18【フィン感サンプル】空に走る/蜜柑桜 への感想

 以前応募をいただいて執筆・掲載した「フィンディルの感想」をサンプルとして載せます。感想内容は全く同一です。

 (小説作者さんの許可をいただいています)


 応募に興味を抱いた方は「フィンディルの感想」で検索してみてください。

 pixivFANBOXにて随時応募を受けつけています。

 以下から感想です。












【あらすじ】(前書きから全て引用)

女流フォトグラファーの二人。

いつも一緒に旅に出て、各地のかけがえのない一瞬をフィルムに収めてきた。


だが、その足はあるきっかけで止まってしまった。




これは彼女がもう一度、シャッターを切りに走るまでのお話。






※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。






空に走る/蜜柑桜

https://kakuyomu.jp/works/1177354054919015892

https://maho.jp/works/15591670281201750508












★総評

総合点:85/100 方角:真北

再出発への変化を描いた王道エンタメ作品。

「Go out」における風景写真の情景描写は、ただ美しいだけでなく、詞の想い・作品の伝えたいこと・作者の伝えたいこと・葵の心情の全てを強く下支えするものであると思います。意図のしっかり入った描写だと思います。

しかしそれだけに意図のしっかり入っていないところが悪目立ちしているようにも思います。さらに肌理細かく情景描写に段階をつけられれば、「Go out」はより映えるだろうと期待します。

「To the World」の読ませ方にも作者の意図を感じます。再出発という作品コンセプトに合っていると思います。ただ出会いから綴るモノローグ回想で受動的解釈姿勢を宣言しておきながら最後で能動的解釈姿勢を要求するなど、読書体験の管理に不安定さが見受けられます。「To the World」に繋げるために、序盤中盤からどのように読ませればいいか、更なる洗練が望めると思います。



(本感想はカクヨム版のみを読み、感想を書いています)


●表現を見せ場を支える、十四地点の情景描写


本作はゆあんさんの筆致企画参加作品ですが、課題プロットを正面からなぞるような丁寧なエンタメストーリーだと思います。

大事な人を失ったために走ることができなくなった主人公が、その大事な人からの言葉を受けて再び走りだす。喪失からの再出発という、王道の「変化」を描いた作品だと思います。


本作の見せ場は「Go out」だとフィンディルは考えています。

再出発への変化を描く作品なら、再出発をする契機となる場面が一番の見せ場と考えるのは自然でしょう。

どのようにして葵は再出発を志したのか。

二人の思い出が詰まった詞のアルバムと、詞からのバースデーカード及び『あとは任せた!!』のメッセージを見たからです。

思い出に触れることで閉ざしていた気持ちが溢れたところで、詞から一年越しの気持ちが届けられて再出発に突き動かされる。真っ当な展開だと思います。


この「Go out」で印象的なのが、アルバムの写真で伝えられる日本や世界の絶景達の情景描写です。ざっと数えたところ、十四枚の風景写真により、絶景の数々が紹介されていました。ルツェルン湖や固有名詞なしも合わせればもう少し多いですね。

他の方の感想でも風景写真についての言及が非常に多いです。

蜜柑さんは情景描写に定評のある小説書きだと認識していますが、本作において情景描写を魅せるのは世界中の風景写真だろうと思います。写真以外でも情景描写は書かれていますが、美しさという点においてはアルバムの風景写真が負っている役割は大きいだろうと考えます。そのあとの雨が上がって光が差す場面もありますが、あちらは作品の一番大事なところなので情景描写云々とは少し役割が違ってくるだろうと思います。

本作への感想で風景写真への言及が多いのはこれが主要な理由だろうと思います。この風景写真に「さすが蜜柑さん」と思うから言及が増えるのだろうと。

蜜柑さんの蜜柑さんらしさをしっかり示すという役割。作家読みをする読者を考えれば、「蜜柑さんらしさ」の確保は、非常に大事なことと考えられます。



ですがこの風景写真の情景描写には、ただの情景描写で終わらせない意図と工夫が乗っています。

蜜柑さんが志しておられる「描写のための描写にしない」、作品の焦点と葵の表現を満たすための意図と工夫をフィンディルは感じました。

それがひとつひとつの風景写真に割く文字数を少なく、かつ情景描写の構成は簡潔にするという工夫です。

さきほど風景写真は十四枚と述べましたが、ひとつの場面に十四地点もの情景描写が描かれていることを指します。写真とはいえ十四種類もの情景描写がずだだだと並べられるわけですから、かなり目まぐるしく、特徴的な情景描写群になっています。

一地点で五十文字も使われていません。その場所の固有名詞と、その場所が絶景とされる魅力の説明。この最低限の二情報だけで、写真の情景描写は構成されています。

なのでそのスピード感に首をかしげてしまう読者もいると思います。もう少し色をつけた情景描写をしてもいいんじゃないかと。

ただフィンディルとしてはベストだと思っています。短い文字数で、固有名詞と筆頭魅力だけを綴って完結させる情景描写が、本作には相応しいと思います。

この工夫には二つの意図があると考えます。


まず数を稼ぐことが大事。十四地点という数の多さが大事。

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「ねえ葵、世の中にはさ、いろんな事情で、外に出たくても出られない人たちがたくさんいるじゃない?」

―――――――――――――――――――

「だから私達はさ、生きてる限り、世界中の綺麗なものとか素敵なものとかを、世界中の人に届けるの」

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葵は、かつて聞いた詞の想いを思いだします。外に出たくても出られない人がいる、世界の美しい景色を見たくても見られない人がいる。だから風景写真家である自分達が、そんな人達の代わりに世界中の美しい景色を手中に収めて、届けるんだ。それは自分(詞)がいつ「届けられる側」に回ってもおかしくないと考えているからこその想いでもありました。

またこの詞の発言はおそらくコロナ禍の前のものでしょうが、一年経った今ではさらに重みを増した発言になっているだろうと思います。

メタ的な話をすると、作者である蜜柑さんも同様の想いを携えて本作を執筆したようです。

「世界中」が本作にとって非常に重要なキーワードだと考えられます。


ならば風景写真は数をこなすことが何より大事です。

どこか数箇所の地点を深掘りしても「世界中を旅した」という表現にはなるのですが、一地点の扱いを小さくして地点を増やすほうが「世界中」のニュアンスは強くなります。「詞と世界中を旅したときの、ある思い出だ」とするよりも「詞とは色々なところを旅した」とするほうが、当たり前ですが「世界中を旅した」の表現は強くなるんですよね。

