魔女のキャンディ 【ショートショート】

いとうヒンジ

魔女のキャンディ



 高森咲は魔女に出会ったことがある。


 あれは彼女がまだ六歳の時――夕暮れに染まる児童公園で、いつもみたいに友達と遊んだ、その帰り道での出来事だった。男の子に混じってはしゃいだ彼女は全身泥だらけで、ああまたお母さんに怒られるなんて、そんなことを考えていると。



「もし、そこの元気なお嬢ちゃん」



 そう声を掛けられた。


 声の主を見れば、真夏の陽炎に似た薄ぼんやりした空気を纏う、針金みたいに細い女が立っていた。その女は、夕焼けのオレンジが燻ったような真っ黒い衣装に身を包み、腰をグッと折って咲を見下ろす。



「……な、なんですか」



 咲はその活発な性格から、見知らぬ人とも臆せず話すことができた。そんな彼女だったが、目の前の薄気味悪い女に心を許すことはできないと。自身の直感が訴えかける。



「あら、怯えてしまって、可愛いこと。なあに、取って食いはしないさ……私は小さい子どもが好きでね、特に外で駆け回る健康的な子がお気に入りなのさ」



 つばの広い三角帽子を被った女の顔は、影が差していてよく見えない。ただ、言葉通り咲を好意的に見ているのは確かなようで――その薄い唇は、横ににんまりと開いている。



「可愛い可愛いお嬢ちゃんに、これをあげよう。とっても美味しい、魔女のキャンディさ。一粒食べれば幸福に、二粒食べれば絶頂に、三粒食べれば空を飛ぶ――そんな魔法のキャンディさ」



 言って、魔女は袖口から一粒の飴玉を取り出した。


 その飴は、見たこともない光を放つ――夕焼けを反射して橙になったかと思えば、次の瞬間には水色に。と思えば、お次は白く染まっていく。


 赤、黄、緑、紫――種々様々に色を変え、その存在を主張する。



「わあ、きれい!」



 幼い咲は、すっかりその不思議なキャンディに夢中になっていた。自分が持っているどんなおもちゃよりも綺麗で、コロコロとした小ささが可愛くもある……彼女は、飴玉にくぎ付けになった。



「これをくれるの? えっと……ま、魔女さん?」



 咲は、童話や絵本で慣れ親しんだ魔女という存在に、遅まきながら驚き出す。



「ああ、もちろんさ。ただし、魔女からキャンディを貰ったことは、誰にも言っちゃあいけないよ。もし言いつけを守ったら、近い将来、またキャンディをあげにくるからね」



 魔女はそう言うと、咲の小さな手に飴玉を乗せる。自分の手の平にキラキラ輝く魔法が乗っていることに、咲は筆舌に尽くし難い興奮を覚えた。


――わあ、すごい! まるで虹みたいだ!


 無邪気にはしゃぐ咲を見ながら、魔女はクスっと笑う。そして役目は果たしたと言わんばかりに、彼女に背を向けた。



「あ、ありがとう、魔女さん!」



「いや、いいんだよ。私は可愛い子どもが好きだからね。約束をちゃんと守ったら、また会いにくるからね」



 気づけば、魔女の姿は忽然と消えていた。隠れる場所も無いはずなのにどこに消えたのか、そんな当たり前の疑問も、今の咲は感じることができない。それ程、飴玉に夢中だった。



「よし!」



 一頻り飴玉の輝きを楽しんだ彼女は――意を決して口の中に放り込む。本当はずっと眺めていたいけど、この綺麗で不思議なキャンディの味を、確かめないわけにはいかなかった。



「――――――っんんん⁉」



 キャンディが舌の上に乗った瞬間――例えようのない衝撃が咲の全身を駆け抜ける。頭頂部からつま先まで、ビリビリと痺れる快感に似たさざ波が通り抜け――彼女は力なく、その場にへたり込んでしまった。


