第6話 黒い襲来

 クロエは、一歩踏み出そうとするノアの服の裾を咄嗟に掴んだ。

 ノアは足を止めて、クロエを振り返る。無表情のノアを見て、クロエは思わず視線をそらしてしまった。

 そらした視線の先で、ナターシャが外に飛び出して行くのが見える。一瞬見えた扉の外は、朝だというのに真っ暗だった。

 いつの間にか降り出した雨粒が、外を黒く染めている。見たことのない、黒い雨だった。


「大丈夫。私は、どこにも行かないから。ちょっと戸締りを確認してくるだけ」


 その声にハッとして、再びノアと視線を合わせる。相変わらずの無表情だ。


「ノア。もしかして、何が起きてるか知ってるの?」


 思えば、少し前からノアの様子はおかしかった。

 ノアはナターシャの話を聞いている間中、クロエの隣で黙っていた。たしかにノアは無口だ。けれど、決して何事にも無関心というわけではない。

 それに無口ではあるが、愛想は比較的いい方だ。

 そんなノアが、挨拶もせず、ナターシャの話に相槌を打つこともなく、ずっと黙っているなんて、思い返してみればおかしなことだった。

 今だって──、こんな無表情なノアをクロエは見たことがない。


「……とにかく、クロエはここで待ってて」


 そう言うと、ノアはクロエの返事を待たずに駆け出していく。

 クロエは素直に従わず、すぐにノアの後を追った。ほとんど並んで走る格好になる。ノアは無表情のままクロエに顔を向けたが、すぐに目線を切って前を向いた。


 扉までの十数メートルの間にも、轟音が二人の耳を襲う。どぉぉぉんと無機質に鳴り響く音と暗い外の景色が、クロエを不安にさせた。

 間違いなく良くないことが起きている。

 無機質な音だけではなく、真っ暗になった村や、ノアやナターシャの行動がそれを証明していた。


 扉の前まで来ると、一層大きな音が聞こえてきた。

 堅牢な扉なのにおかしいと思ってよく見ると、少しだけ隙間が空いている。ナターシャが出て行ったときにしっかり閉まらずできた隙間だった。

 無機質な音と黒い雨が降りしきる中飛び出して行ったナターシャが、心配でならなかった。


「ナターシャさん……」


 心配するクロエに、ノアは機械のように「大丈夫。大丈夫だから」とだけ言った。


「──でも……」


 クロエはほんの一瞬、躊躇したのちにすぐに扉に手をかける。そして、そのままノアが制止する間も無く扉を押し開いた。

 堅牢なはずの扉は、クロエを神殿の外に押し出そうとするかのようにあっさりと開く。


 目の前に広がった村は、見たこともないくらい暗かった。月明かりがある分、きっと今よりも夜の方が明るい。暗闇を象徴するような黒い雨粒が、クロエの頬を打った。


 大きな違和感を覚えて空を見上げると、一際黒く禍々しい円状のものが薄く光っているのが見えた。

 そして、その周りを大きな翼をはためかせた魔物──黒いドラゴンが周遊している。


 ドラゴンは、一定の間隔で口から暗闇よりも黒い瘴気を放っていた。しかし、その瘴気は村にたどり着くことはない。村の上空、何もないところで霧散している。

 まるで、見えない壁に阻まれるようにして消えてしまうにも関わらず、ドラゴンは機械的に瘴気を放ち続けていた。そのたびに、あの、どぉぉぉんという無機質な音が鳴る。


 視線を下ろすと、神殿から数百メートル離れた場所で大きな鎌を肩に担いだ何者かが、円状の光に照らされるようにして立っていた。そして、その何者かに向かって行く村人たちの姿が見えた。


 何者かが持つ三日月のような形の大鎌は、人を殺傷するために作られたものだとすぐに分かる。

 一方の村人は、農作業に使う鍬や、その辺に落ちていたのであろう木の棒など、殺傷とはおよそ無関係のものを携えている。三日月型の大鎌と比べると、ひどく頼りない。


 最後尾に丸腰のナターシャの姿も見えた。


 争いとは無縁な村で育った、戦闘の知識など微塵もないクロエの目にも、無謀な行動だと分かった。


「みんな……。ダメだよ」


 そう思うと、クロエの足は自然と村人の方へ向いた。逃げ出したいほど恐ろしいと思う反面、いつも優しくしてくれた村人が、あの三日月のような大鎌の餌食になってほしくはなかった。


 クロエが神殿から一歩踏み出すと、大鎌を担いだ何者かの首が不自然に動く。まるで吸い寄せられるかのようにクロエのことを捉えたその視線は、クロエの視界を奪うほどの殺意に満ちていた。


 クロエは、その視線の主こそが『死神の厄災』だと直感的に悟る。


 視線が交わった瞬間、『死神の厄災』は大鎌を握る手とは反対の掌をクロエに向けた。そして、クロエが何かを思う間も無く、黒紫のほのおが放出される。


 それほど速くない──、と感じたのは、クロエが命の危機に瀕したからだった。

 その証拠に「あれに触れたら死んでしまう。早く逃げなければ」と思って、いくら身体を動かそうとしても思うように動かすことができない。

 ──いや、ほんの少しずつは動いていた。しかし、クロエの体感する時間は、黒い雨粒が止まって見えるほど遅くなっている。


 クロエの瞳は、『死神の厄災』との動線上にいた村人が、黒紫の焔に飲まれて行く姿をゆっくりと、じっくり映してしまった。黒紫の焔に触れた村人は、溶けるようにクロエの瞳から消えていく。


 最後尾にいたナターシャが黒紫の焔に触れると、クロエと『死神の厄災』とを隔てるものは何も無くなった。


 雨粒の動きが一気に速くなる。


 時間の感覚が元に戻ると、クロエの視界はあっという間に黒紫に染まった。


「もうダメだ」と固く目を瞑り、顔を背ける。──が、それっきり何も変化がない。自分自身の荒い呼吸音が雨音に交じって聞こえるだけだ。


 不審に思って、固く閉じた目を恐る恐る開けると、ノアの小さな背中が視界を遮っていた。

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