後編
息子をプロのチェスプレイヤーに育て上げるのが彼の夢だった。
男手一つで育てた幼い息子は、親の贔屓目に見ても筋が良かった。
字を覚えるよりも先にコマの動かし方を覚えさせた。
絵本ではなく、棋譜を読み聞かせた。
誕生日プレゼントには最新のゲームではなく高級なチェス盤を送った。
不器用で、チェス以外のことはからっきしなアーサーにできる精一杯の愛情表現だった。
だが物心ついた息子はチェス以外にも興味を持ち始めた。
友達と外で遊びたがった。
ペットを買いたがった。
最新のゲームを欲しがった。
そして何より……チェス以外の手段で父親に甘えたがった。
ある日息子はキャンプに行きたいと言い出した。
それはテレビで紹介された緑豊かな惑星の観光地。
その星で父と魚釣りをしたり、アテもなく森を散策したり、バーベキューをしたり、星を見ながら学校のこと、友達のことを話してみたかった。
だが当時現役のプロチェスプレイヤーで、ワールドチャンピオンであったアーサーは多忙だった。
チェスの勝負で遠出をすることはもちろん、チャンピオンの座を守るため自宅では研究を重ねた。
そのため、忙しさを理由にまた今度また今度と息子の頼みを先延ばしにしていた。
決して蔑ろにしていたわけではない。ただ、息子にとって誇りとなる父親でいたかったのだ。
ある勝負があった。
その勝負に勝てば、アーサーのトッププレイヤーとしての地位はより確実なものとなる大一番が。
その勝負を一区切りとし、アーサーは息子との時間を増やすつもりだった。
約束していたキャンプにも連れて行ってあげようと思った。
その勝負には万全の体制で挑んだ。
かつてないほどのベストコンディション。対局の中盤ですでに勝利を確信できたほどであった。
その時であった。
勝利を確信し、これから送る息子との日々を空想していたアーサーに一つの知らせが入った。
息子が交通事故に遭ったというのだ。
勝負を放り捨てて病院に向かったが、ついた時には遅かった。
それからのことはよく覚えていない。
勝負に負け、チャンピオンの名を奪われたがどうでも良かった。
メディアがこぞってアーサーに起きた悲劇を取り上げ、記者に追い回されたが何とも思わなかった。
ただ胸に空いた大きな穴、その虚無感を永遠に感じる地獄がアーサーの全てとなった。
酒なんて舐めるほどしか飲めなかった自分が酒に溺れるなんて思いもしなかった。
胸の穴にアルコールを流し込んで埋めようとしたが埋まらなかった。
どれだけ飲んでも忘れることができず、後悔だけが胸の中に残った。
終わらせようと思った。
この悪夢から抜け出したかった。
そして、自分の最期の場所を決めたのだ。
遭難15日目。
結局また、アーサーは酒を飲み続ける日々を送る羽目になった。
その量はオリバーとチェスをする前よりも増えていた。
自分という人間はこんなにも弱っちいのかと思うと、情けなさすぎて笑えてきた。
オリバーはまだスリープモードにはなっていなかった。
アーサーの命令は、第一条に反するため聞けないと言うのが彼の言い分だった。
だが、アーサーはオリバーが自らを犠牲にすれば命を断つと明言している。
そのためオリバーにできることは、アーサーをひたすら説得し続けることだけだった。
しかしアーサーがその説得に耳を貸すはずもなく、事態は何も動かないまま時間だけが過ぎていた。
その間、チェスの勝負が行われることは一度もなかった。
「アーサー……またお酒の量が増えましたね」
「……よお、お前さんも飲むかい?」
無造作に並べられたボトルを見てオリバーは顔をしかめた。そんな彼をアーサーはヘラヘラと笑って茶化す。
「もう飲まないでください。これ以上は貴方の体がもたない」
「いいんだよ、どうせ。これから死ぬ人間の体だ」
このまま緩やかに死んでいくのが彼の望みだった。アルコールで何もかもわからないまま死んでいくのが理想的であるとさえ思えた。
「馬鹿なことを言わないでください。貴方は死なない」
「……うるせえな、俺が最初に言ったことを忘れたのか?」
不機嫌さを隠さず、アーサーは告げた。
「俺が酒を飲むことに対して口出しするな、いいな?」
「…………わかりました」
オリバーはそのまま去っていった。
その背中を見送りながら次のボトルを開けるアーサーの表情は、どこか泣きそうだった。
「アーサー」
そう言いながらオリバーが戻ってきたのはすぐのことだった。
その手にはチェス盤が握られていた。
「……おいおい」
思わず声を上げて笑いそうになった。
「アーサー、1局お相手願えませんか?」
「くくく、またかよ」
芸の無いやつだ。またこの手で俺から酒を取り上げるつもりか?
