17【フィン感サンプル】人形と爪/亜済公 への感想

 以前応募をいただいて執筆・掲載した「フィンディルの感想」をサンプルとして載せます。感想内容は全く同一です。

 (小説作者さんの許可をいただいています)


 応募に興味を抱いた方は「フィンディルの感想」で検索してみてください。

 pixivFANBOXにて随時応募を受けつけています。

 以下から感想です。











【あらすじ】(本作の前書きをそのまま引用)

ふうん、と母は答えつつ、目玉焼きを二つに割った。とろり、と半熟の黄身が溢れる。ぱっくりと割れたその格好は、どこか傷口を思わせた。鋭利な刃物で、切りつけられた真っ白い皮膚……。






※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。






人形と爪/亜済公

https://kakuyomu.jp/works/16816927859084110697












★総評

総合点:85/100 方角:北西

“異質”の周囲の“異様”を描いた良作。“異質”を持つ転校生を「展開の人物」として配置し、その周囲の「人の人物」が持つ普遍的な心の闇を“異様”に拡大して描く様には、地に足のついた残酷さを感じさせます。「私」達に成長や変化をさせなかったのも非常に好印象で、作品コンセプトの明確さ、転校生の人生と死の“あっけなさ”の強い表現になっています。非常にバランスの良い作品です。

他方、疎外と交流の振り子運動を描く「私」の人物表現において、交流へ流れさせる種火の調達には洗練を求めることができます。また「起承転結的な速度感」と「無変化の人物表現」の衝突が“結”において見受けられました。

強調の多用によるのっぺりとした文章も(判断は分かれるでしょうが)フィンディルの目には自覚や洗練が求められるように思います。




●普遍的な心の闇由来の“異様”、人生と死に変化をもたらさせない“あっけなさ”


本作の序盤を読んでいたとき、フィンディルは「登場人物それぞれの癖が強いな」と感じていました。

本作の舞台は近未来でこそありますが、そこで描かれるのは学生生活です。「私」もさっちゃんも倉西も転校生もただの学生で、周囲とは違う“異質”な存在である転校生を巡って描かれる物語は、創作としては卑近な設定でしょう。両親の好きな容姿を選べる人形はSF設定でこそありますが、その本質は“異質”に過ぎないので、描かれる人間模様は卑近の枠を越えないはずです。

であるのに本作の登場人物の多くから、卑近で囲いきれないような癖がある。突飛ではないが卑近でもない、そういう癖を感じました。

塗り絵に合った色を塗っているが、塗り絵の線からクレヨンがはみだしているようなイメージでしょうか。


癖を感じなかったのは倉西と転校生くらいです。

多くの生徒が転校生を疎外するなか、倉西はニュートラルであろうとしているようにフィンディルには見受けられました。転校生とコミュニケーションをとろうとはしていなかったので味方であろうともしていなかったようですが、積極的あるいは受動的に疎外しようとする印象も受けませんでした。

それは倉西が倉西なりに人形のことを調べ、

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「だから、アイツが練習しても、多分、どうにもならないんだよ。諦めろって、いってやるのが、良いんじゃないか」

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転校生のことを「アイツ」と比較的フレンドリーに呼んでいたことからも得られる印象だろうと思います。

転校生の味方になることはなかったが、積極的あるいは受動的に敵になることもなかった。

そんなニュートラルであろうとした人物に感じます。これは集団のなかにおいては癖のない人物だろうと思います。大体一人はいるだろうと想像できます。


また転校生からも癖を感じませんでした。

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「あの子には、もっと生きていて欲しかった。私達は、生活に彩りをくれるように、あの子を作り上げたんです。これでは、まるで、逆効果じゃないですか」

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自分が生まれながらに両親から明確な目的を押しつけられていたことも、人形だからと周囲から疎外されてきたことも、努力だけでどうにもならない体力的な弱さを抱えていることも、転校生は全部わかっていたでしょう。

生まれながらの目的、生まれながらの差別、生まれながらの貧弱、どれも転校生に非は一切ありませんが、転校生は全てを背負って生きることを強要されました。そして転校生なりに懸命に生きようとした。

だから運動会のリレーでクラスに貢献できるように毎日必死に走りましたし、「私」に話しかけられただけで「私」を友達と語りましたし、爪を磨いたって速くなるわけがないとわかっていながら爪を磨いたのでしょう。家庭内での転校生の様子は描写されていませんが、両親の目的に沿おうと努力していたかもしれません。

努力したって速くならないとわかっていたからこそ努力しましたし、疎外されているとわかっていたからこそ交流を大事にしたのだろうと思います。

また転校生は貧弱にも疎外にも慣れすぎていたから、「私」の視点では状況を意に介していない(=呑気)ように見えたのかもしれません。貧弱や疎外に狼狽えないのは、自分の心を守るためでしょうから。