葵は風景写真家ではありますが、葵の現在地は風景写真から遠ざかっています。その設定で風景写真を描写するには、アルバムを見せるのがもっとも妥当です。となれば短い場面に多くの風景写真が集結することになる。一地点に割く文字数を少なくして、目まぐるしく世界を見せるのが自然なかたちだろうと思います。


十四地点という数により、本作にはしっかり「世界中」が表現されていると思います。

我々が葵と詞の撮影旅行を思いかえしてみると、特定の一地点のイメージはできないと思うのです。代わりに「世界中」のイメージが湧く。

本作の世界の風景でもっとも登場回数が多いのはルツェルン湖ですが、では本作に抱くイメージで「ルツェルン湖」と「世界中」のどちらが強いかというと、圧倒的に後者だと思います。我々はルツェルン湖に特別な意味を感じていないはずです。それはルツェルン湖が弱いからではなく、「世界中」がしっかり強いから。

また「To the World」で葵はロンドンに向かっていますが、ロンドンに「詞が行きたがっていた街」以上の意味が乗っていないと思うのです。「To the World」を読んだ我々は「あーロンドンに行ったんだね」よりも「また世界中を旅するようになったんだね」という印象を持っただろうと思います。

詞が行きたがっていた街だから葵はロンドンに選んだと思いますが、では葵はロンドンに行きたかったのかというとそうではない。葵は世界に行きたかった。風景写真家として再出発して世界中を旅したかった。「葵はロンドンに行った」のではなく「葵は再び世界中を旅するようになった」。これがしっかり伝わっていると思います。


十四地点という数により「世界中」が表現されることで、詞の想いや葵の再出発や蜜柑さんの想いがしっかり下支えされていると思います。良いと思います。



次に、葵の気持ちが溢れているという表現。

葵は詞からの『あとは任せた!!』のメッセージで再出発に突き動かされますが、『あとは任せた!!』のメッセージだけでは突き動かされなかっただろうと想像します。

たとえばアルバムをちゃんと見る前にバースデーカードが落ちて『あとは任せた!!』のメッセージを見たとしたら、ちょっと事情が変わってくると思います。

メッセージに突き動かされるよりも、メッセージへの衝撃が勝ってしまうといいましょうか。心を突き動かされるというより、心が揺さぶられるんじゃないか、という想像をします。そこから葵はアルバムを見ることができるのか、思い出に浸ることができるのかというと、ちょっと怪しいような気がします。描き方次第ではありますけどね。

少なくとも本作で『あとは任せた!!』のメッセージで再出発に突き動かされたのは、その前に葵がアルバムの写真を見て気持ちが溢れていたからだと考えます。閉ざしていた風景写真への気持ちが、アルバムの写真と思い出によって氷解していたから。『あとは任せた!!』は決め手ではあったのですが、『あとは任せた!!』だけで葵は再出発できなかったはずです。


ここで重要になるのが、どのように葵の気持ちが溢れている様を表現するか。

葵の目を潤ませたり涙を流させたりもしていますが、気持ちが溢れるまえに思い出が溢れる表現があるとより丁寧になります。思い出が溢れていって気持ちも溢れて涙も溢れる。

その思い出が溢れる様を表現しているのが、本作の十四地点の風景写真の情景描写です。

葵はアルバムの写真達を見て、思い出を溢れさせます。詞との撮影旅行の写真を時系列順に見て、思い出群が急速に過る。ならば葵は、一枚の写真にじっくり時間をかけるのではなく、写真を次々に見るはずです。思い出はたくさんあるのですから。アルバムのページを捲る手が止まらないはずです。溢れた思い出に別の思い出が積み重なって、気持ちも積み重なり、決壊するのです。王道の表現ではありますが、ぐっとくる表現です。

これを表現するのならば、一地点にかける文字数は少なくなければならないと考えます。その地点の情景描写に割いた文字数が、葵がその写真を見ている時間です。葵に詞との思い出がたくさんあるのならば、ひとつの思い出にかける時間は少なく、思い出に思い出を積み重ねるように葵は思い出の束を手繰っていくはずです。

一地点にかける文字数の少なさがアルバムのページを捲る手が止まらない表現になり、アルバムのページを捲る手が止まらない表現が思い出に思い出が積み重なり気持ちと涙が溢れる葵の表現になっているのです。それが『あとは任せた!!』に繋がる。


またその葵の気持ちを表現するならば、一地点ごとの情景描写の構成は非常に簡潔であることが望ましいと考えます。

葵は写真を見返しているのではなく、思い出に浸っているのです。ならばその写真に凝らされた技巧や写真の特徴を綴るのではなく、「~が美しい~の景色だ」と自分(葵)のために情景描写を行うのが自然であると思います。葵が行っているのは写真の紹介ではなく、思い出への回顧なのですから。葵は写真を見ているのではなく、写真の向こうの世界とそこで写真を撮る自分と詞を見ているのです。ならば自分(葵)がわかればいい固有名詞を使って、葵自身が思い出に直行できる言い回しを採用するのが相応しいと考えます。

ここの情景描写については読者はついてこなくていいのです。映像表現でキャラクターに走馬灯などが過るとき、その過る情景ひとつひとつはスピードが速すぎて視聴者は視認できません。できませんが視認できる必要はなく、「色々な記憶が過っているんだな」と伝わればそれでいいのです。それと同じようなことだと思います。ひとつひとつの情景描写は追えなくても、「葵が思い出の束を手繰っている」「葵と詞は世界中を旅したんだ」と強く伝わることが何より大事だと思います。



そういった工夫によって、「Go out」の風景写真の情景描写は美しいだけではない描写になっていると思います。詞の想い、作品が伝えたいこと、蜜柑さんが伝えたいこと、葵の表現、それらを下支えする重要なパーツになっていると思います。

「描写のための描写にしない」、「Go out」の風景写真の情景描写はまさしくそうであると思います。

風景写真の情景描写で葵の行動と心情を表現し、伝えたいメッセージも確保している。「To the World」での解釈も自然に誘導している。

素晴らしい。「美しい」と言われるだけの情景描写ではありません。



●「描写のための描写にしない」の追求


と本作の情景描写について褒めさせていただきましたが、一方、まだまだ洗練できると感じた箇所もあります。

情景描写について「今のままでも良いんだけど、もっと良くできる」とフィンディルが感じた点を二つ、紹介したいと思います。

いずれも「描写のための描写にしない」に関連した事柄です。


まずは前項目で言及した、十四地点の風景写真の情景描写について。

前項目では、その文字数の短さと構成の簡潔さが、葵のアルバムを捲る手が止まらない表現、写真の紹介ではなく思い出の回顧になっている表現、引いては葵の気持ちが溢れている表現になっているとお伝えしました。再出発という変化を描くうえで大事な役割を果たしていると。


