝てろ。朝飯ができたら起こしてやるから」

「……これ以上寝たら、怠惰ぐうたらに慣れすぎちゃうかもしれないですし」

「いいから、年長者の言うことは黙って聞いとけ」


 低く言った彼に、凪は少しだけ戸惑ったように眉根を寄せたけれど、ややして、頬をかきながら、上目うわめづかいにこちらを見上げてきた。


「……千秋さんて、顔は怖いけど、もしかして優しい?」

「うるせえ馬鹿、もう黙って寝てろ」


 そうやって甘やかしたことが全ての始まりだったけれど、この時の彼は——彼らはまだ知る由もなかった。

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