19【フィン感サンプル】人間/山口静花 への感想

 以前応募をいただいて執筆・掲載した「フィンディルの感想」をサンプルとして載せます。感想内容は全く同一です。


 (小説作者さんの許可をいただいています)




 応募に興味を抱いた方は「フィンディルの感想」で検索してみてください。


 pixivFANBOXにて随時応募を受けつけています。


 以下から感想です。











【あらすじ】(作品前書きをそのまま引用)

先生からは時計の音がする。歯車の音とも言えるのかもしれない――






※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。






人間/山口静花

https://kakuyomu.jp/works/16816927859218143044/episodes/16816927859218182765












★総評

総合点:80/105 方角:真西

数%の読者に共感をもたらす作品。世界にチューニングできず、鋭すぎる感性が世界の刺激にさらされないよう電源出力を調整する真由美。「人間とされている」得体のしれないモノではなく、メカニズムの存在する機械を野田先生に期待する真由美。いずれもフィンディルは大きく共感できました。

ただ、共感をもたらす作品も素晴らしいのですが、共感だけで終わらない作品になればもっともっと素晴らしいと思います。共感からは新たな知見・感覚・気づきを拾いづらいため、本作の問いかけにより数%の読者が新たな一歩を得ることはやや考えにくいように思います。数%の読者と線の重なる共感の座標ではなく、さらに線を歩んだ「山口さんの座標」を提示できれば、問いかけはさらに進歩したものとなるはずです。それは山口さん自身にとっても価値のあることと期待します。




●自分を知るため、自分の存在を書き残すための、数%の読者に届く共感


本作への端的な印象を述べますと、非常に共感を呼ぶ作品だなと感じました。

そこに「共感」の言葉を置けるのは読者のうち数%だろうと予想していますが、その数%の読者において本作は共感に溢れた作品だと思います。読者は選びますが、選んだ読者には間違いない共感を提供する作品。

フィンディル個人の感覚を述べれば、とても懐かしい気持ちになりました。ノスタルジーと呼ぶにしては乾ききっていませんが。


自分と性行為に及んでいる最中の相手は、人間ではなく機械なのではないかと思う感覚。優等生と呼ばれる存在は自分が考えていることくらいは考え、理解し、さらに深い地点にあるはずだと思う感覚。丁寧な手続きもなく、善悪の共有が当然のように行われることを不思議に思う感覚。世界と自分が遠くなる感覚、遠くから自分をコントローラーで操作しているような感覚、色(概念)が多く存在していることに疲労を覚える感覚、多くの家が人が人生が同時多発に存在していることを信じられない感覚、友達と自分の位置が遠い感覚、自身の裸体を見て自分は人間であると自覚させられる感覚。

フィンディルは全てに共感できました。知っている感覚、あるいは知っている感覚に加減乗除を施すだけで導ける感覚でした。


当然ですが、野田先生は機械ではありません。人間です。本作はSFではありません。野田先生から時計の音がするのは真由美の気のせいでしょう。

しかし本作に共感を抱くと、「機械ではない。人間だ」と断言してしまうのはとても危ういことであるようにも感じられます。まるで「羅生門」の老婆の行動を「悪いこと」として道徳心に封じこめてしまうような危うさ。

野田先生は人間である。真由美もそれはわかっています。しかし野田先生は人間であるという事実は、野田先生は機械であることを否定するものではないのですよね。野田先生は機械なのです。



本作を読んで印象的なのが、真由美の感情があまり動いていないことです。本作は非常に淡々と進みます。それは本作の視点者が真由美だからです。

野田先生との性行為で真由美は特段の興奮を見せていませんし、授業にも友達との会話にも感情を動かしません。


では真由美は低体温なのかというと違います。世界の刺激に鈍感だから感情が動かないのかというと違います。むしろ逆で真由美はあまりにも世界の刺激に敏感だから、自分を守るために低体温であろうと努力しているのだろうと思います。

家々が並んでいるだけで真由美のキャパシティはいっぱいになってしまいます。家には人が住み、人の数だけ人生があります。見える家の数×80年。これらを真由美はひとつの脳で捌ききらないといけません。家が見えているということは人生が見えているということですから、それらを捌かないと家々を目にしている現実を処理しきれないのですね。それは無理だから真由美は「とても信じられなかった。」と素直に圧倒されてあげる。

野田先生は機械なのではと思ったのも、自身とゼロ距離で性行為している相手は生身の人間であるより機械仕掛けのほうが気が楽だからだろうと想像します。野田先生は機械であってほしいとまでは思っていませんが、「わたしはそれでもいいよ。先生が人間じゃなくても。」と思い「鏡に映る先生の背中には、赤い線ができていて、わたしはそのことがひどく悲しい。」とも思う。緩い期待を持っている。

