14. 終わりよければすべてよし、よければ、ね⁉︎

 どこからともなく漂ってくるいい匂いで意識が浮上した。こんがり揚げている油の匂い、それから、最近き替えたばかりらしい畳と、窓の外から入り込んでくる金木犀キンモクセイの香り。混じると結構大惨事な気もしたけれど、それで僕は目を開けるより先にどこにいるかを認識できてしまう。


 ゆっくりと目を開けて、もう見慣れた天井と、ふかふかの布団を確認して、もう一度目を閉じる。何で僕はここにいるんだっけ?

 途切れる前の最後の記憶を掘り起こせば、蘇ってくるのはいつも嫌味な笑みを浮かべている死神の、それでもやたらと真摯な顔だ。

 とっさに首に手を当ててみたけれど、やっぱりそこには傷痕以外は何もなかった。ここにいる以上、それは予測可能な範囲だったけど、さすがに僕の人生がかかっている代物だ。何だかよくわからない不機嫌さで取り上げられていいものじゃない。


 意を決して台所に向かうと、いつも通り、ビールグラス片手のキッチンドランカーの背中が見えた。料理中の邪魔は本来厳禁だけれど、今日ばかりは僕なりの精一杯厳しい表情を作って、後ろから声をかける。

「千秋さん、あれ、返して」

「あ?」

 振り返った顔は、シルバーフレームの眼鏡に、珍しく無精じゃないわりと整えられた髭。あれっと思わず見惚れていると、ふっと意地悪そうに笑う。そのままもう一度コンロの方に向き直ってしまったので、何とか厳しい表情を整えて、その隣に立つ。

「千秋さんってば」

「あと少しで全部揚げ終わるから、もうちょっとだけ待ってろ」

 菜箸を差し入れているのは、大きな中華鍋。その中に浮かんでいるのは黄金色の香ばしくも美しいコロッケだ。

「お肉多め、グリーンピースとかコーンとか入ってない?」

「入ってねえよ」

 最初に千秋さんの家の食卓に出されたコロッケには、ベジタブルミックスが入っていて、思い切り顔を顰めた僕に、千秋さんはごく不思議そうに首を傾げたものだった。どうやらそれは千秋さんの家の味らしくて、僕の家のひき肉とジャガイモだけのシンプルなコロッケとは一線を画するものだった。


 ——いや、今はコロッケの話をしている場合じゃない。


「千秋さん、僕の人生計画とコロッケとどっちが大事なんですか?」

「お前の人生計画は五分も待たずに崩壊するほど危機に瀕してるのか?」

「場合によっては」


 結構冗談でもないのだ。千秋さんのそばにいれば、厄介事は起こらないと、そう思っていた。でも百パーセント確信があるわけじゃない。現に、さほど日を置かずに僕はまた死神に遭遇する羽目になった。今、この時にも何かが起きないとも限らない。

 そして、それは僕だけじゃなく、千秋さんを巻き込んでしまう可能性だってあるのだ。それは、絶対に嫌だった。険しいままの僕の顔を振り向いて、千秋さんは少しだけ肩を竦めて、それから僕の左腕に視線を向けた。つられて目を向けて、ようやく僕はそれに気づいて、あ、と間抜けな声を上げた。


 全然気づかなかったけれど、左手首にぴったりとした、黒い輪が巻かれていた。サイズは少し違うが質感といい作りといい、首に巻いていたものと同じに見えた。

「これ……」

「別に首に巻く必要はないそうだからな」

「えっ、そうなの⁉︎」

 てっきり首に巻くことに理由があると思っていたけど、その辺はただのおしゃれアイテムだったのか。まあ、チョーカーってわりとインパクトあって、女子受けも悪くなかったから、割と気に入っていたのは秘密にしておこう。

 一瞬泳いだ僕の目を捉えて、千秋さんのこめかみが若干引きつったように見えたけど、気にしないことにする。これが迅の用意したものなら、一応の安全は確保されていると思っていいのだろうし、だとすれば、あとは心置きなくコロッケを堪能するだけだ。


