第8話 小さな光

 ズル……ズル……ズル…………。


 ノアが地を這う音が、雨音に交じってクロエの耳まで届く。向かう先は、切り離された自らの身体。

 たどり着いたところで、もうどうにもならない。活動できていることが不思議なくらいだ。二つに分かれたノアが、一つになることはもうおそらくない。


 ズル……ズル……ズル…………。


 それでもノアは、懸命に進んでいく。


 ノアの頭にあるのは、クロエのことだけだった。自分が諦めてしまっては、目の前の黒く禍々しいものからクロエを守る者はもういない。

 いずれは神殿に張られた結界も破られてしまうだろう。

 ──いや、クロエのことだ。ノアの消滅を目の当たりにしたら、神殿から飛び出してきてしまうに違いない。それは、クロエの死を意味していた。


 ノアにとって、諦めることはクロエを殺すことと同義だった。それだけは絶対に避けなければならない。


 だから──、


 ズル…………ズル………………ズル…………。


 ノアは、進み続けた。


 クロエを殺すわけにはいかない。


 ノアの頭にあるのはそれだけだった。


 そんなノアの姿を、クロエは大粒の涙を流しながら見つめていた。仮面の内側を濡らしながら、クロエはただ見ていることしかできなかった。

 かけるべき言葉は無数にあるはずなのに、声が出ない。ひっ、ひっ、ひっという呼吸音だけが、体外に溢れていく。呼気と合わせて、胃の内容物がせり上がって来るのを感じた。


 ズル…………ズル……。


 芋虫のようにゆっくりと地を這うノアの進む先に、『死神の厄災』はいた。

 『死神の厄災』は、自らがノアの進路に立っているのを好都合だとばかりに右の手のひらをノアに向けた。


 その後に起こることを想像するのは容易だった。

 クロエは、『死神の厄災』の手のひらから放出される禍々しい黒紫のほのおに触れた村人たちの末路を、何度も目の当たりにしている。これまでノアは黒紫の焔を遮ってきたけれど、今の状態を見るに、それを期待することはできそうもない。


 ということは────。


 それ以上は、恐ろしくて想像できなかった。


『死神の厄災』は、ノアのノロノロとした動きを、勿体つけるように悠長に眺めていた。

 ノアが反撃できないことは分かっているようだ。けれど、動かない。もしかしたら、それまで黒紫の焔をことごとくかき消されていたから、ほんの少しだけプログラムを詐害され、わずかの躊躇があるのかもしれない。

 しかし、何をきっかけに黒紫の焔を放出するかは誰にも分からない。


 クロエは、それ以上見ていることができず、思わず目を瞑った。


 永遠にも感じられる時間の中で、瞼越しの暗闇が真っ白な光に変わるのを感じた。恐る恐る瞼を上げると、ノアがいたはずの場所が小さく丸い光に覆われている。

 そこに『死神の厄災』の放つ黒紫の焔が、容赦なくぶつかっていた。しかし、ノアを包む小さく丸い光は、黒紫の焔を物ともしていない。


 クロエの目には、丸い光が少しずつ大きくなっているように見えた。

 いくつもの小さな光がノアのもとにやってきては、ノアを包んでいた。


 何もないところからノアの元へ集まる光が、なんであるのか、すぐには分からなかった。

 初めのうちはノアの近くから自然発生しているだけだった光が、少しすると離れた場所からもやってくるようになった。


 光がやってくる方へ目を向けると、建物の陰に隠れたブレンダンがいた。ブレンダンは、クロエが目に止めた次の瞬間には白い光となって、ふわふわとノアの元へと向かう。

 光となっているのは、ブレンダンだけではなかった。他の村人も次々に光へと姿を変え、ノアの元へと向かっていく。


 光は、村人だった。


 ノアの近くで自然発生的に現れていた光は、『死神の厄災』の放出する黒紫の焔によって消されてしまった村人たちの魂だった。黒紫の焔に触れた村人は、溶けるように消えてしまったが、その魂は消えていなかった。

 黒紫の焔に消されてしまった村人も、そうでない村人も、魂となって、ノアに引き寄せられるように次々と集まっては、ノアを包む丸い光の一部となる。


「我らが娘を守り給え。我らは、その助けとならん」


 他の光よりも大きな光が、ドレイクの声を伴って『死神の厄災』の背後から浮かび上がる。そして、他の光と同様にノアを包む光の一部となった。

 村中の魂がノアの元に集まると、ノアを包んでいた光る球体は、直視していられないほど眩しい輝きを放った。

 光の中でノアがゆっくりと立ち上がるのが分かる。そして、光は徐々に小さくなると、ノアの体をベールのように包んだ。

 まるで光る布を全身に纏っているようなノアは、クロエが知るノアよりも大きく見えた。そして、光がノアに吸収されるように消えていくと、魔術師のようなローブを纏ったノアが現れた。

 現れたノアはもう身体を二つに切り離されてはいない。

 その立ち姿は、クロエが知るノアとは違っていたけれど、クロエにはそれが確かにノアだと分かる。生まれた時からそばにいたノアを、見紛うはずがない。


「ノア──ッ!!」


 クロエは、嬉しくてまた涙を零した。

 今すぐ駆け出して抱きつきたかったが、ノアの放つ魔力がそれをせさなかった。ヒリヒリと身を焼くような魔力が、クロエの元まで届いている。


 近づけないのなら、せめてもう少しノアの顔をはっきりと見たい──、という想いは、自然とクロエに仮面を外させた。神殿の内側にいるという油断もあったのだろう。

 仮面を外した途端、強烈な瘴気がクロエを襲う。

 死霊魔術師ネクロマンサーの端くれであるクロエには、その瘴気が三種類あると分かった。

 二つは『死神の厄災』と、空中で機械のように咆哮を続ける黒いドラゴンのもので間違いないだろう。その他に村にいるのは、クロエと、そして、ノアだけだ。

 ノアの放つひりつくような魔力は、瘴気だった。


「ノア。あなたは──、やっぱり死霊だったの?」


 ノアの横顔は、申し訳なさそうに笑っているように見えた。

 クロエは、もはや驚いたりはしない。ノアが死霊であろうが関係ない。ただ、ひたすらノアの無事を祈るだけだった。

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