メカニズムもよくわからず自分で生きて自分で考えて真由美に働きかける生身の存在よりも、メカニズムがはっきりしていてプログラムに沿って真由美に働きかける機械の存在のほうが、真由美のキャパシティを圧迫してしまわないから、真由美は野田先生に機械を期待したのだろうとフィンディルは想像します。

たかちゃんやえりちゃんが人間であることを肯定してあげているのは、真由美にとって彼女達がゼロ距離の存在ではないからだろうと思います。


世界に対して開けっぴろげになってしまうと、色や音や人や意思といった刺激に溢れる世界に自我が破壊されてしまいかねないので、真由美は意図的に低体温に努めているのだろうと思います。電源の出力をあえて20%ぐらいに絞っておかないと刺激を捌ききれない。

白一色の診察室で病院の先生に自分の感覚を話して電源出力を上げている状態では、待合室に様々な色が存在しているだけで真由美のキャパシティは圧迫されて、真由美は疲れてしまうのです。瞳孔が開いている状態では少しの光で過剰に眩しく感じてしまうように。

また自分自身もたんぱく質で構成された有機物である事実も、なかなかに捌ききれないものでしょう。自我に内臓と肉が癒着して一個有機生命体として活動している自分自身も、キャパオーバーになって圧倒されるには十分な事実です。

世界が平面的に見えるようになっているのも、自身をコントローラーで操作している感覚を覚えるのも、真由美が自分の電源を弱くしているからだろうと思います。電源を100%にするとデータ量が大きすぎてあっという間に自分が壊れてしまいますから。一般に3Dより2Dのほうがデータ量は少ないですし、遠隔操作すれば自身と世界の距離は確保できます。

そして「道徳」や「常識」といったフィルターを何重にも張って自動的に刺激を減らして生きていけている自分(真由美)以外の人に対して、真由美は遠いと感じているのだろうと思います。ピラニアだらけの川を平気な顔して歩いて笑っている。自分以外はみな特異であると。

そんな周囲に対して真由美は、無関心と恐怖と呆れと、ほんの少しの優越感を持っているのかもしれません。


そういう意味で真由美は世界にチューニングできていない人なのだろうと想像します。多くの人が「こういうもの」のフィルターを用いて自動的に世界にチューニングして生きているのと違って、真由美はチューニングができていない。だから電源の出力を調整することで何とかやっている、という感じでしょうか。

これは何かきっかけがあってこうなったのではなく、ナチュラルに真由美がそういう性質の人間なんだろうと思います。とても共感できます。


余談ですが、真由美はおそらく精神科にかかっているものと思われます。薬を処方してもらい、定期的に病院にかかっているのでしょう。ならば真由美は自身の感覚を治療したいと思っているのかというと、おそらくそんなことはないのだろうと想像します。病気というより価値観や視界という認識をしていると想像します。真由美が精神科にかかっているのは、自分を知りたかったからだろうと想像します。自分はどういう人間なのか、自分の感覚は世界の相場からズレているのか。薬を処方されるのであれば、それは世界の相場からズレているのだろうとおよそ判断できますから。それらを知る一環として、病院にかかっているのだろうと想像します。

あるいは後述と関連しますが、自身の共感者や理解者を医学に求めたのかもしれません。



どうして真由美は野田先生と肉体関係を持っているのか。生徒と教師の関係ですから、一般に考えて不自然です。不適切でもありますが、それは保護者の立場であるべき野田先生の問題なので、真由美について話すここでは割愛します。

世界の刺激に敏感であるのなら、電源を調整しなければ生きられないのなら、一般に刺激が大きいと考えられる肉体関係は忌避するものと考えるのが普通です。別人格の人間が劣情のままに自身を求めて距離を詰めてくる事象は、あっというまにキャパオーバーしてしまうものでしょう。真由美が、野田先生に機械を期待してキャパ調整をはかったところから察することができます。

何故そうまでして真由美は野田先生との関係を維持しているのか。

フィンディルの想像ですが、寂しいからだろうと思います。真由美は寂しいのだろうと思います。


何重のフィルターを無意識に張って、フィルターを張っていることを自覚もせず、ピラミアだらけの世界を平然な顔をして生きる周囲。その「遠さ」に真由美は無関心や恐怖や呆れや優越感を持っているかもしれませんが、それとは別に真由美は孤独も持っていると想像できます。何故ならば自分と同じ視界を持っている人は、周囲にいないから。

たかちゃんもえりちゃんも遠い存在。自分(真由美)の視界を共有できる人は誰もいません。真由美は自分の周りに誰もいない感覚を覚えているかもしれません。人だらけ刺激だらけの世界のなかで、レイヤーの違う視界を生きる自分の周囲に、同じレイヤーの人間はいない。それはとても寂しいことです。孤独なことです。満たされない気持ちになるでしょう。自分の隣で「そうだねそうだね」と頷いて共感してくれる人がいない。