そんな十四地点の風景写真の情景描写ですが、三回に分けて綴られています。

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 初めて二人で行った真夏の京都。繁る濃緑の葉が柔らかに光を透かす貴船神社の参道。宵闇の中にライトアップされた黄緑の木々が幻想的に池に浮かぶ高台寺の庭園。その隣は青い日本海に鮮やかな緑が接する初夏の白米千枚田と、橙の街灯に雨露で光る、倉敷美観地区の石畳。めくった次のページは遅咲きの桜が黒塀の前に咲き誇る角館の武家屋敷通りと、エメラルドグリーンの海そのものに向かっているかのような、どこまでも真っ直ぐ走る角島大橋。

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 記憶が徐々に蘇り、アルバムのコンセプトが掴めてくる。色鮮やかに並ぶ写真の一つ一つは、どれも二人で感嘆しながらシャッターを切った一瞬だ。城壁の上の道が黄金の葉で染まるイタリアのルッカ。起伏のある丘の上に、青空を仰いで立つブリュージュの水車。マイン川沿いに広がるワインの葡萄棚と、その上に雄々しく立つマリエンベルク要塞。

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 真夏なのに足元一面、深く雪の積もったインスブルックのチロルの山。チェコを縦断する車窓から見て歓声を上げた金色の菜の花畑。次第に濃くなる青のグラデーションを作りながら、左右どこまでも海が広がる初冬のニューブライトン。ケム川のボートパンケティングを見下ろして並ぶのは煉瓦造りの歴史あるカレッジだ。同じ旅行で足を伸ばした巡礼の大聖堂と中世の街並みや、小路クローズと坂が入り組む石畳は、詞が大好きなイングランドにスコットランド。

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簡潔に美しく綴られる情景描写からは、葵が思い出を駆け抜けている様、アルバムのページを捲っている様が浮かびます。

しかしこれら情景描写を読み進めていて、フィンディルが気になったことがあります。

十四地点の情景描写の文字数や構成の、変化が乏しいんですよね。どれも同じように描写されているのです。ここが気になりました。

「変化がほしい」「飽きてしまう」という意味ではありません。

伝えたいのは、この三回に分けて綴られている情景描写ですが、これらを回顧している葵の心情は全部違うはずなんです。この場面の葵の心情は刻一刻と変化しているはずなのです。その違いが情景描写そのものに表現されていない、ということを伝えたいのです。


この三回に分けた情景描写を、「日本」「世界1」「世界2」と呼称します。

「日本」では、葵はまだアルバムのコンセプトが掴めていません。詞と行った撮影旅行で撮った日本の風景写真だ、しか理解していません。ここからページを進んで飛行機の中の様子の写真などを見て、「自分(葵)と詞が撮った写真を時系列に並べたものだ」とアルバムのコンセプトを掴みます。

「世界1」はアルバムのコンセプトを掴んだうえで、詞と行った撮影旅行で撮った写真を見ます。そしてこれら写真を見ていくうちに葵の脳裏には、詞の言葉など思い出が温度を伴って蘇ってきます。「世界1」を見終えたあたりで、葵は閉ざしていた自身の気持ちが溢れてくるのを感じています。

そして「世界2」まで見ると、思い出に思い出が積み重なって、心の内で葵は詞に語りかけるようになります。目に涙が溜まります。嗚咽を漏らします。

そしてバースデーカードで決壊し、『あとは任せた!!』と雨上がりの空に葵は突き動かされる。


「日本」「世界1」「世界2」の葵の心情は全て違うのです。

コンセプトを推測するように見る風景写真、コンセプトを掴めたうえで見る風景写真、閉ざしていた気持ちが溢れるなかで見る風景写真。全部違うのです。

ならばアルバムを捲るスピードは変わるでしょう。推測しながら見るのと、得心して見るのと、気持ちを溢れさせて見るのとでは、捲るスピードは変わってくるはずです。

その写真の何を見るのかも変わるでしょう。写真や場所を見るのか、思い出を見るのか、思い出のなかの自分(葵)と詞を見るのか。変わってくるはずです。

ただ本作の十四地点の風景写真の情景描写からは、この違いをあまり感じられなかったのです。ほとんど同じように描写しているように、ほとんど同じように写真を見ているように、フィンディルには感じられました。

ここ、洗練できると思います。


風景写真の情景描写以外では、若干の違いはつけています。

「日本」では「その隣は」「めくった次のページは」があるので、視線の動きやページを捲る動作を葵が認識できる余裕は出ています。

「世界1」では「記憶が徐々に蘇り、アルバムのコンセプトが掴めてくる。色鮮やかに並ぶ写真の一つ一つは、どれも二人で感嘆しながらシャッターを切った一瞬だ。」とあり、こちらもやはり余裕は出ています。

「世界2」では風景写真の情景描写以外の言葉がありません。

そういう違いはつけられてこそいるのですが、やはり弱いと思います。風景写真の情景描写そのものに違いがつくと、本場面は全く違う見映えになると思います。


あるいは「世界2」では

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チェコを縦断する車窓から見て歓声を上げた金色の菜の花畑。

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情景描写内でも「歓声を上げた」など、葵と詞の行動が入っています。もしかしたら蜜柑さんは「日本」「世界1」「世界2」で違いをつけようとする意図はあったのかもしれません。

しかし違いが非常に弱くて、あまり伝わってこないように感じました。情景描写の性質上、初読時では「そこはどこか」「どんな景色か」の情報収集や情景想像に読者は集中しますので、細かな違いが伝わりにくいものだろうと思います。フィンディルも感想執筆のなかで何度も見比べてやっと「おや?」となったぐらいですから。

あるいは蜜柑さんとしては意図的に違いをつけたわけではなく、場面の流れ(葵の心情)に沿ったら「歓声を上げた」が入っただけなのかもしれません。



本作の十四地点の風景写真の情景描写は「思い出がなだれこんで“いる”」「アルバムのページを捲る手が止まらな“い”」は表現されていると思います。

しかし「思い出がなだれこんで“くる”」「アルバムのページを捲る手が止まらな“くなる”」は上手く表現されていないと思います。

アルバムの読み始めから「思い出がなだれこんでいる」「アルバムのページを捲る手が止まらない」の情景描写になっているとフィンディルは受けとっています。

「日本」「世界1」「世界2」の情景描写の文字数や構成や性質に変化をつけられれば、「思い出がなだれこんでくる」「アルバムのページを捲る手が止まらなくなる」の表現ができると思います。

