第9話 白銀の陽炎

『死神の厄災』は、わずかに怯んでいた。ノアの突然の変貌によって、わずかではあるが隙が生まれる。

 その隙を埋めるように、上空で大きな翼をはためかせながら、ただ機械的に瘴気を放っているだけだったドラゴンが、ノアを目掛けて急降下する。


 それまで全くノアを意に介していなかったドラゴンの行動や『死神の厄災』の逡巡は、焦りの結果だった。それほどノアの変化が脅威に映ったのだろう。


「ノア!! 危ない!!」


 神殿の内側から、声をかけることしかできないクロエは、視覚外からノアに迫るドラゴンの脅威を必死で伝えようとした。

 その声が届くのとほぼ同時に、ノアとドラゴンの間を隔てるように突如魔法陣が現れる。

 ノアがそちらに視線を向けると、それを合図に魔法陣は歯車のように展開した。


 歯車が止まると黒く大きな手が出現し、そして──、ドラゴンを掴んだ。


 まるで虫けらを握り潰すように、容易たやすくドラゴンの長い首を握りしめた黒い手は、ドラゴンもろとも何もない空間に消えていく。

 ドラゴンのいた場所には、相変わらず黒い雨が降り続けていた。


『死神の厄災』は、ちらりとドラゴンの行方ゆくえを伺ったようだが、それ以上は動かない。呆然としているようにも見えるが、実際は違っていた。


『死神の厄災』は動かないのではなく、動けなかった。決め手となったのは、ノアを守るように現れた魔法陣だった。

 ノアの変貌や魔法陣は、『死神の厄災』にとっては、完全な想定外。それは『死神の厄災』に深刻なエラーを引き起こしていた。


「大丈夫。すぐに終わるから。──大丈夫」


 ノアは、クロエを振り返って優しく語りかけた。距離を考えれば届くはずのないノアの声は、しかし、黒い雨音を超えてクロエにしっかりと届く。


「──うん。分かった」


 クロエは自然とそう応えていた。どこか温かく、けれど不安になる、いつかどこかで聞いたことのあるセリフ。

 いつ、どこで聞いたのだろう──。気にはなったが、それを思い出している余裕はなかった。


「クロエは、そこから一歩も動かないで」


 続くノアの言葉にクロエはうなずいた。

 それを確認したノアは『死神の厄災』と向き合う。


『死神の厄災』は、その間もただ茫然としているように見えたが、一つだけ変化があった。ずっと片手で握っていた三日月型の大鎌を、両手で握っている。そして、ノアと向き合うのとほぼ同時に、それまで鈍色にびいろだった大鎌が黒紫のほのおをまとう。


 ゆらゆらとした黒紫の焔を伴った大鎌が、ふっ──と、音もなく揺らめく。

 次の瞬間には、魔法陣が大鎌の行く手に展開する。『死神の厄災』がノーモーションで振るった大鎌を、魔法陣は的確に阻んでいた。

 結局のところ、大鎌はノアにも魔方陣にも傷一つつけることができていない。


「そんなもの? 『死神の厄災』。今回のあんたは、その程度なの?」


 淡々とした語り口は、いつもと変わりがない。

 しかし、クロエの目にはノアが笑っているように見えた。勝てることを確信しているからなのかもしれないが、煽るような言葉は、どこか楽しんでいるようにも見える。


 大鎌を阻まれた『死神の厄災』は、第二の手を打とうと一歩後ずさった。三日月型の大鎌が離れると、魔法陣が消える。

 しかし、ノアは後退を許さなかった。『死神の厄災』よりも速く動き、一瞬で距離を詰めると、手のひらを『死神の厄災』に向けてかざす。それを合図にノアの前に魔法陣が再度現れた。


 ノアは『死神の厄災』に向かいながら、かざした手を魔方陣の中に突っ込む。すぐに引き抜いたその手には、剣が握られていた。

 魔術師のローブに身を包んだノアには不釣り合いなその剣は、ドレイクの剣にそっくりだった。

 ──いや、ドレイクの剣だ。クロエはそう確信する。


 クロエの目にも力の差は歴然だった。にもかかわらず、『死神の厄災』は機械的に大鎌を振るう。『死神の厄災』だけが、その刃がノアをとらえることができると信じているようだった。

 しかし、何度か振るった刃を魔方陣に阻まれると、『死神の厄災』はその動きを止めてしまった。


「人間と違って、あんたたちは悪あがきはしないものね」


 ノアの言葉通り、『死神の厄災』は、それまでの動きからは想像できないくらいあっさりと闘うことをやめてしまった。


「これでしばらくは平穏に暮らせるかしら?」


 ノアは誰に問うでもなく独り呟くと、ドレイクの剣を『死神の厄災』の胸部へとまっすぐに突き刺さした。

『死神の厄災』は悲鳴を上げたりはせず、ただ静かに煙となって消えていく。完全に消えてしまうと、そこには何も残らなかった。


 ノアがすっと剣を振り下ろすと、黒い雨が上がり、陽炎が立った。クロエの目には、白銀の焔のように映った。


 黒い雨に濡れたノアの頬に薄く日が差している。

 

 振り返ったノアはクロエを見つめて、


「クロエ。大丈夫?」


 と言ってニコリと笑った。

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