だから真由美は野田先生と肉体関係を持ったのだろうと想像します。学生にとって、身近にいる知見豊かな人は教師です。理解してくれるかもしれない共感してくれるかもしれないと求めたくなる気持ちに、フィンディルは共感できます。

刺激に敏感で電源を抑えて低体温で生きる真由美が体温を刺激を求めてしまうのは、寂しいから。このように解釈します。


結果的には失敗したっぽいですけどね。野田先生は「道徳」のフィルターを持つ人で、真由美の隣で「そうだねそうだね」と頷いて共感してくれる人ではなさそうです。

刺激に敏感で周囲との関わりを絞らざるをえないが、それにより孤独になって体温を求めてしまう。この行動にはリスクがつきもので、がさつな刺激にあてられて(求めておきながら)拒否反応を示してしまうのは珍しいことではありません。

それでも真由美はまだ野田先生への期待を捨てきってはいないのでしょう。たかちゃんが野田先生を好きな理由を気になったのは、野田先生にまだ何かがあるのかもしれないと期待したからでしょうし。そしておそらく野田先生はポーズに過ぎないかもしれませんが、「そうなんだ」と真由美への共感を言葉だけでも示すことはできるでしょう。下心を含んだ大人の仕草で。

真由美はそれにも気づくでしょうが、それでもポーズだけの共感でも相応に貴重なものなので、真由美は満たされない思いを抱えながらイミテーションの共感を補給して日々を生きていくことになるのだろうとフィンディルは想像します。遠さも孤独も抱えたまま。




以上が本作へのフィンディルの簡単な解釈と、一通りの共感です。

山口さんは本作を指して「納得のいくものが書けた」と仰っていました。それは真由美の言語化に成功したからでしょう。そしてフィンディルが読者として共感を示せる程度には、真由美の言語化に成功していると思います。

そしておそらく、真由美は山口さんだろうとも思っています。ぴったり一致しているわけではないでしょうが、真由美と山口さんのベン図の重なりは大きいと想像しています。本作で書かれている真由美の性質は、全くの知識や想像で書ける類のものではありませんから。真由美が抱いた感覚は山口さんも抱いたものと考えるのが自然です。

その山口さんが抱えてきた感覚の輪郭を掴み、言語化に成功した作品。それが本作であり、だからこそ山口さんは本作に納得感を抱いたのだろうと想像しています。

物語性の強化などで誤魔化していないのも、山口さん自身の納得感に繋がっているだろうと思います。

フィンディルとしては本作を読むことで「山口さんの作品的魅力への認識を改めないといけないなあ」と思いました。


自分を知る、人間を知る。自分とは何なのか、人間とは何なのか、知っていく。

自分の存在を書き残す、人間の存在を書き残す。自分に一瞥することもなく歩みを止めない世界に対して、自分を人間を書き残す。

本作はそのような動機をもって書かれた作品だろうと想像していますし、これに強い納得感を覚えたということは、山口さんの創作動機は「自分を知る」「自分の存在を書き残す」といったものなのかもしれません。もちろん違うかもしれません。

仮にそうならば、それはとても意義深いものだと思います。自分を知るために創作があるなら、自分の存在を書き残すために創作があるならば、それはとても意義深いものだと思います。

そして作者当人にとってのみ意義深い創作に触れることは、数%の読者にとっても意義深いものです。作者当人にとってのみ意義深い創作でないと触れえない意義深さが、数%の読者にはあります。読者に読まれるための作品では決して出しえない意義深さが、そこにはあります。そしてその数%の読者が触れえる意義深さは、作者当人が「自分を知る」ために「自分の存在を書き残す」ために自作を公開する動機として十二分なものであると考えます。

そうして自分を知り、自分の存在を書き残し、深め続けていった意義の先に、自分が生きてきたことを許せる気持ち、自分が生きていくことを許せる気持ちがあるのだろうと期待できます。

自分が生きてきた・生きていくことを許せる気持ちになるならば、創作とは何と意義深いものか。膨大な時間と脳を使う価値があります。

自分が生きてきた・生きていくことを許せる気持ちにいつかなれるならば、創作に時間を使い、書き、磨き、公開することには確固たる意義があるのです。



本作は山口さんにとって、その第一歩になる作品だと思います。山口さんが本作に強い納得感を覚えたのならば、それはとても意義深いものだと思います。

個人的には「もうそれでいいじゃないか」という気も持っています。山口さんが抱いた納得感こそが、本作の価値であり品質であり、本作が素晴らしいものであると告げる何よりの証拠だと思います。


山口さんが本作をフィン感に応募したのは一種の信頼であると思っていますので、本作の意義を認めたうえで客観的視点を提供します。次項目では指摘をします。

しかし本作の評価において何より大事なのは、山口さん本人の納得感であるとフィンディルは思います。

本作は誰のために書かれたのかというと山口さんのために書かれたものです。ならば山口さんの納得感こそが本作の意義です。ただそういう作品にしか触れえない読者視点の意義もあるため、その読者視点の意義を品質に変換して軽重を示すことも可能、というだけの話です。本作における他者の評価は付属物であると思います。