 だが、キャンディはまだ口の中に残り続けている。コロコロと舌で転がす度に、どくんどくんと脳が脈動する。自然と息が上がり、唇の端からはだらしなく涎が垂れる。


――な、なにこれ。ものすごく、おいしい……。


 恍惚とした表情を浮かべた彼女の意識は、そこで途切れる。


 気づいた時には、病院のベッドの上だった。道端に倒れている彼女を心配し、善意の市民が救急車を呼んでくれたのである。


 一体何があったのかと、両親に問い立たされたが――彼女はついぞ、魔女のことは言わなかった。


 そしてもちろん、キャンディのことも。



 ◇



「あー、今日も残業残業、私を殺す気かっての」



 ぶつくさと文句を垂れながら、二十三歳になった高森咲は自身の暮らすアパートを目指す。大学を卒業後、とある広告代理店に新卒で入社した彼女は、慣れない社会人生活に嫌気がさし始めていた。


――あーあ、子ども時代に戻りたい……。


 誰もが一度は考えたことがあるお決まりの願望を唱えながら、咲は家路を急ぐ。急いだところで、特にやることもないのだが。遅めの夕食を取って、追いかけているアニメを見て、後は眠るだけ。こんな毎日がいつまで続くのかと、溜息が漏れる。



「もし、そこの落ち込んだお嬢さん」



 ふと。


 聞き馴染のない、しかし胸の中にストンと落ちる優しい声が、背後から聞こえてくる。時刻は夜の零時を少し回った頃。もし悪意を持った不審者だったら、全速力で逃げなければ――そう思いながら、咲は首だけで後ろを振り返る。



「……っ!」



 声を掛けてきた人物を目で捉えた瞬間、幼少期の記憶がフラッシュバックした。


 闇に溶ける真っ黒い衣装に、つばの広い三角帽子。針金みたいなか細い体躯に、成長した自分よりなお高い身長……間違いない、この人は。



「ま、魔女さん……?」



「その通り、よく覚えててくれたね。嬉しいよ、お嬢ちゃん。もっとも、あの頃に比べれば大分成長したようだけどね」



 魔女は笑う。相変わらず暗く影を落としたその表情は窺い知れないが、笑い声は聞こえてくる。



「お嬢ちゃん、言いつけを守ってくれたんだね。魔女からキャンディを貰ったことを、誰にも言わなかったんだね」



「え、ええ。誰にも言わなかったわ」



 正直、年月が経つにつれ忘れていったと言う方が正しいのだが。しかし、飴を食べて意識を失い、病院で目覚めた後――両親に魔女のことを話さなかったのは、事実である。



「言いつけを守ってくれたお嬢ちゃんには、約束通りこれをあげましょう。一粒食べれば幸福に、二粒食べれば絶頂に、三粒食べれば空を飛ぶ――そんな魔法のキャンディを」



 魔女の手には、あの時と同じように光り輝く飴玉が握られていた。



「ちょ、頂戴! その飴を、私に!」



 その輝きを見た途端、咲の中に眠っていた感覚が呼び起こされる。キャンディを口に入れた時の衝撃、舌で転がす幸福感……立派な大人に成長した少女は、あれに似た感覚を知るようになっていた。



「ええ、もちろん。これをあげるために、私はきたのだから」



 魔女は咲へ向けて右手を伸ばす。そこに握られた飴を受け取ろうと、咲は両手を差し出すが――魔女は手を開かない。



「……? キャンディ、くれるんじゃないの? ねえ、頂戴よ!」



「落ち着きなさい、お嬢ちゃん。確かにこれはあげるけれど……無料ってわけじゃないのよ。当然よね。あなたはもう、可愛い子どもではなく、一人の大人なんだから。大人なら、欲しいものを手に入れる時、お金を払うのは常識でしょう?」



「お、お金……」



 言われて、咲は鞄を漁る。その手はガタガタと震え、とても正常な動きをしていない。早く財布を見つけて、お金を渡さないと……でないと、飴が貰えない。そんな焦りが、彼女の右手を震わせる。