 清々しい笑顔になった僕に、物凄くうんざりしたようなため息が降ってきた。

「……お前なあ」

「何です?」

「いいや、馬鹿に繊細な情緒を期待した俺が馬鹿だった」

「お、久しぶりに勢いのいい罵り言葉ですね。僕だって落ち込んだりもするけれど最近めっきりおかげさまで元気です。そういえばこないだ馬鹿っていう人が馬鹿っていう例の映画もう一度ちゃんと見てみたんですけど、あれやっぱり——」

「うるせえ黙れ」

「え、ちょっとくらいいいじゃないですか。僕なんかずっとまともに千秋さんとしゃべってなかった気がするし、ここは一つそろそろ相互理解を深めるためにも」

「深めたいのか?」

 急に、一段低い声が響いてきて、思わず口をつぐむ。見上げた千秋さんは、もうコロッケを全部揚げ終えて、コンロの火も消えていた。向けられた眼差しの強さに、僕の本能が何かヤバいと告げてきて、考えなしに一歩後ずさりして、後ろのテーブルに手をついたらグラスが滑り落ちた。ガシャンという派手な音に、我に返って慌ててガラスの欠片を拾おうと手を伸ばして掴んだら、思いのほかぱっくりと手のひらが切れた。

「……え?」

「え、じゃねえ、この馬鹿!」


 みるみるうちに、何だかもう見慣れてしまった赤い色が一線に盛り上がり、そうしてぽたぽたと垂れていく。あ、汚したらまずいな、とか頭のどこかで考えて、でもその色を見た瞬間に、動けなくなってしまった。舌打ちする音が遠くに聞こえて、ぎゅっと手を掴まれて、止血のためのガーゼと包帯を巻かれる。


 千秋さんが、傷の手当てに慣れてしまったのは、僕のせいだろうか。締め上げられた傷が思いのほか痛くて、涙目で千秋さんの肩を掴みながら顔を見上げると、予想外に困惑した顔になる。それから、大きな手が僕の頬に触れて、親指で目の端に浮かんだ涙を拭った。

 何となくその感触に覚えがある気がして、頬を傾けると、ますます千秋さんの顔がおかしな感じになる。触れていた手に力がこもって、眼鏡の奥の眼が一瞬眇められた。それから何かを諦めたように、そんな自分に呆れたように笑った。


 頬に触れていた手が顎に滑り降りてきて、顔が近づいてくる。鼻先が触れるほどに近づいてきても、まだ混乱したまま動けない僕に、千秋さんは最後通牒つうちょうみたいな掠れ声で言った。


「三秒だけやる。嫌ならそう言え」


 えっ、三秒って短すぎじゃない? ていうかそれはむしろ空から降ってくる女の子を助ける時の名台詞じゃないのとか、あ、違うかそれは四十秒か、ちょっと待って嫌ってそもそも何のことだよ、とかまとまらない問いを考えているうちに、その三秒はあっという間に消費されたらしい。


 残っていた距離がなくなって、食いつかれるようなキスをされた。最初は噛み付くみたいに。でも、繰り返されるうちにだんだん深くなっていく。それは多分恋人にするみたいな、情熱的な大人のやつだった。

 どのタイミングで外したのかわからない眼鏡のない顔が間近で接触を繰り返しているのを呆然と見つめていたけれど、一度開いた目が、明らかに閉じろと訴えていて、ついでにもうなんだか耐え切れなくなって、目を閉じるとすぐに笑う気配がして、抱きすくめられた。後頭部に手を回されて、さらに何度も深く、入り込まれる。


 腰のあたりに何だかダイレクトに響く熱を感じて、それはまずいとさすがに本能が警告したから、逃げ出そうとしたのに、背中に回っていた手が今度は腰を正確に引き寄せてくる。


 このおっさん、もしかしてものすごく手が早いんじゃなかろうか。


 もはや抵抗を諦めてぼんやりそんなことを考えていると、気がついたら千秋さんの顔の向こうに天井が見えた。背中が畳に触れているのがわかって、さすがに我に返る。

「ちょっと待って千秋さん! さすがにちょっと待った‼︎」

 唇が離れた一瞬の隙を捉えてそうまくし立てると、千秋さんはずいぶん人の悪い笑みを浮かべた。わかりやすくその瞳は欲望を映していて、心臓がおかしな音をたてたけど、不思議と不快に感じないのがますますヤバい気がした。