本感想であれこれ言葉や指摘があっても、山口さん本人の納得感を大事にしてほしいと考えます。

山口さんの創作は山口さんのために存在しているものだと思いますし、山口さんのために存在していいと思います。その意識で、数%の読者は勝手に意義深さを摂取してくれます。


失礼な物言いがありましたら申しわけありません。



●共感で終わらない作品を


指摘です。

前項目においてフィンディルは、本作は共感を呼ぶ作品だとお話ししました。

大半の読者は本作にピンとこないでしょう、しかし数%の読者は本作に共感を抱きます。

それは真由美の、山口さんの言語化なわけで、我々が共感を抱けるということは言語化に成功したことを指すのだろうと思います。

とても価値のあることです。


しかしこれは同時に指摘でもあるのです。

作者当人からすれば、本作に抱いた納得感こそが本作の意義であり品質です。

しかし数%の読者からすれば、本作に抱いた共感は本作の意義であると同時に、本作への指摘にもなりえるとフィンディルは考えます。

つまり「わかるわかる」「そうだねそうだね」という共感以上の何かが、本作には拾えないのです。そして共感以上の何かは、山口さんが本作執筆で見据えた方向の先に、必ずあると考えています。

それを言語化すること、文章に顕現させることを本項目の指摘としたいと思います。

本作の方向性、真西という方向性は共感で終わるようなものではないと考えています。



―――――――――――――――――――

人間とは何か。人間とは誰なのか。

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本作のキャッチコピーです。前書きでも

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人間とは何なのでしょうか。誰が人間で、誰が人間ではないのか、考えるきっかけになることができたら、うれしいです。

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という問いかけがなされています。人間とは何なのか。


フィンディルの解釈ですが、この問いかけは(社会問題への問いかけのような)問いかけ主に結論や主張がある類のものではないと考えています。何かしらの主義を示すものではないだろうと。

もっと幼稚で、もっと原初的なものだと考えています。子供が「何で何で? 何でそうなるの?」と大人に問いかけるのに似たような。自分の視界、自分のレイヤーに触れてもらいたい気持ち。


自我に内臓と肉が癒着してメカニズムも不明にそれぞれが得体の知れない意思のままに生きて動いて働きかけるモノを「これが人間です」とばかりに、どうして水なし二錠に咳きこみもせずに呑みこめるんですか? 私も同じように頑張って呑みこもうとしてみましたが、咳きこんでとても呑みこめるものではありませんでしたよ。私の話を聞いてみてもう一回呑みこんでみてくださいよ。咳きこむはずですよ。え、呑みこめちゃいました? おかしいなあ、呑みこめないはずなんだけどなあ。

そんな得体のしれないモノが周囲には社会には無数にいて、そこで生きるって私にとっては太陽系の一気飲みみたいな感覚なんですよ。そして私自身も人間でしょ。五感あってお腹すいて排泄するから私も多分人間なんですよ。私自身が得体のしれないモノなのでずっと咳きこんでしまうんですよね。私ってお腹すくんですよね、何を生物として通常営業かましてんねん、なんですよね。

周囲に無数に存在していて自分自身もそうである「人間」って何なんですかね? 何で呑みこめるんだろう。咳きこんで咳きこんでどうしようもない。何で、何なの?


というのがフィンディルの解釈です。フィンディル個人の拡大解釈が入っている可能性があります。全く違っていたらごめんなさい。

本作の問いかけには確固とした主張があるわけではなく、周囲との感覚のズレを理解してもらいたい気持ちがあるのだと想像します。訴えたい主張があるというより、不思議や疑問を共有したい気持ちでしょうか。

それを問いかけのかたちにしている、とフィンディルは思っています。



まず大多数の読者には、上記の問いかけはほとんど届かないだろうとフィンディルは想像しています。

本作のどのあたりが「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけになっているのか、ピンとこないと思います。「野田先生は機械ってこと?」みたいなSF的発想に結びつく人もいるかもしれません。

共感以前に、何をもって「人間とは何か。人間とは誰なのか。」という問いかけをしているか、それを理解することも難しいと思います。

それは当然のことで、本作では真由美の(あるいは山口さんの)性質が書かれていますが、読者が理解できるように順を追った説明や紹介がなされているわけではありません。

問いかけの形式こそ採用していますが、理解してもらうための作品的努力がなされていない。問いかけの意図の説明がなされていない。

なので大多数の読者には、「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけは届かないと想像します。


ただこれは何も気にする必要はないと思います。本作は大多数の読者のための作品ではありませんから、大多数の読者に問いかけが届かなかったとしてもそれが本作の意義や品質を揺さぶるものではないと考えます。