「まあいいだろう。相手してやる」
退屈しのぎにはなるだろう
「ありがとうございます」
オリバーは対面に座り、チェス盤を広げる。
二人で駒を並べ合う。
アーサーの手つきはいつも以上に酔っているためフラフラと揺れている。駒の並びがオリバーと対照的にやや不格好になりつつある。
「アーサー、一つよろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
駒を倒さないよう、細心の注意を払いながら返事をする。
「この対局、私が勝ったら私の
アーサーの駒を持つ手がピタリと止まる。
「…………オリバー」
アーサーの声は堅く、ゾッとするほど冷たかった。
「確認するが、それはギャグで言ってるんだよな?」
「冗談のつもりはありません」
空気が凍りつく。
「お前……本気で言ってるのか? この俺に勝ったらだと? チェスのワールドチャンピオンだった俺に? ただの一度も勝てたことのないお前が?」
「本気です」
オリバーの短い返答に、体が震えるほどの怒りが込み上げる。
プライドを逆撫でされた。その事実がアーサーの体から隠し切れないほどの怒気を発した。
「……一日よこせ。酒を抜く」
潰す。
この思い上がったアンドロイド野郎を。
この俺に勝とうだなんて欠片でも思った糞ったれを。
完膚なきまでに叩き潰す。
遭難16日目。
かつて無いほど重苦しい空気の船内で、二人の男が向かい合って座っていた。
二人の間には小さなチェス盤が。このチェス盤が彼らの戦場だった。
オリバーはこの日もいつも通りの佇まいであった。上物のスーツを着こなし、きっちりと決めた髪型が似合うその端正な顔はただ冷静に相手を見つめている。
対するアーサーの様子はいつもと違った。
伸びっぱなしだった無精髭を整え、くたびれた服装は彼が持っている中で最も良いもの……現役時代に愛用していたものへと変わっていた。
その日のアーサーは本気だった。身なりだけでなく気の持ちようも、かつて最強の名を欲しいままにしていた時と同じものだった。
今までの勝負に手を抜いていたわけではない。
だがあくまで遊びだった。
この勝負は違う。100%勝つために一切の甘さを捨てた。
この勝負が生涯最期の対局になるだろうと考えていた。
それがこれまでの自分の人生と、オリバーに対するケジメだった。
「オリバー、確認するがこの勝負、負けた方が勝った方の言うことをなんでも聞く。それでいいんだな?」
「はい。私が勝ったら、貴方は私の
「いいだろう。俺が勝てば、お前は大人しくスリープモードに入る。いいな?」
「はい」
短い話し合いは終わった。ある意味では決裂したと言えるだろう。
「では、始めましょう」
「……。」
「…………。」
「…………。」
お互いに無言のまま勝負を進めていく。
船内には駒を打つ音だけが響いていた。
今までであればお互いに軽口を叩き、取り止めのない話に花を咲かせたものだ。その合間の沈黙すら心地よかった。
だが今この場を支配しているのは、鉛のように重い沈黙。
息苦しさすら感じるこの空間で、彼らは戦いを続けていた。
勝負が動いたのは対局を始めてから数時間後、アーサーの一手がきっかけとなった。
「……っ! ちっ……」
駒を動かした直後、自分の打った手がとんでもない悪手だと気づいた。
らしくない……いや酔っていた時でさえしないようなあり得ないミスだった。
焦るな……まだ挽回できる。
そう自分に言い聞かせる。しかし、知らず知らずのうちに自身の背筋に冷や汗が伝っていたことに気付けなかった。
…………何かが違う。
そう気づいた時にはすでに遅かった。
オリバーの打つ一手一手が重い。彼が駒を動かすたびに退路を塞がれていく感覚をアーサーは覚えた。
「っ! クソっ!」
今までにないほどの焦燥感がアーサーを襲う。
この勝負、負けるわけにはいかないのだ。
自身の脳細胞をフル回転させオリバーを迎え撃つ。しかしこちらの放つ起死回生の一手がことごとく潰されていく。
そして…………
「チェックメイトです。アーサー」
オリバーがこの勝負の終わりを宣告した。
「……馬鹿な」
顔面蒼白のまま盤面を見つめる。だが結果は変わらない、アーサーの敗北だった。
「私の勝ちです。アーサー、約束の通り私の
オリバーの言葉の意味がわからなかった。受け入れられなかった。
「…………なぜだ?」
「……アーサー」
なぜ負けた?