「何だ?」

「いやちょっとだからその何してんですか?」

「キス」

「常日頃僕を馬鹿だ馬鹿だと罵ってらっしゃいますけど、その言葉そのままお返ししましょうか? 文脈読めないほど馬鹿でしたっけ、文筆業を営まれてる鴨川先生!?」

「よく回る口だな」

「それで口で塞ぐとかテンプレなの、今はいいですから、本当に! フリじゃないですから‼︎」


 一息に言い切ると、千秋さんは呆れたように、それでも一応身を起こして胡座をかくと、僕の頭を胸に引き寄せた。意外と鍛えてる感じの胸板を通して聞こえる心臓の音は早い。それは割と率直に千秋さんの緊張みたいなものを伝えてきていて、だからからかいだとか軽薄なノリでやっているわけでないことを否が応にも理解させられてしまう。


「死神と約束した」


 不意に告げられた言葉はあまりに予想外で、反射的に千秋さんの顔を見上げる。そこには静かな表情と微かな熱だけがあって、僕はやっぱり戸惑ってしまう。


「俺が、お前にまとわりつく不運とやらを払い、守ってやる」

「千秋さ——」

「不確かなままでいたせいで、お前を危機に晒した。なら、はっきりさせるしかないだろう」

 それは、僕が襲われたあの件を指しているのだろう。千秋さんは、何かを試すように僕を見つめる。多分、今ならまだ逃げられる——お互いに。


 僕は男で、何の役にも立たない子供で、だからこの人の人生を僕に縛りつけてしまうような選択をさせないように。


 なのに、そんな僕の迷いを見透かすように、千秋さんが笑う。促されるように、僕は気づけば尋ねてしまっていた。


「千秋さん、僕のこと好きなの?」


 笑い飛ばしてくれればいいと思っていたけど、そんなことにはならないこともわかっていた。答えた言葉はたった二文字。馬鹿、じゃなかったことだけは確かだ。好きにもいろんなタイプの好きがあるはずだから、質問としてはちょっと甘かった気はするけれど、今さら重ねて問うのはさすがに憚られた。


「聞きたいことはそれだけか?」


 どこか笑いを含んだ声に意識を戻すと、また背中に畳の感触があって、ニヤニヤ笑う顔の向こうに天井が見えた。


「いや、ちょっとそのもうちょっとゆっくり話を」

「せっかく盛り上がってるんだ、こんなところでやめられるか」


 盛り上がってるって、何が? ナニが⁉︎


 絶望的に馬鹿みたいなことを考えて、あいにくとそれが意外と的を射てしまっているらしいことを腰のあたりで感じて、必死に言い訳を考える。


「俺のことが嫌いか?」

「んなわけないでしょ! 好きに決まってるじゃないですか!」


 反射的に答えてしまったら、思いのほか精悍なその顔が笑み崩れて、何だこれ可愛いなとか一瞬思ってしまったから、僕も大概重症だ。だがそれとこれとは話が別で。いくら何でも展開が早すぎる。


 誰か助けて、神様、仏様、死神サマ!


 冗談のつもりで内心で叫んだ瞬間、ピンポーンと間延びした古いチャイムの音がした。千秋さんは完全に無視する気らしく、僕に視線を向けたままだ。

 やたらと甘い表情を浮かべた顔が近づいてきて逃げ場を失った僕の耳に、嫌味な、けれどこの時ばかりは天の助けのような声が聞こえた。


「いくらなんでも、気が早すぎるんじゃないかい?」

「——失せろ」

「だってさ、ナギ。どうする? 『お願い』してくれれば助けてあげるけど?」


 ニヤニヤ笑うその顔は、完全に面白がっている。対照的に、千秋さんの気配がめちゃめちゃ尖って今にも一触即発だ。なんて言うんだっけこういうの。

「前門の虎、後門の狼でしょ」

「前門の虎、後門の狼だろ」

「二人とも自覚があるならちょっとはおもんぱかってよ‼︎」

 叫んだけれど、一人はニヤニヤ、もう一人は不機嫌に顔を顰めるばかりだ。

 実のところ、こんな二人に命運を握られていることこそが、僕の最大の不運なのかもしれない。


 ——なんて、本当は全部わかっているんだけど。


 奈落の底から僕を見つけて、引き上げてくれた二人。もうちょっとだけ、甘えさせてもらってもいいかなって、ね。

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