むしろ大多数の読者に届かないことが、山口さんが本作を自身のために書いたことの証拠であると思います。

大多数の読者に届くように説明や紹介に気を割いてしまえば、それはもう本作でなくなってしまいますから、むしろやってはいけないことだと思います。

説明したいのではない紹介したいのではない、ただ触れてもらいたい視界やレイヤーを共有したい。ならば順序立てて理解してもらう必要は一切ないのです。

なので大多数の読者の印象については視界や考慮に入れる必要は全くないと考えます。



大事なのは「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけが届く数%の読者です。説明や紹介をしなくても問いかけが届く数%の読者です。

この層にとって本作の「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけはどのように届いたのか。

それは何度もお話ししていますが、共感です。「わかるわかる」「そうだねそうだね」という共感です。

自分も過去・現在進行形でそういう感覚を持っています、人間という存在について疑問を持っています。そういう層のスイッチを押すような作品だと思います。それが共感です。

「周囲との感覚のズレを理解してもらいたい」「不思議や疑問を共有したい」と思って問いかけをしているならば、つまり成功なのか。「わかるわかる」「そうだねそうだね」は理解であるし共有であるでしょう。

しかしフィンディルとしては、これは成功ではないと考えています。

問いかけとしては力不足であると考えています。


何故ならば「わかるわかる」「そうだねそうだね」は問いかけのアクションをしなくても、既に読者個々が抱えていることを示すからです。

受け手が経験したことのある感覚を呼び起こす共感には、新たな知見・新たな感覚・新たな気づきはないんですよね。フィンディルは本感想の冒頭で「とても懐かしい気持ちになりました」と述べました。懐かしい気持ちに新しい何かはないんですよね。

人間という存在に疑問を持っている、「人間って何なの?」と以前から考えている読者にとって、本作には新しい何かはないだろうと予想します。少なくともフィンディルにはありませんでした。

本作にある感覚は知っている感覚ばかり、あるいは簡単な加減乗除をすれば導ける感覚でした。

それは共感や理解を示すという意味で非常に価値のあることではあります。私はここにいるよと、共感を持ちうる人に示すビーコンのような意義はあるでしょう。真由美が求めていることはおよそ達成できるかもしれません。

しかし数%の読者の客観的視点を提示するならば、それ以上の価値を本作に見いだせない。「人間って何なの?」と常日頃から考えている読者が、本作を読むことで深淵へさらに一歩を踏みだせるのかというと、それはできないと思います。フィンディルはできませんでした。

本作にできるのは、常日頃から「人間って何なの?」を考えている人に「人間って何なの?」を考えさせるスイッチを押すことだけです。過去に押した・いつも押しているスイッチを、改めて押すだけなんですよね。それを共感と呼ぶ。


それは「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけとしてどうなのか。

共感で処理されて新たな一歩を提供しない問いかけはどうなのか。


繰りかえしますが、共感を呼ぶことに意義はあります。数%の読者にとって本作は滅多に得られない共感を示せる作品ですから、意義はあります。

作者当人としても、自分の存在を書き残す意義があります。山口さんが感じられた納得感が何よりの証拠です。

しかしあえて客観的視点を述べさせてもらうなら、「わかるわかる」「そうだねそうだね」の共感で処理できてしまう作品内容では、数%の読者が常日頃考えている「人間って何なの?」に新たな一歩を提供することはできない。

共感だけで処理できない作品内容を、フィンディルは求めたいと思います。そちらの作品がほうがさらに意義があると考えます。

意義はある、しかしさらに意義を求められる。



ではどうすれば「わかるわかる」「そうだねそうだね」の共感で処理できてしまわない作品内容を示せるのか。

どうすれば数%の読者の既知スイッチを押すだけでなく、「人間って何なの?」のさらなる一歩を提供できるのか。

これはすごく単純明快なことで、「自分を知る」「自分の存在を書き残す」という試みをさらに追求することに尽きると思います。山口さんが本作執筆にあたって大事にした感覚を、さらに追求する。これに尽きると思います。もっと、もっと、もっと、もっと。これに尽きると思います。

つまり数%の読者に更なる意義深さを提供する試みと、山口さん自身の意義深さを追求する試みは同じだと考えます。


角度をイメージしていただければと思います。

ある地点を中心にして、世界中の全ての人がそれぞれの方向に向いています。

その方向を決めているのは、その人の生き方・見え方・感じ方です。たとえば生き方・見え方・感じ方が全く異なる人では、角度が鈍角に異なっているので、向いている方向が全く違います。こういう人は本作を読んでもピンとこないと思います。