「思い出がなだれこんでくる」「アルバムのページを捲る手が止まらなくなる」が表現できれば、「思い出がなだれこんでいる」「アルバムのページを捲る手が止まらない」の表現の訴求性がぐっと向上します。表現を伝える力が強くなると思います。

「あ、アルバムのページを捲る手が止まらなくなってきてるんだ」と読者に伝わりやすくなって、その情景描写のより強い魅力を感じやすくなると思います。それは葵へ感情移入しやすくなることを指すでしょう。

見せ場がより見せ場になると思います。十四地点の風景写真の情景描写の演出がより強化されると思います。


「変化前」と「変化後」を書くのは簡単なんですけど、「変化中」を書くのは難しいんですよね。

赤色と青色を書けばそれだけでビフォーアフターは成立しますから。しかし赤が青に変わっていく様を表現するのは難しい。赤に青みが差して、紫を経由して赤みが抜けて青になっていく。難易度は急に跳ね上がります。

ですが本作に関して述べるなら「変化中」が描きやすい環境であると思います。十四地点の風景写真の情景描写を工夫するだけで「変化中」が表現できうるからです。気持ちを閉ざしたまま写真を見る「日本」、思い出が見えてくる「世界1」、思い出に気持ちが溢れる「世界2」。写真を描く「日本」、思い出を描く「世界1」、詞との思い出を描く「世界2」など、アプローチに段階をつけることは可能です。

ここでしっかり葵の「変化中」を段階的に描くことができると、本作の「変化」はもっと肌理細かく鮮やかになると思います。

もし、元々そういう意図があった場合にはもっと意識的につけてみてもいいかもしれません。


三者三様のアプローチ内容はいくらでも考えられると思います。文字数を調整する方法もあるでしょうし、文字数は同じで構成や性質で調整する方法もあると思います。

「日本」「世界1」「世界2」にそれぞれの情景描写アプローチを用意して、段階をつけてみると葵の気持ちのクレッシェンドが表現されてより見映えが良くなると思います。悪目立ちしてしまっては駄目ですけどね。場面のバランスを見極めるのは前提です。

風景写真の情景描写に格差をつけたくない、というお気持ちももしかしたらあるかもしれませんけどね。しかし「日本」「世界1」「世界2」を見ている葵の心情の程度には確かな格差があると思います。


蜜柑さんが「日本」「世界1」「世界2」に全て同じアプローチをとられていたのなら参考にされてみてください。「変化中」を情景描写で表現できるので、十四地点の風景写真の情景描写がもっと広く深く評価されることが期待できます。情景描写の意図もばっちり伝わりやすくなると思いますよ。

「描写のための描写にしない」の解像度を上げる提案でした。




情景描写について「今のままでも良いんだけど、もっと良くできる」とフィンディルが感じた点、二つめ。

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 ゆっくりとした規則的な足音が止んだ。顔を上げると、真船さんは壁にかけたカレンダーを見ていた。私達が撮った写真を集めて作ったものだ。八月の写真は、三角屋根をした円い小屋を真ん中に、画面の端から端までを覆う水面にかかった木製の橋、そして湖畔に並ぶ建物の白い壁。灰色がかった湖面にはそれら皆が影を作り、そして画面上部、薄水色の空にかかる七色の橋が、水面に映って円を作る――夏のルツェルン湖の夕方だ。

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 床に落ちたのは、去年の夏のルツェルンの写真。虹が出た前の日に撮った黄昏の湖上。

 紅の中に影になって浮かぶ橋の上に、色とりどりのパステル・カラーでポップな書体のアルファベットが並んでいる。それらをつなげると、言葉になった。


『HAPPY BIRTHDAY AOI !』


 いつ、こんなもの。


「詞……ふっ……う……ふぇっ……」


 堪えていたものが情けなく声になるのも止められず、震える手でそれを拾い上げた。いつも使っている写真用紙と比べて妙に分厚い。不思議に思って裏を返せば、そこにあったのは、カレンダーに使ったのと同じ雨上がりの写真。透けるような空にかかる虹と湖面に映ったそれが、木製の橋を挟んで円を作る。


 その円の中に、表の手の込んだメッセージとは正反対の、走り書きしたような詞の字があった。




『あとは任せた!!』

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夏のルツェルン湖の写真ですが、同じ写真が本作には二回登場します。カレンダーに使用した写真と、詞が『あとは任せた!!』を書いた写真。『HAPPY BIRTHDAY AOI !』のメッセージがある写真もルツェルン湖のものですが、時間帯が違いますので別の写真ですね。本項目では黄昏のルツェルン湖の写真には言及しません。


ルツェルン湖の写真について気になるところがありました。

ルツェルン湖の写真は本作に二度登場しますが、描写対象という観点で考えると、両写真は全くの別物であるとフィンディルは思っています。カレンダーのルツェルン湖写真と、『あとは任せた!!』のルツェルン湖写真は、写真そのものは同じですが描写対象としては全くの別物であると考えます。

何が違うのか。用途やメッセージの有無ももちろんありますが、一番大きな違いは両写真を見ている葵の状態が違うのです。


何度もお話ししていますが、本作は再出発の変化を描いた作品です。「変化前」「変化後」という言葉を使うと、カレンダーのルツェルン湖写真を見たときの葵は「変化前」で、『あとは任せた!!』のルツェルン湖写真を見たときの葵は「変化後」なのです。風景写真から離れてポートレートに進もうととしていた葵、気持ちが溢れて風景写真に戻ろうとする葵。本作が「変化」を描いた作品であるならばまさしく両葵が変化そのものであり、キャラ表現において両葵はもはや別人なのです。

一人称視点作品で視点者が描写している体で、もはや別人が見ているのならば、それはもはや別物です。カレンダーのルツェルン湖写真と、『あとは任せた!!』のルツェルン湖写真は、描写対象として別物であると考えます。


むしろ両写真を別物として描写することが、葵の変化の端的な表現になるんですよね。同じ物であっても、見る人の心情によって見え方は大きく変わる。では「変化前」はどのように見えて、「変化後」はどのように見えるのか。この見え方、描写の違いが葵の再出発への変化の端的な表現になると考えます。