それは集団のなかで疎外される弱者が懸命に生きようとしている姿そのものであるとフィンディルは感じましたし、そこに癖はないと思います。


倉西と転校生の姿を見るかぎり、本作は疎外や差別やいじめを取り扱った学園もの、という印象です。非常に重たい内容ですが、オーソドックスな内容でもあります。そこにSFがスパイスになっている感じでしょうか。



しかしその他のキャラは「疎外や差別やいじめを取り扱った学園もの」の枠からはみでた彩色が施されていました。


まずはさっちゃん。

さっちゃんは転校生を積極的に軽蔑・疎外する登場人物です。「疎外や差別やいじめを取り扱った学園もの」では王道の登場人物でしょう。

しかしさっちゃんは爪を磨くことに異様な執着を見せる人物でもありました。

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「爪はその人の心を映すの。爪が汚い人は、心も汚い。心が汚い人は、生活も乱れる。……わかる? 爪が綺麗じゃない人は、綺麗な人より、ずっと劣ってるってコト」

 さっちゃんは、自分の指先をうっとりと見つめる。矮小な、ピカピカに磨かれた、綺麗な爪。

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この発言がおよそさっちゃんの全てだろうと思います。「私」にマドンナと称されるさっちゃんはおよそ美しい容姿を持っているのでしょうが、飽くまでさっちゃんは自分の価値を自分の爪に求めていたようです。

何かひとつのことに人間全ての価値を負託し、それを毎日磨くことで自分は優れた人間だと思いこむ。これはフィンディルの想像ですが、さっちゃんには自信がないのだろうと思います。たとえ特別に優れたものがなくても自分には価値があると思える、そんなナチュラルな自信がさっちゃんには不足しているのでは、と。

だから爪に自分の全ての価値を負託し、異様な執着を見せる。さっちゃんが自分を誇るのは、いつも爪です。

それは他者から見ればおよそ美しいとはいえない「矮小」なものなのですが。


またおよそさっちゃんは、そのことを(認めたくはないが)無意識的に自覚しているのでしょう。自分に自信がないことも、だから爪に執着してしまっていることも、そしておそらく自分は爪を磨きすぎてもはや美しくないことも。

「爪は磨けば磨くほど美しくなり、自分の価値が高まる」と「爪を磨いても価値は高まらないし、自分の爪は磨きすぎてもう美しくない」とを同時に認識しているのだろうと想像しています。前者の認識をフィルターにして、後者の認識が見えないようにしているのかもしれません。


そして転校生が爪を磨いていたことに憤慨したのでしょう。爪を磨いても転校生の足は速くなく、さっちゃんが侮蔑するまま何も変わっていませんでした。し、磨きすぎていない転校生の爪はさっちゃんよりもずっと美しいものでした。

それはさっちゃんにとっては、認めたくないものの無意識的に自覚している「爪を磨いても価値は高まらないし、自分の爪は磨きすぎてもう美しくない」を眼前に突きつけられている気持ちになったのかもしれません。

そして転校生の死を知り、一層爪を磨くようになった。血が出るまで。爪を磨いても足が遅いままで、適度に磨いたことで美しい爪を持ち、爪を磨いてもあっけなく死んだ転校生の姿を見て、「爪を磨いても価値は高まらないし、自分の爪は磨きすぎてもう美しくない」から必死に目を背けるように「爪は磨けば磨くほど美しくなり、自分の価値が高まる」へのアクセルをさらに踏んだのだろうと想像します。全てを「磨き方が足りないんだ」で片づけられるように。人は見たくないものが見えてくるときにこそ、見ていたいものだけ見るものですからね。


フィンディルの解釈では、さっちゃんは自分に自信がないのだろうと思っています。自分の価値を信じきれていない。だから何かに全ての価値を負託して、自分には価値があるのだと安心する。

しかし実際には自分に自信がありません。自信があるふりをしているが自信がないから

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「顔、キモいよね」

 私がいうと、さっちゃんは嬉しそうに「だよね」と答えた。

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「私」からの軽蔑に、嬉しそうに安心してしまう。いつも自分(さっちゃん)が言ってきたようなことを、「私」から言ってくれたから。

それは多くの人が持っている心の闇です。本作はその普遍的な闇を「爪を磨くことに執着する」でやや強調的に表現しているのだろうと思います。それが序盤の初読時のフィンディルには癖に見えた。

さっちゃんはいずれ爪がなくなっても、爪を磨くのだろうと思います。



次に母です。「私」の母。

現在の母は

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「仲良くしてあげなさいよ。そうなりたくて、生まれたわけじゃないんだし。かわいそうな子なんだから」

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と、オーソドックスな“大人の意見”を言っている癖のない人物なのですが、「私」が幼いころの母はフィンディルには癖があるように見えました。

