Extra - 今はまだ——そう思っていた頃があったわけで(千秋視点)

 GPSを仕込んでいたという事実に対して、実際のところかなり怒るのではないかと内心身構えていた千秋の予想を大幅に裏切って、凪は割とあっさりとそうですかと頷いて、左耳に嵌めたイヤーカフの片割れを眺めて寝転がっている。


 珍しく内心が読めない静かな横顔を視界から締め出して、とりあえず締め切り間近の原稿に意識を集中する。凪が彼の家を訪れなくなっていたこの一週間、あまり筆が進まずぎりぎりだったのだ——理由は深掘りしたくなかったが。


 背を向けてしばらくは静かなままだったが、ふと立ち上がる気配がする。凪は基本的には能天気だが、人の状況を読むことには長けていたし、彼の執筆中しごとちゅうはほとんど邪魔をしない。珍しいなと思って目を向けると、少し困ったように眉根を寄せている顔がこちらを見つめていた。

「……どうした?」

「あの……風呂、借りてもいいですか?」

「風呂?」

 唐突な頼みに思わず首を傾げると、凪は唇を噛んで目を伏せる。それから、絞り出すような声が聞こえた。

「……血の、臭いがする気がして」

 ああ、とそこでようやく先ほど見た凄惨な場面シーンを思い出す。凪の首を締め上げていた男の腕と首が、玩具おもちゃのように切り落とされ、地面に転がって血溜まりを作っていた。それは、あまりにも非日常的な光景で、だからこそ記憶からあっさりと弾き出されてしまっていたが、凪にとってはそうではないのだと今さらに気づいて奥歯を噛み締める。


 凪は、あんな光景を、どれほど目にしたのだろうか。


 俯いたままの凪に気取られないように、すぐに表情を緩めてくしゃりとその柔らかい髪を撫でて、バスルームへと案内する。祖父母の代から住んでいる古い家だが水回りは少し前にリフォームしたばかりだ。凪は目を丸くして、それから少し緊張を解いた顔で笑う。

「五右衛門風呂とかかと思ってました」

 ふざけた軽口も、まだ表情が硬かったから、殴るのは勘弁しておいてやることにした。

「馬鹿言え。風呂、沸かすか?」

「あ、大丈夫です。とりあえず、流せれば」

 そうか、と頷いてタオルを置いて、扉を閉める。呼吸を失うほどに追い詰められていた凪を思い出して、心臓がざわりと騒いだけれど、彼にできることなどそうはない。とりあえずは目下の原稿を片付ける方が先だと、ひとまず机へと戻った。


 書くことに集中しているうちに、時間がわからなくなるのはよくあることだった。集中しすぎて、何かを忘れている気がしてはっと我に返る。凪の姿はまだ見えなかった。まさか風呂で倒れてでもいるのかと、慌てて脱衣所の扉を開けようとして、ちょうど向こうから開いた。


 濡れた少し伸びた前髪と、上気した頬。タオルを引っ掛けただけの上半身は、この年頃の青年にしては、ずいぶん細く見えた。特に顎から首のラインがあまりに頼りなげに見えて、口を開きかけた彼に、凪が不思議そうに首を傾げる。

「千秋さん? どうかしました?」

 きょとんと、目を丸くしてやけにさっぱりした顔で小首を傾げたその様子は、ひどく無防備で無邪気に見えて、心臓がまたおかしな音を立てた。多分、それまでとは違う方向で。同時に、いつかの言葉がやけに鮮明に蘇る。


 ——え、ちょっと待って千秋さんて僕のこと好きなの?


 本人は気づいていなかったけれど、うっすらと涙の浮かぶ瞳で言われた言葉に、馬鹿なことをと、あの時はまだ平然と返せたけれど。


 そう考えて、まだって何だ、と口元を押さえて顔を背ける。


「……千秋さん?」


 怪訝そうに覗き込んでくる、それでも今は屈託のない顔と、少し色の薄い瞳がいつかと同じようにやけに綺麗に見えた。ざわつく心臓を気取られないように顔を背けたまま、手でその頭を押しのける。


「いいから早く服着ろ」

「何か、すっげー顔コワイですけど、やっぱ風呂借りたのまずかったです?」

「んなわけあるか、馬鹿」


 内心の動揺を押し隠すために顰めた顔に、凪がほんの少しだけ不安げな顔をする。察しは悪いが、勘はいい方だ。下手に勘違いさせたままでいさせたら、また寄り付かなくなってしまうかもしれない。

 肩にかかってたタオルを取り上げて、子供にするように濡れた髪をぐしゃぐしゃと拭いてやる。

「あだだだだだ、千秋さん、もうちょっと優しく!」

「うるせえ、これくらいで十分だ」

 毒づいてやれば、どこかホッとしたようにこちらを見上げてくる。

 無防備なその眼差しと、耳に光る銀色を改めて見て、ざわりとまた心臓が騒いだ気がした。


 GPSのみならず、肌に直接身につけるアクセサリー、とか。


 前者はまだ、ぎりぎり無事を確認するためだと言い訳がつくかもしれない。だが、後者に関してはどう考えてもさほど親密な関係とも言い難い相手に贈るものではない。


「……気に入ったのか、それ」

「え? ああ、はい。かっこいいし。それに、今年は誕生日プレゼントとかもらう当てなかったから——」


 割とすっげー嬉しかったです、とブロークンな日本語でニッと笑った顔がやっぱりどうしようもなく可愛く見えてしまって、彼は思わず眼鏡をとって額を押さえた。


「千秋さん?」

「……そりゃよかった」


 ぽんぽん、と子供にするように頭を撫でて、眼鏡をかけ直してなんとかニヤリと笑みを返す。いつまでこの関係が維持できるかは正直定かではなかったけれど、少なくともまだ不安定な凪に、これ以上の心理的負担をかけるつもりはなかったので。


 ——まだ、と考えている時点で、行き着く先は、見えていたような気はしていたのだけれど。

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