再出発への変化という本作のコンセプトを考えると、両ルツェルン湖写真を別物として描写するのは非常に重要であると考えます。


そのように考えて本作の描写を見たとき、両写真を別物として描写しようという意図が弱いように感じました。

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そこにあったのは、カレンダーに使ったのと同じ雨上がりの写真。透けるような空にかかる虹と湖面に映ったそれが、木製の橋を挟んで円を作る。

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むしろ「序盤でも描写したので、ここでは手短に描写しますが」という意図を感じたのです。さっきと同じ写真ですよ、さっきと同じ写真に『あとは任せた!!』というメッセージがあることが重要なんですよ、という意図を感じたのです。

「変化前」「変化後」でルツェルン湖の写真は二度出ているのに、その情景描写の有りように葵の変化が乗っていないように感じられたのです。


もちろんそれでも悪くはないのですが、両ルツェルン湖写真を別物として描写アプローチを使い分けることができれば、それが葵の心情の強力な表現、変化の端的な表現になると考えます。それは見せ場である「Go out」における、さらなる演出になるだろうと期待できます。

先述した十四地点の風景写真の情景描写と合わせると、情景描写のみで「日本」→「世界1」→「世界2」→「ルツェルン写真」→「実際の雨上がり」の五段階で葵の心情と変化を表現することができます。推測→理解→飽和→変化→出発、みたいなふうに。一場面で五段階の変化を、情景描写だけで表現できる。さらに葵の涙や嗚咽や独白による段階もつけていますから、「変化中」はもっと華やいだ表現になることが期待できます。

現在は「風景写真」→「実際の雨上がり」の二段階、飽和→出発だけです。もちろん葵の心情描写で「変化中」の表現は意図されていますけどね。ただ五段階の情景描写アプローチを取りいれられればより肌理細かく「変化中」を表現することができるだろうと期待できます。

もちろん段階が多すぎてうるさくならないよう、バランスをとることが前提ですが。


あるいはもしかしたら、両ルツェルン湖写真で変化を表現しようという意図は蜜柑さんにあったのかもしれません。

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 ゆっくりとした規則的な足音が止んだ。顔を上げると、真船さんは壁にかけたカレンダーを見ていた。私達が撮った写真を集めて作ったものだ。八月の写真は、三角屋根をした円い小屋を真ん中に、画面の端から端までを覆う水面にかかった木製の橋、そして湖畔に並ぶ建物の白い壁。灰色がかった湖面にはそれら皆が影を作り、そして画面上部、薄水色の空にかかる七色の橋が、水面に映って円を作る――夏のルツェルン湖の夕方だ。

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初読時にこのくだりを読んだときに、妙に説明的な印象を受けました。写真の内容を全部説明しようとしている感じがして。この説明的な乾いた叙述をもって、葵が風景写真を遠ざけようとしている様を表現しているのだろうか? という推測を持つことは不可能ではないと思います。説明的で乾いた叙述で遠ざけようとしているが、説明的で詳細であることから(場面的に葵はこの写真をまじまじと見ているわけでもありませんし)葵にとって風景写真はやはり重要な位置にあることも示唆しようとしているのかなと。

ただ虹のことを「七色の橋」とたとえたりしていて乾きが足りないようにも思いますし、何より『あとは任せた!!』のルツェルン湖写真が簡潔でカレンダーのルツェルン湖写真との対比ができていないので、仮に蜜柑さんに両写真で変化を表現しようという意図があったとしても不十分であるとフィンディルは判断しています。

詳細で乾いた情景描写と、直感的で潤った情景描写とで、両写真に対比をつけてみると変化の表現は端的に発揮されるだろうと思います。本作は王道のエンタメストーリーなので、多少派手に演出をつけてみても浮かないでしょうしね。


ルツェルン湖の両写真に意図や思考を置けていなかった場合は参考にされてみてください。変化を表現しようという意図があった場合には、もっと意識してみることをオススメします。

再出発の変化を端的に表現する絶好のアイテムですし、もっと明瞭に対比をつけられると思います。


また風景写真以外の情景描写ともアプローチを使い分けてみるのも良いかもしれません。

周囲の情景描写は直感的に潤った情景描写を挟めるが、風景写真だけは詳細で乾いた情景描写しか入れられない。となれば葵は風景の美しさへの感性は健在だが風景写真だけは避けようとしてしまっている、という表現になるだろうと思います。こちらも意図されているかもしれませんが、やはり変化前の風景写真への乾きが足りないので上手く表現できていないように思います。




以上、本作の情景描写について気になったところを二点、お話ししました。

「描写のための描写にしない」ということで十四地点の風景写真の情景描写に、葵の心情と場面の演出を託しているところは良いと思います。

しかしそういう方針をとったがために気になってしまうところも生まれていると思います。十四地点の風景写真の情景描写が画一的で「変化中」が弱かったり、ルツェルン湖写真の情景描写に「変化前」「変化後」が乏しかったり。

「描写のための描写にしない」を意識しているがゆえに、「描写のための描写にしない」を意識していないところが悪目立ちしている印象でしょうか。

ただそれは本作はもっと情景描写で作品的に華やがせることができるということですから、「なるほどな」「もっと突きつめることができるんだな」と感じられましたら参考にされてみてください。



●「To the World」の読ませ方は本作に相応しい


他の方も言及されていますが、本作で「Go out」以外に印象的なのがエンディング「To the World」です。

厳密にいえば「Go out」の終わりからですね。

変化を遂げた葵が再出発に走りだしたところから、印象的だと思います。


何が印象的かというと、葵の心情描写を排しているところです。

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時々頬に当たる水滴は、冷たくて柔らかい。

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など感覚描写はあるので一人称視点ではあるのですが、葵は何を考えているのか、どうしてロンドンに来たのか、写真を撮ってどうするのか、「私の手の中で、その一瞬が永遠になった。」には葵のどのような心情が表れているのか、それらがわかりやすく表現されていないので読者の解釈に委ねられている部分です。

再出発はしました、では再出発して葵は何を考えどうしていくのかについては具体的には描きませんという塩梅です。


フィンディルの感覚ではありますが、このエンディングの描き方は本作にとって相応しいと考えています。心情描写を描くエンディングでも良いのですが、描かないほうがより相応しいとフィンディルは考えます。


何故フィンディルがそう感じたのかというと、本来の葵は一流のカメラマンだからです。

蜜柑さんがどういう意図で心情描写を排したエンディングを採用したのかはわかりませんが、フィンディルとしては一流の風景写真家である葵の再出発には心情描写を排したエンディングが相応しいと感じました。