「こ、これで、足りますか?」



 彼女は持ち合わせの全て――一万円を魔女に差し出す。左手で札を受け取った魔女は、小さく溜息をついた。



「はあ……本当ならこれじゃ足りないけど、あなたとは知った中だから、今回はおまけをしてあげる。ただし、これから先もキャンディが欲しいなら、もっとお金をもらう必要があるわ」



 言って、魔女はどこからともなく一枚の紙を取り出した。

 そこには、「契約書」の文字。



「これにサインしなさい、お嬢ちゃん。そうすれば、このキャンディを毎日食べられるようになるわよ。もちろんお金は頂くけれど……もし嫌なら、もうキャンディをあげにはこないわ」



「ま、待って! サイン、サインするから!」



 一粒食べれば、幸福に。

 二粒食べれば、絶頂に。

 三粒食べれば、空を飛ぶ。


 そんな魔法のキャンディを――毎日食べたら、どうなるのか。


 気がつけば、咲は契約書にサインをしていた。



「いい子ね、お嬢ちゃん。やっぱりあなたはいい子だわ。それじゃあ、約束通り、これをあげましょう。それともちろん……魔女からキャンディを貰ったことは、誰にも言っちゃあいけないわよ。もし誰かに漏らしたら、その時点で魔法が解けて、キャンディはただの飴になってしまうわ」



 魔女の言葉が終わるのと同時に、咲は渡された飴玉を口に放り込む。直後、思い描いていたより何倍も強い衝撃が、全身を包み込む。体はガクガクと痙攣し、否応なく地べたに崩れ落ちる。



「それじゃあね、お嬢ちゃん。これからキャンディを食べる時は、人目に付かないところにしなさいな」



 そんな魔女のアドバイスも、咲の耳には届かない。ただ、ああ、このキャンディを食べるために私は生きてきたんだと――薄れゆく意識の中で、思ったのだった。





「今月も売上一位ですね! さすがエレナ先輩!」



 魔界きっての大会社、「ウィッチ製菓」のオフィス内で、二人の魔女が話をしている。



「コツがあるのよ、コツが。あなたも研修が終わったら、早速その通りにやって見なさい」



 エレナと呼ばれた、真っ黒い衣装に身を包んだ針金みたいな魔女は、後輩らしき人物の肩を叩く。



「ターゲットが子どもの時に一度キャンディをあげて、大人になってから定期購入の契約を結ぶなんて、普通思いつきませんよ。さすが先輩!」



 後輩の魔女は分かりやすく太鼓を持つ。それに対して満更でもないのか、エレナは得意気に鼻を鳴らした。



「幼少期に魔女に出会った経験は、大人になった後も強く心に残るものよ。その経験は魔女への警戒心を解き、キャンディへの依存性を強める」



 いきなり目の前に魔女と名乗る女が現れ、キャンディを差し出してきたとしても、大抵の大人は警戒して受け取らない。子どもの時点で魔女という存在を刷り込むことで、スムーズに契約締結に持ち込むのだ。後輩はエレナの思惑を聞いて、うんうんと頷く。



「ただ、この方法にも欠点はあるわ。それは即効性がないこと。最低でも十年以上待たなければ、契約が取れない……でも、その悩みとももうお別れよ」



 エレナは手元の書類に目を通し、邪悪な笑みを浮かべる。そこには、彼女が過去、キャンディを渡してきた子どものリストがあった。何百、何千という数である。



「すでに種は蒔き終わっているわ。大人になったこの子たちから、後は金を巻き上げるだけ。あなたには平行して、子どもにキャンディを渡す仕事をしてもらうわ。そうやって種を蒔けば、いずれあなたも営業成績一位になれる」



「はい! 一生エレナ先輩についていきます!」



 二人の魔女は、実に魔女らしく、甲高い声で笑い合ったのだった。




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