そのなかにあって本作に共感を示せる人は、山口さんと角度が非常に近いのだと思います。これが数%の読者。

ただ生き方・見え方・感じ方の何もかもが同じ人なんていうのは存在しません。どんなに近くても、小数点以下の角度の違いはあると思います。


ここで向いている方向に線を伸ばしていくとどうなるでしょうか。

小数点以下の角度の違いだと、中心地点からあまり離れていない地点では座標の違いはほとんど生まれません。線が重なっているくらいかもしれません。この重なっているところを表現すると、共感になります。その座標は共感する人の座標に非常に近いので、「この座標知ってる!」となるんですね。

しかしさらに線を伸ばしていくと小数点以下の角度の違いでも、中心地点から離れていくごとに両線の間隔は広がっていきます。伸ばせば伸ばすほど自分に近い線はなくなります。この座標を表現すると、「この座標知ってる!」とは誰も言いません。それこそが他でもない真由美(山口さん)の深い深い言語化なのだと思います。

自分が向いている方向に線を伸ばすとは、「自分を知る」「自分の存在を書き残す」という試みを追求することを指すと思います。「人間とは何か。人間とは誰なのか。」を自分に問い続けることで、自分が向いている方向に線が伸びていくのだと思います。


読者に共感ばかりを与えるということは、線の伸ばし方が足りないのだろうとフィンディルは考えます。中心地点から近すぎて数%の読者と線が重なってしまっていると思うのです。しかし同じ人は二人存在しませんので、「自分を知る」「自分の存在を書き残す」を追求して線を伸ばし続けていけば、どこかのタイミングで共感では処理できない表現になると思います。誰とも線が重ならない座標に行き着くと思います。

その座標で表現されたものは、共感だけでは処理しきれません。しかしその線の大元は自分(読者)と小数点以下の差異の角度から伸ばされた線だと何となくわかるでしょう。

そこで読者が味わうのが、新たな知見・新たな感覚・新たな気づきだと思います。そしてそれに刺激を得ることで読者は自身の「人間って何なの?」の問いに、新たな一歩を得ることができる。

共感だけで処理しきれない真由美(山口さん)の座標の表現を受けて、読者が自身の線を伸ばしていく契機になるかもしれない。

自分の知らない座標、しかし自分の近しい角度から示された表現が、読者が自分を知っていくためのヒントになるんですね。


ですので「自分を知る」「自分の存在を書き残す」を追求して、「人間とは何か。人間とは誰なのか。」を問い続けて、山口さんの線を伸ばしていくことをオススメします。

単純明快です。向いている方向の線をもっと伸ばしていきましょう、それだけです。もっともっと言語化していきましょう、もっともっと納得していきましょう。それだけで本作は共感だけで処理しきれない、今以上の品質と価値と意義をもった作品になれると思います。これはもう改稿とかではなく、創作全体のひとつの目標ですね。


これって新しく作るとか創作するとかではなくて、既に真由美の中に、山口さんの中にあるものなんですよね。それをまだ言語化できていないだけで。自分を知っていくことで発見していくものだと思います。

おそらく山口さんは本作を執筆するときに、そういう線が見えたと思います。すーっと先まで(あるいは心の奥まで)伸びていく線が見えたんじゃないかと思います。その線を現在の力で精一杯腕を伸ばして掴んで、言語化した。そして線が見えたことに、線を掴めたことに納得感を覚えたのだと思います。

ですので、その線の先を追い求めるように線の上をぽとぽと歩いていくと、いつの間にかすごい地点まで辿りついているんじゃないかと期待します。本作はまだ歩みが足りなくて、数%の読者と線が重なっていて、「山口さんの線」として明瞭に区別できる座標でないと思います。だから共感だけで処理できてしまう。

歩んでいって、他の人と重ならない「山口さんの線」として明瞭に区別できる座標に辿りつくと、「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけが数%の読者には全く違った響きをもたらすんじゃないかと思います。人間とは何かを知っていく、そういう作業をみんなと行えていけるんじゃないかと思います。

それが純文学と呼ばれるものの基本作業なんじゃないかなと夢想します。



と簡単に言ってますけど、それが一番難しいんですけどね。できたら苦労しない。

真由美を、ご自身を言語化できただけで十分すごいと思います。数%の読者に「人間って何なの?」の既知スイッチを押させるだけでもすごいと思います。相当に丁寧に内省をされたのだろうなと思います。一種のゾーンに入らないと書けませんからね。素晴らしいと思います。


ただ山口さんは納得こそされましたけど、満足はされていないと思います。むしろ「自分って何なんだろ」「人間って何なんだろ」という欲求がより一層湧いただろうと想像しています。

ですのでフィンディルとしては、線を伸ばしてほしいと思います。山口さん自身にとって価値があると思います。線を伸ばし続けることで、生きてきた・生きていることを許せるようになれば、創作というものはこれ以上ないほど意義深い存在です。