そのように感じた理由は二つ。



葵は一流の風景写真家であるとフィンディルは推測しています。

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 真船さんは世界的に活躍するピアニストだ。今は自分の演奏より後進の指導を中心にしていらっしゃるけれど、これまで国内外のオケや演奏家と沢山のCDを出している。

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「Stay」にて葵がポートレートを撮っていたのは、一流のピアニストでした。

葵が駆けだしや半人前のカメラマンならば、なかなか知りあう機会はないだろうと思います。葵の年齢はわかりませんが、真船が「葵ちゃん(詞ちゃん)」と親しげに話しているということは葵(と詞)と真船はそれなりに長い付きあいなのでしょう。詞のことも知っていますしね。

さらに葵はポートレート写真家としては方針転換したばかりです(また風景写真家に戻りますけどね)。風景写真ならいざ知らず、ポートレートならば葵よりも技術に優れた人は他にたくさんいるでしょうし、仕事柄ポートレートを撮られ慣れているはずの真船ならばそんなポートレート写真家に知りあいがいるはずです。であるのにわざわざ葵にポートレートを頼んでいる。おそらく真船は葵(と詞)を特別に気にかけているのでしょう。そして真船に気にかけさせるだけの関係性を葵は積みあげてきたのです。

以上から葵は、プロのカメラマンとして一流程度の技術・実績・人脈を積んできた人物なのだろうと推測できます。


本作は一流の風景写真家が相棒を失った悲しみから本来の技術の発揮を躊躇い、そして再出発して一流の風景写真家として再始動する話なのだろうと解釈しています。

話の流れとして本来の技術を発揮できず鬱屈した姿ばかりを描くので、一流の風景写真家らしさはあまり出せませんけどね。

その葵の一流の風景写真家らしさを出せるのがエンディングだと思うのです。葵が本来の姿を見せられるのは「To the World」だけです。


ここで丁寧に葵の心情を描写してしまうと、一流らしさが損なわれてしまう危険があるように思います。

再出発後の心情を描写するというのは、作品側が「葵はしっかり再出発できてますよ!」「葵はこういうことを志せてますよ!」と面倒を見てあげるようなものだと思います。「心配かもしれませんが葵はやれてますよ!」という親心みたいな。

しかしそうしてしまうと駆けだし感が出てしまう危険があると思うのです。「一人前のカメラマンとしてやれてますよ!」とわざわざ作品が面倒を見てあげるのは、元々半人前だった場合です。

ですが本来の葵はそういう面倒を見ないといけないような立場の人間ではないんですよね。

技術も実績を積んで、写真を撮る姿をカッコよく描写するような人間だと思うんですよね。

本作は「葵は写真家として一皮剥けた」という成長を描いているのではなく、「既に大成していた葵の再出発」という回復を描いているので、再出発を果たせたあとは作品側が必要以上に面倒を見ずに、一流の写真家として活動できている様子だけを見せるのが本作には相応しいと考えます。

再出発後の葵の面倒を見ても悪いわけではないのですが、再出発後は必要以上に面倒を見た表現を施さないのが、一流の風景写真家である葵への敬意だと考えます。

そういう一流への表現と敬意を考えるのなら、心情描写を排したエンディングは相応しいと思います。


ちなみに葵が一流の風景写真家であることで、詞との思い出の説得力が増強されます。

一流の風景写真家ということは、旅の質も量も駆けだしの風景写真家よりも優れていることが予想されますから。行った国の数も多くなるでしょうし「世界中」のメッセージがより強化されると思います。もちろん風景写真への思い入れも強くなるでしょうし、それだけにポートレート転向の意味も強くなるでしょう。

葵が技術も実績も十分の一流であることで、葵の心情や決意、思い出の説得力が全体的に強化されるように思います。それだけに「To the World」で再出発した葵をしっかりプロとして描くのは重要であるように感じます。


「元気にやれてます!」みたいなことを葵に思わせると、一流感が損なわれてしまうのではないかと想像できてしまいます。もちろんそれも描き方次第でしょうけどね。




またそれとは別に心情描写を排したエンディングが、まさに「空に走る」を表現しているようにもフィンディルには感じられました。

「Go out」から「To the World」への繋ぎは、一部シームレスなかたちになっていると受けとっています。

―――――――――――――――――――

 スタジオの三脚からカメラを掴み取る。



 熱が冷まされた空気の中、白く変わっていくビルの階段に、私の足音が高く鳴り響いていた。

―――――――――――――――――――

 ファインダーの中の世界が次第に明るくなっていく。一面の芝生が濡れて、先端が鮮やかな色を取り戻す。そしてその向こう、画面の真ん中に、完全な左右対称のロイヤル・アルバート・ホールを収める。

―――――――――――――――――――

と繋がることで、「カメラを掴む」→「ファインダーの中を覗く」、「白く変わっていく」→「明るくなっていく」、と葵の行動や周囲の様子が連続しているような演出が組まれていると思います。

区切りや「ロイヤル・アルバート・ホール」を入れることで、しっかり場面転換はしているんだよと示してはいますけどね。場面転換は示しつつ一部の様子を連続的に繋げる、そういう部分シームレスな繋ぎをしていると思います。オシャレですね。


どうしてこういう繋ぎを選択したのかというと、再出発した葵はずっと走り続けていることを表現したいのではないかとフィンディルは解釈しました。再出発の気持ちを忘れずに、『あとは任せた!!』を受けた気持ちを忘れずに、葵は走り続けているのだ。再出発してからの葵は止まることなく走っている。そういう表現が、部分シームレスな繋ぎに表れているようにフィンディルは解釈しています。

それも「空に走る」として上に向かって走っていくような。それはコロナ禍を克服して世界中を駆け抜けるようなイメージと重なります。

―――――――――――――――――――

The end, but her journey is still ongoing.