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「楽しそう」

 と、呟いてみる。人形遊びが好きだったから、それは私の、本心だった。母はびっくりしたように、こちらを見て、

「自分の子供を、玩具みたいに扱うなんて、どうかしてると、思わないの?」

 と、責めるように、言葉を発する。

 そうなのだろうか、と私は思った。次いで、そうなのだろう、と頷いた。そして、いつしか、そうに違いない、という確信へ変わった。

「子供をそんな風に作るなんて、自然じゃない。おかしいことよ。こういうことをする親に、子供への愛情なんて、ないんだわ。どんなに綺麗な顔をしても、どんなに勉強ができていても、その子供は、不幸せなの」

 こくり、と私が頷くと、母はそっと微笑んだ。私はなんだか嬉しくなって、何度も、何度も、頷いた。「機械みたいね」と、母は愉快そうにいったのだった。

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幼い我が子に対して「親としてあるべき姿」を問い詰める親。フィンディルには“異様”に見えました。

そして問い詰めた結果、幼い「私」が母に賛同すると、母は嬉しそうに微笑むのです。そして「機械みたいね」と愉快そうに言う。

確かに我が子の容姿を選択する親は、我が子に目的を押しつける、我が子の存在意義をコントロールしようとする親かもしれません。実際、転校生の両親はそうでした。

しかし(いくら幼いとはいえ)我が子の意見を強制的に変えさせる母も、「私」の価値観をコントロールしようとする親に見えます。教育からは逸脱しているように。

この両親の姿にどれほどの違いがあるのだろうか、とフィンディルは感じました。「機械みたいね」という発言はそれを象徴しているようです。

しかし母はそれを自覚していないのでしょう。あるいは自覚しないようにしている。自分はきちんと子供に愛情を注いでいる真っ当な親だと、母は思おうとしている。

そのための根拠が人形なのだろうと思います。我が子の容姿を選択しなかったこと。そして我が子の容姿を選択する親を非難すること。

我が子の容姿を選択する親は、子に愛情を注いでいない親だ。だが自分は子供の容姿を選択しなかった、むしろそのような親を非難している。だから自分は子供に愛情を注いでいる真っ当な親だ。

この論理を完成させることで、母は自分を保とうとしているのだろうと想像します。親として安心しようとしている。だから我が子が人形を「楽しそう」とポジティブに捉えたことが許せなかったのだろうと思います。

自分は真っ当な親だ。多くの親がそう思いたがっているはずです。それを本作では、幼い我が子に対して「親としてあるべき姿」を問い詰める親として強調的に表現しているのかもしれません。

これも普遍的な心の闇と呼べるかもしれませんね。



上述の解釈は全て本作を読み終えたあとになされたものです。

初読時の序盤ではこれらを癖や違和感として、フィンディルは首をひねっていました。

「突飛ではないが卑近でもない」との第一印象に、あまり良い感情を持っていませんでした。本作に求められるキャラ特徴の程度が逸脱しているのではないかと。

しかし本作を中盤くらいまで読み進める段階では、「突飛ではないが卑近でもない」に良い感情を持っていました。

それらはいずれも「普遍的な心の闇を拡大鏡ごしに映した“異様”」なのだろうと考えられたからです。普遍的な心の闇だから突飛ではない、しかし“異様”に拡大されているから卑近でもない。そのような人物表現がコンセプトなのだろうと納得することができたのです。

純文学に分類される小説作品では、人の心を1.5倍くらいに大きくして表現する所作は常套ですから、その“異様”が普遍的な心の闇由来ならば「突飛ではないが卑近でもない」はむしろ評価されるものだろうと考えます。

つまるところ本作は「疎外や差別やいじめを取り扱った学園もの」として展開を描いた作品ではなく、「普遍的な心の闇を拡大鏡ごしに映した“異様”」として人を描いた作品なのだろうと、本作中盤くらいではフィンディルの腑に落ちていました。本作の焦点は「どうなるのか」ではなく「人とは何か」なのだろうと。

もしかしたら母の“異様”については亜済さんにとって意図していないものかもしれませんが、意図的であるかによらず、良点として評価されうる表現だと考えます。本作に似合った人物表現だと思います。


どうして本作中盤くらいで、本作は展開の作品ではなく人の作品と思えたのか。

本作の視点者である「私」が、本作の登場人物のなかでもっとも癖が強い人物だったからです。もっとも“異様”な人物だったから。

その“異様”を違和感として処理することができない程度に、「私」の“異様”が巨大な魅力を放ってきたからです。それに準じるように、さっちゃんや母の“異様”も本作のあるべき魅力として処理するのが適当だと考えられたからです。



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彼女の細い指先に、私のペンが挟まれている。最近あちこちで流行している、ウサギをモチーフにしたキャラクターが、胴体に小さく印刷してある。どの辺りがかわいいのか、私にはよく分からない。