そのときには客観的視点でもすごい作品が生まれると思います。「わかるわかる」で終わらない、真由美の言語化、山口さんの言語化が顕現すると思います。それを読んで数%の読者は、自身の線をさらに伸ばすことができる。「人間とは何か。人間とは誰なのか。」の問いかけに新たな一歩を得ることができる。それは読者にとっても価値のあることです。何て価値のある営みなのでしょうか。




というお話でした。

一言でまとめるなら「もっといけますよ、もっと言語化できますよ」です。フィンディルの話が的外れでないのならば、参考にされてみてください。

共感できる作品なのは素晴らしいことなのですが、共感で終わらない作品になればもっともっと素晴らしいと思います。



●「わたしは」による真由美の表現


やや細かいところですが、初読時に気になる箇所がありました。

―――――――――――――――――――

先生は教科書に目を落としていて、わたしは額から流れ出た汗をぐいっと拭う。


わたしは先生の背中に、今もまだあの赤い線はあるのだろうか、と考える。


「高橋さん、ありがとう」


はい、たかちゃんは返事をして、席に着く。


視線が先生に集まり、わたしはそのことがすこし、つまらないと思う。

―――――――――――――――――――

「羅生門」での一幕ですが、一人称視点にしては「わたしは」が多いなと感じていました。

初読時のフィンディルにはまどろっこしさが感じられたのです。


本作が三人称視点かつキャラの心情を描ける文体ならば、「考える」「思う」は文脈なり明示なりで主語を示す必要があります。誰が考えたり思ったりしたのかわかりませんから。

しかし本作は真由美の一人称視点です。途中で視点者が動いたりすることもありません。そのため本作は「考える」「思う」の動詞を使う時点で、主語はほぼ100%真由美なんですよね。

上記引用の一幕では「わたしは」が三回出てきますが、「拭う」以外の「わたしは」は全て省略しても文意理解には影響を与えないのです。


上記一幕が顕著でしたが、ここ以外でも「時計の音」「診察室」では必要以上に「わたしは」が出てくることがわかります。

こういった文章の使い方に、初読時のフィンディルは首を傾げていました。そんなに「わたしは」はいらないんじゃないか、文のスマートさが落ちるだけなのではないかと。



しかし「診察室」「高台」を読み進めるなかで、本作がどういう作品なのかを知ると「わたしは」への評価が変わります。

前項目のとおり、本作は真由美の言語化を趣旨とする作品でした。そして真由美は世界にチューニングできておらず刺激に敏感すぎるため、自身の電源出力を落としている人物というのがフィンディルの解釈です。

―――――――――――――――――――

「最近、遠いですね。より、遠い。遠くで自分を、コントローラーで操作しているような感触が強くなってきています」

―――――――――――――――――――

「遠い」や「コントローラーで操作しているような感触」としているのは、自身の電源出力を落としているからだと考えます。自我の感度を落として、世界を遠目で見るような感じでしょうか。そのため、世界に生きる自分と世界を見る自分の距離が離れるような感触を覚えるのだろうと思います。自我の感度は落とせても、肉体と五感はそこに置かれたままですから。生きる自分と見る自分が遠くなる。

「もう一人の自分が後ろで見ている」を強化したようなものでしょうか。


つまり「わたしは」の多用は、真由美の「遠い」感覚の表現だと考えることができるのです。

話したり考えたりして世界に生きている自分の後ろに、世界を見ている自分がいる。それを表現する「わたしは」なのではないかと思います。

「わたし」は真由美にとって観察できる程度の別人で、別人だからたかちゃんやえりちゃんと同じように「わたしは」をつける必要がある。真由美にとって「わたし」は、一人称視点における「考える」「思う」が観測できる別人なのだという解釈が可能です。

そういう意味では本作は、「わたし」の二人称視点文ということができるかもしれませんね。


このように考えると「わたしは」の多用は非常に理に適った表現だと考えることができます。とても良いと思います。

そしておそらくですが山口さんは意図的に「わたしは」の多用を採用しているわけではないのだろう、とも考えています。

―――――――――――――――――――

診察室と違って、待合室にはいろんな色があり、わたしはなんだかとても疲れてくる。


目を瞑って、名前が呼ばれるのを待つ。


まぶたの裏には、診察室のしろが、こびりついていた。

―――――――――――――――――――

「目を瞑って」には「わたしは」が抜けていますから。意識して「わたしは」を多用しているのならば、ここで「わたしは」が抜けることはおよそないと思います。もしかしたら何かしらの意図があって省略しているのかもしれませんが。

フィンディルとしては、山口さんは真由美の言語化を行うなかで自然と「わたしは」が多用されたのだろうと推測しています。「わたしは」を入れるほうがしっくりくるな、と。

であるならば優れた感覚だと思います。精度高く、真由美(引いては山口さんご自身)を言語化できていると思います。



しかし話はここで終わりではありませんで、世界に生きる自分と世界を見る自分の距離が離れているために真由美が自身の行動に「わたしは」を都度つけていると考えると、違和感のある文があります。