―――――――――――――――――――

という締めの言葉も、走り続ける葵を示していると思います。


ならば着地をしてしまわない、落ち着いてしまわない描き方が合っているのかなと思います。

事細かに心情を描いてしまわないことで、「葵は走り続けている」のイメージを示したいのだろうと解釈します。マラソンで走っている人にインタビューしませんからね(しますけど)。

葵はこういう気持ちでしたと締めで着地するのではなく、心情描写を置かずに走り続けている様を示すのが本作のメッセージには合っているのかなとフィンディルは思います。



本作のエンディングに割いた工夫や意図は、葵の設定や本作で示したいメッセージに相応しいものであるとフィンディルは考えます。



●「To the World」の読ませ方は本作に相応しいが、中盤の読ませ方は「To the World」に相応しくない


そんな本作のエンディングですが、ではフィンディルには本作のエンディングに関連した指摘はないのかというと、実はあります。

相応しいエンディングであるとは考えていますが、素晴らしいエンディングであるとは考えていないのです。

相応しいエンディングを相応しくて素晴らしいエンディングにするには、エンディング以外の箇所で調整できるところがあるように感じています。


本作のエンディングに是非を問う方が何名かいらっしゃいますが、どうしてエンディングの是非が問われるのか。

心情描写を排したエンディングは読みにくいからか、エンディングでは主人公がどうなった(思った)のかを示して読者の解釈を絞ったほうが良いからか、というと本質的にはそうではないとフィンディルは考えています。

蜜柑さんの反応を見ると「読みにくいエンディングの価値」「読者の解釈を絞らない価値」でエンディングの是非を判断しているように感じられるのですが、本作で問われているエンディングの是非はそこではないと考えます。

心情描写を排したエンディング、解釈が絞りにくいエンディング、読みにくいエンディング、それら自体に異を唱える人は(ある程度の目があるなら)ほとんどいないと思います。ある種では王道の締め方なのですから。


ではどうしてエンディングの是非が問われているのか。

それはエンディングまでの作品内容が、読みやすすぎるからなのです。読者の解釈をきちんと絞っているからなのです。丁寧すぎるからなのです。

その読みやすい物語が、突然(心情描写を排した)読みにくいエンディングで締められた。読者の解釈を絞っていた物語が、突然読者の解釈に委ねるように終わった。その振れ幅、変化量に「ん?」と引っかかったのではないかとフィンディルは予想します。

Bプランそのものの是非が問われているのではなく、AプランからBプランに突然変更されたことの是非が問われているのだと思います。


本作のエンディングに問われているのは是非ではなく巧拙であると考えています。意図ではなく技術。

読みにくいエンディングで終わるための作品全体の構成がきちんととれているのか。

読みにくいエンディングで終わらせようという意図だけが作品から浮いてしまっていないか。ちゃんと作品全体でエンディングに繋げられているのか。

これが問われていると思います。

そこを勘違いしてしまうと「指摘されても、私はこういう意図でやってるから」で終わり、前進しにくくなってしまいます。



では何をもって本作は、(エンディングに上手く繋げられないような)読者の解釈が絞れる丁寧で読みやすい構成と判断しているのか。

読みやすさや丁寧さは全体的なものだろうと思いますが、フィンディルが特に気になった箇所があります。

―――――――――――――――――――

 詞は一年前に、この世を去った。


 * * *


 詞は駆け出しのフォトグラファーのイベントに参加した時に会った。

―――――――――――――――――――

モノローグによる回想です。それも詞との出会いから綴った回想。これが本作のエンディングと非常に相性が悪いように思います。

「モノローグによる回想なんて当たり前じゃない? どの作品でもありますよ?」と思われるかもしれませんが、意図と工夫をもった構成を取りいれるならばその「当たり前」にきちんと思考を通すことが大事だと考えます。


本作は筆致企画参加作品なので大まかな物語を知ってから読み始めた読者もいるでしょうが、それでも「Stay」の段階では「詞には何があったんだろう」「葵と詞はどういう関係なんだろう」「葵は何を考えているんだろう」といったことを推測・想像しながら読みます。察したり考えたり、能動的な解釈姿勢で本作を読みます。その読書には、一種の緊張感があります。

ですが、これは本作を読んだ多くの読者に共感していただけると思うのですが、上記引用を読んだときに能動的な解釈姿勢が吹き飛ぶのです。「ああ最初から順を追って全部教えてくれるのね。了解です」と思った読者、めちゃくちゃ多いと思います。安心しきって、緊張感がなくなった人もいるかもしれません。

葵と詞の出会いから話してくれるのですから、全部教えてくれると考えるのが自然です。このモノローグ回想が始まった時点で、推測や想像といった能動的な解釈姿勢を捨てた読者は多いと思います。全てを作品に教えてもらう受動的な解釈姿勢に切り替えた読者は多いと思います。最後にどんでん返しなどは待っているかもしれないが、作品概要の理解についてはもう何も考えなくていい。フィンディルはそうでした。「あ、回想。了解です。教えてください!」と思いました。

蜜柑さんも他の作品を読んでいて、出会いから説明するモノローグ回想が始まったら受動的な解釈姿勢に切り替えるのではないでしょうか。


出会いから綴るモノローグ回想って、作品による「物語概要を、ボカすことなく最初から最後まで全部説明しますよ」宣言だとフィンディルは考えます。細かい描写から察しなくていいですよ全部ちゃんと教えますから宣言だと思うのです。

そして本作で語られたモノローグ回想は作品の宣言通り、葵と詞の関係性や詞の死因に至るまで、葵が知っている詞の情報を一通り網羅するものでした。


余談ですが、モノローグ(独白)回想とダイアローグ(対話)回想は同じように見えますが大きな違いがあります。

モノローグ回想は本作のように作品に都合の良い任意のタイミングで、読者に語りかけるように行われる回想。ダイアローグ回想は物語のなかで登場人物が別の登場人物に向けて語る回想ですね。両回想に違いはなさそうですが、実は大きな違いがあります。

ダイアローグ回想は飽くまでの作中世界で行われていることなので、よほど舞台セッティングが不自然でないかぎり「全部教えます」という作品の宣言とはみなされにくい性質があります。作品主導ではなく登場人物主導の回想ですから、作品の介入度はモノローグ回想に比べて小さいんですね。また登場人物の口から語られるものですから、登場人物の考えによって話していない情報や加工した情報が存在することも考えられます。「全部教えます」度が小さいのです。

一方モノローグ回想は、冷静に考えるととても不自然な行為です。自分が既に持っている記憶を一から順に思考し直すなんてことは、ほとんどの人は通常しません。ですのでこれは作品が介入した、作品主導の回想であると考えることができます。「お話の途中ですが、ここで回想のコーナーいきますね!」と作品が読者にお知らせしているようなもので。また特殊な設定がないかぎり、自分の記憶を呼び起こしているときに情報を隠したり嘘をついたりすることもありませんから、モノローグ回想では(その人が持っている・思っている)全ての情報が偽りなく語られていると考えるのが自然です。