負けるはずのない勝負だった。負けてはいけない勝負だった。
「なぜだぁっっ!!!」
激昂と共に立ち上がり、チェス盤を薙ぎ払う。
そのまま目の前のオリバーの胸ぐらを乱暴に掴む。
あり得ない、そんなはずがない。
負ける要素なぞどこにもなかった。
一切油断していなかった。アルコールが抜け、コンディションは現役時代のそれと同じだった。
オリバーの実力なんて、自身の足元にも及んでいないはずだった。
「お前……まさか……今までの勝負、手を抜いていたのか?」
その考えに至った時、アーサーは裏切られたように感じた。
「わざと負けて、この俺を喜ばせていたつもりか? そうやって俺のご機嫌伺いをしていたのか!? …………俺たちの今までは……全部嘘だったてのか?」
「いいえ、今までの勝負で決して手を抜いたことはありません」
「じゃあなぜ俺は負けた! この前までのお前と今日のお前は何が違う!!」
「アーサー……」
「答えろ!! オリバー!!」
オリバーは自らを睨みつけるアーサーを冷静に見つめ、静かに口を開いた。
「私はただ、貴方に死んで欲しくない。……そのためにもこの勝負何があっても絶対に勝つ。そう思いながら貴方に挑んだだけです」
アンドロイドの言葉に声を失う。
胸ぐらを掴む手から……強張った全身の筋肉から力が抜けていく。
「勝つためにはその思いが必要だと……アーサー、貴方から教わったことです」
呆然としたまま目の前のオリバーの顔を見つめる。
今まで無機質に見えてきたその目からは、強い意志を感じた。
ああ……本当はわかっていた。
わかっていて目を背けていたのだ。
対局の最中、なぜ自分がつまらないミスをしてしまったのか?
対局中ずっと感じていたアレは何だったのか?
それはオリバーの放つ、今まで戦ってきた誰にも劣らないほどの、気迫だったのだ。
「アーサー、さあ私を使ってください」
「……いやだ……頼む……やめてくれ」
オリバーの言葉を、弱々しく拒絶する。
「……やめろ……やめてくれ……死なないでくれ」
オリバーに縋り付くように懇願する。
「なんでお前が死ななくちゃならないんだ? お前じゃなくていいじゃないか……この俺でいいじゃないか!」
「アーサー」
「俺ははなっから死のうとしてた人間だぞ! 俺が死んだところで悲しむ奴なんていやしない! お前は違うだろ! お前にはお嬢様が……待ってくれている家族がいるじゃないか!!」
「アーサー」
「三原則なんて糞食らえだ! なんでお前さんがそんなもんに縛られなくちゃならない!」
この素晴らしいアンドロイドを自身のために死なせたくはなかった。
「頼む……頼む! 俺の人生は後悔ばかりだった、最期の最期くらい、正しいことをさせてくれ!!」
「アーサー!」
オリバーの強く自分を呼ぶ声。
「……いくつか訂正しなければなりません。まず、貴方はこれが最期ではありません。貴方は死なない」
アーサーを諭す言葉は、どこまでも穏やかだった。
「そしてこのことは三原則は関係ありません。これは私自身の意思です」
「オリバー……」
「貴方と出会い、チェスをして楽しかった。お嬢様と私が家族であると言ってくれて嬉しかった。そんな貴方に生きて欲しい、そう思ったのです」
「オリ、バー……!」
「だからこそ……貴方が死ぬと私は悲しい」
そのままアーサーは膝から崩れ落ちる。
泣きじゃくる彼の肩に置かれた手はとても暖かった。
遭難17日目。
「準備はできましたかアーサー?」
「ああ」
エンジンルームで短いやりとりを交わす。
オリバーの開かれた胸からはケーブルが伸び、エンジンに繋がれていた。
「貴方がスイッチを押してエンジンを始動させればオートパイロットで地球にたどり着きます」
「わかった」
「冷蔵庫の中に作り置きしていたサンドイッチがありますので、お腹が減ったら食べてください」
「……わかった」
なんとも緊張感のないやりとりだ。だが、これが最後かと思うと少し目頭が熱くなった。
「アーサー、いくつかお願いがあります」
「なんだ?」
「まず、お酒は程々にしてください」
「はあ……最後までそれか」
お節介なアンドロイドに苦笑する。
「あと、お嬢様に会ってほしいですね」
「わかった、何か伝えることはあるか?」
「そうですね……お嬢様のオリバーはワールドチャンピオンよりもチェスが強いと」
「はっ! 言ってくれるぜ」
「あとは……」
そして……オリバーは万感の表情で告げる。
「いい人生だったと」
我が人生最良の一手 ツネキチ @tsunekiti
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