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たかちゃんとフライドチキンをかじっていると、不意にえりちゃんがこう言った。


「今日高台行こうよ」


「えー、こんな暑いのに?」

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「たかちゃんとフライドチキンをかじっていると」。フィンディルは初読時、何ともいえない違和感を覚えていました。何でもない文ですが、何ともいえない違和感を。

そして本作は「わたしは」を多用していることに思い至ると、その理由がわかったのです。この文には「わたしは(が)」がない。

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水筒でお茶を飲むと、溶け切っていない氷が中でカランと音を立てた。

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その直後のこの文もそうですね。お茶を飲むのは「わたし」なのに「わたしは」がない。

普通の作品ならばこれらの文に「わたしは」は必要ありません。ないのが普通です。

しかしこと本作にあっては、ここで「わたしは」がないことに異様な違和感が発生しているように思います。「何だこの文は変な文だな」と感じたのを覚えています。

「わたしは」を都度入れることで、世界に生きる自分と世界を見る自分の距離が表現されている。両者が遠いから、まるで別人のように「わたしは」を都度つけた。

ならば「わたしは」がないこれらの文章からは、(周囲の人と同様に)世界に生きる自分と世界を見る自分の距離の近さを感じさせるのです。この文章における真由美は「近い」のです。コントローラーで操作している真由美ではなく、本体を直接動かしている真由美なのです。

その「普通さ」にフィンディルは違和感を覚えたのです。真由美らしくないな、と。


ですがこれも指摘ではないのですね。

何故ならば「近い」真由美にも解釈を入れることができるからです。

世界に生きる自分と世界を見る自分の距離が離れている真由美の性質ですが、これは四六時中ということでもないんですよね。精神の話ですから、そのときの調子や状態によって程度は大きく変わります。「遠くなる」原因は鋭すぎる感性から身を守るためというのがフィンディルの解釈ですから、感性が鋭敏でない気分のときには「遠くする」必要はありません。世界に生きる自分と世界を見る自分の距離が常人程度に近くなることも珍しくはないでしょう。たかちゃんやえりちゃんとダラダラ過ごすなど、「遠い」感覚なしに周囲相応の近さで生きられる時間もあると思います。そもそも世界に生きる自分と世界を見る自分の距離を離すのって、それ自体がとても疲れることですからね。

「近い」ときの真由美ならば「わたしは」を省くというのは、十分理解できることです。

たかちゃんとフライドチキンをかじっているときの真由美は、感性が鋭敏でない状態だったのだろうと想像できます。

感性が鋭すぎて世界にチューニングできていないのが真由美の性質であっても、一貫させる必要はないんですよね。その性質はキャラ付けなどではなく、真由美の言語化なのですから。

ですのでここからも、高い精度で真由美の性質を言語化しているんだなあ、と感じました。真由美の性質の不安定さが表現されていると思います。素晴らしいと思います。



ただ求められるならば真由美の性質の不安定さや、距離感のジレンマの表現をもっと深めてもいいのかなという気持ちはあります。これは指摘未満です。

真由美はどうしてたかちゃんやえりちゃんと友達関係を維持しているのか。「遠い」のに。これは想像ですが、真由美は生まれつき世界にチューニングできていないわけではないと思います。その素質はありましたが、自覚するほど強くなったのはここ数年だろうと思います。それまで真由美が社会で生きて得たコミュニケーションなどがあったでしょう。真由美はそのコミュニケーションを、「遠い」からといってすっぱり破棄することができないでいるのだろうと思います。

レイヤーの違いから孤独を覚えていたとしても、たかちゃんやえりちゃんを捨ててしまうと本当に孤独になってしまいますからね。野田先生との関係を続けるのと同様に、孤独や「遠さ」を抱えつつも友達との関係を維持して薄く薄く満たされる選択をしているのだろうと想像します。

しかし家々を見たり野田先生のことを考えたことで、急に黙り込んで勝手にその場から離れてしまったりなど、円滑な友達関係を維持することができないときもあります。これは世界に生きる自分と世界を見る自分の距離感を自分の意思でコントロールできないからですね。

世界に生きる自分としては友達関係は重要だが、世界を見る自分としては「遠い」友達関係に笑顔を向けていられない。このジレンマのなかで友人関係を維持していかなくてはならない。これがすごく大変なんですよね。

この距離感のジレンマは、「わたしは」の多用と割愛から見える性質の不安定さと関連している表現ですので、もし山口さんがこちらの言語化にも意欲的ならばもっと深める余地はあるのかなと思います。本作での表現はあっさりしているように見えますので。

意欲があるならば気にされてみてください。ただ表現の存在自体はあるので、深めないなら深めないでもいいですけどね。関係性の話になってしまうのは、意向とは別かもしれませんし。




感想は以上です。

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