作品の介入・宣言度、情報の網羅度が両回想では大きく異なると考えられます。

本作はモノローグ回想ですので、作品が「全部教えます」と宣言した時点で、本作の一通りの情報が教えられたと読者は認識するだろうと思います。


もちろん、それだけに非常にわかりやすさは出ます。「全部教えます」宣言を作品がするということは、当然その作品は非常に読みやすくわかりやすくなりますし、丁寧に情報と物語を読者に提示してくれるでしょう。エンタメとして非常に読みやすい、誰もが疑問符を浮かべずに楽しめる作品になります。出会いから綴るモノローグ回想には、それだけの力があります。だから多くのエンタメ作品で採用されている。

(そうして読者を安心させて懐刀で読者を刺す、みたいな手法もありますよね。読者を騙す一番の方法は、読者を安心させることだ、と)


ただそんな読みやすいモノローグ回想は、読者に解釈を委ねる読みにくいエンディングとは悪相性であることを指すと考えます。

最初は能動的解釈姿勢で色々推測・想像していたが、出会いから綴られるモノローグ回想で受動的な解釈姿勢に切り替えた。本作はそのように読んでいいんだと読者は安心して読んでいたのに、最後の最後でいきなり能動的解釈姿勢を要求してきた。

読者はこの変化についてこれないのだと思います。それは読者の読み方に原因があるのではなく、作品側の読ませ方に原因があるのだと考えます。作品側がこの変化に無頓着であるのだと思います。一旦解かれた緊張は、簡単には戻ってきません。120%の説明をしておいて、最後は70%の説明で理解してねと言われているようなものなのです。この50%の高低差に無頓着と感じます。

エンタメ作品ですから、どのように読ませるのかはよくよく管理する必要があると考えます。

させたい読ませ方をするにはさせておくべき読ませ方があると思います。エンタメ作品が「楽しい読書体験を提供する」ものならば、読者の読書体験の管理は重要だろうと思います。

「こう読ませたい」は場面単位で考えるものではなく、作品単位で考えるものだと思います。それは読ませ方は作品で統一しろということではなく、仮に読ませ方を変化させるなら作品単位の視野で取り組みましょうということです。


飽くまでたとえばの話ですが、本作からモノローグ回想をばっさりカットしたらエンディングの是非を問う声は減るだろうと予想します。作品概要が教えられず、緊張感の保たれた読者は細かい描写や挙動から察する読み方を継続しているでしょうから。本作は一定の能動的解釈姿勢を保って読む話なのだと全編を通して読者に意識づけられれば、心情描写を排した読みにくいエンディングもすんなり受けいれられるかもしれません。

面白いですね。エンディングの是非が問われているのに、中盤の回想をカットしてみたらエンディングの是非が問われなくなるかもしれない。

人間の身体でも病気の原因箇所と症状の発する箇所が違うことが起きたりしますが、それと似ているかもしれませんね。


またこれもたとえばの話ですが、仮に本作からモノローグ回想をばっさりカットしたとしても、多少の調整を施すだけで本作は成立するんじゃないかという気持ちも持っています。

創作における死因は病死・事故死・自殺・他殺とありますが、一般に残された人間が「誰かへの怒り」を心に宿していれば他殺(またはそれに準じる)、「自分にできることはなかったかという後悔・自責」を心に宿していれば自殺、「大事な人の喪失」を心に宿していれば病死・事故死であるとそれぞれ判断できます。あくまで一般的にですが。また病死なのか事故死なのかについては、年齢や遺族の様子などでそれとなく示すことができるだろうと思います。

「詞が行きたがっていたロンドンではなく葵が行きたがっていたチューリヒに行ったことで、詞のバランスが崩れた」を示したいとしても、あまりこの後悔は物語に影響を与えているようには感じませんでした。葵は自分を責める素振りを見せていませんでしたし。そんなに重要な情報には感じませんでした。

それでも示したい場合は、この情報だけ抜きだすなどやり方はいくらでもあるはずです。回想は何も出会いから説明しなくても、断片で回想してもいいわけですから。出会いから全部説明することで、読者に受動的解釈姿勢に切り替えさせているのです。

飽くまでたとえばの話ではありますが、本作の回想をばっさりカットしてみても意外と何とかなると思います。「Stay」で読者が察せる内容と被っているところもありますし。


エンディングの是非について問われているのに、どうして中盤のモノローグ回想へ指摘を向けているのか。

それは気合の入れ方が違うからです。

本作のエンディングからは蜜柑さんの気合と意図と工夫を感じます。部分シームレスな繋ぎもそうですし、「The end, but her journey is still ongoing.」もそうですし、本作のメッセージや「世界中」のニュアンスを考えても、熟慮の末に採用した気合の入ったエンディングなのだろうと想像できます。

一方、モノローグ回想からはそれを感じません。「過去を克服する話だから、過去の説明はしないとね」くらいの意図しか感じず、そこに気合や工夫が見受けられないのです。

だからモノローグ回想に、品質向上のヒントがあると考えます。気合と意図と工夫のあるエンディングを映えさせるには、気合と意図と工夫を感じないモノローグ回想を調整するのが良いのではないか、とフィンディルは考えます。蜜柑さんとしても受けいれやすい方針提案であると、考えています。

モノローグ回想にも気合と意図と工夫があったのなら申し訳ありません。



「いつもの書き方」に「いつもでない書き方」をプラスすると、「いつもでない書き方」が浮いてしまって「いつもでない書き方」が槍玉に上がってしまうことがあります。

しかし作者としては「いつもでない書き方」をあえて行っているので、いつもでない見え方になるのは当然だと考えてしまいがちです。そこに意図と工夫があるんだと。

ただ「いつもでない書き方」が浮いてしまうのは、「いつもの書き方」と「いつもでない書き方」に悪相性が発生しているのが原因である場合があります。プラスの仕方に意図と工夫の余地が残されている場合があります。「いつもでない書き方」をプラスしているのに、「いつもの書き方」を熟慮なしに採用してしまっていないか。

ならば作者が着目すべきは槍玉に上がっている「いつもでない書き方」ではなく、放っておかれている「いつもの書き方」であるかもしれません。


(ああしてみてもいいこうしてみてもいいと言っておいてなんですが)具体的にああしろこうしろというのはありません。

「いつもの書き方」、特に出会いから綴られるモノローグ回想を気にしてみるともっと良くなるかもしれません。気にしてみるだけで変わるはずです。

出会いから綴られるモノローグ回想にエンディング並の気合・意図・工夫がないのならば参考にされてみてください。エンディング自体は何も変えていないのに、すんなり読者に受けいれられ、より評価されるエンディングになるかもしれません。




感想は以上です。

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