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「私」には自分がない。周りの意見にすぐに流される。平易な言葉で「私」を表現するならばこうでしょう。

周囲の気色に合わせておけば自分は集団の一になれ、何かしらの矢面に立つことはない。自分から何か意思を発することはないが、仮に意見が対立すればすぐに折れて相手に合わせ、不健全な穏便を提供する。相手の流れに乗る、場の流れに乗る。

この性質は人間の社会性においては非常にポピュラーなものです。よく日本社会の説明に用いられますが、程度の差こそあれど国を問わず人間に見られる性質だろうと想像しています。

「私」はこの“右へ倣え性質”を拡大鏡ごしに映して“異様”のレベルにまで表現した人物であると、フィンディルは捉えています。


転校生に対する「私」の第一印象はおよそ無でした。美しい、その美しさは“異質”だ、走るのが遅い。その印象こそ持っていますが、そこに「私」は態度の結論を与えずに宙に浮かせていました。

しかし転校生が人形であると知ると、かつての母の「人形=かわいそう」に倣って「私」は「かわいそう」と考えました。また美しいのに「かわいそう」なことを「ずるい」とも思ったのでしょう。“異質”な美しさを持つ走るのが遅い人に上下の概念はありませんが、「かわいそう」で「ずるい」人と考えてそこに上下関係を持たせました。

そして人形の認識が広まると、その“異質”が肥大化し、クラスメイトは転校生を“異質”な存在として疎外します。「私」はごくごく自然に倣い、転校生を疎外します。

そこに「私」の意見はありませんでした。「私」は自分の意見なく、転校生への態度を結論づけました。

そして以後「私」は転校生を疎外する一員として学生生活を送ります。


ただ上述の内容は、集団の性質としては普通です。誰も自分の意見を持たず、どこからか生まれた流れに沿って対象への態度を結論づける。存在しない主導者を潰すことは不可能なので、何となく決められた集団の態度は黒幕有りの陰謀よりも遥かに強固で厄介だ。悲しいですが、これは集団の力学としては普通です。


「私」の“異様”は中盤以降にあらわれます。

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 ――それじゃ、あの子はどうなんだろう。

 転校生の、綺麗な髪。肌、瞳、華奢な身体。それら全てが、両親の目的に沿って作られたなら、彼女の意味は、他に何もないのだろうか。

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 思えば、いつだって、そうだった。友達と、仲良くしたいと思っている。自分の気持ちが分からないまま、仲良くしよう、とだけ思う。だから、頷くのだ。何度も、何度も。機械みたいに。

 アハアハ、アハアハ。転校生は倒れたまま、相変わらず動かない。静寂と、笑いと……。

 ――案外私は、あの子によく似ているのかも。

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自分を「機械」と表現した「私」は、転校生に親近感を覚えます。両親の目的に沿って作られた人形である転校生と、周囲に波風を作らない機械のような自分は、「意味がない」という意味において共通しているのではないか。

そう考えた「私」は疎外の態度を翻し、転校生と交流します。交流の態度を示したのです。

内容は他愛のない話でしたが、この交流は転校生に「私=友達」と認識させるには十分でした。疎外されることに慣れきった転校生にとって、事務的な理由なく「大丈夫?」と声をかけてきた存在は友達と判断する程度には稀有ですから。


これはつまり「私」は集団の濁流から抜け出たことを指すのではないか。この段階のフィンディルはそう考えました。

自分の考えなく集団に倣っていた「私」が自分の意思を持ち、自分の考えで態度を改めたのではないか。



しかしそうではありませんでした。

体育祭当日、「私」は転校生への態度も何度も豹変させたのです。

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「でも、練習頑張ってたし、きっと、何とかなると思うよ」

 思うよ、というよりは、そうあって欲しい、という方が正確だろう。

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たった一人が、クラスメイトの全員に、そんな迷惑をかけるのなら。仲良くいられないのなら――。

「いなくなっちゃえば、いいのにな」

 さっちゃんが、ぼそり、と呟いた。私は少し迷った後に、そうだね、と小さく返した。他人に迷惑をかけてはいけない。誰にでも分かる、単純な話だ。

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 ――いけ。

 心の内に呟いた。

 ――いけ。

 ――走れ。

「走って……!」

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積み重ねてきたモノが、いとも簡単に崩れてしまう。あまりにもあっけなく、そしてあまりにも冒涜的な。

 腹が、たった。

「あーあ」

 私は溜息をつく。すると不思議に、さっちゃんと自分が、緩やかな友情の中にある気がした。失望が、私達を繋いでいる。

「顔、キモいよね」

 私がいうと、さっちゃんは嬉しそうに「だよね」と答えた。

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応援→軽蔑→応援→軽蔑、クラス対抗リレーの短時間のあいだに転校生への「私」の態度は何度も変わります。

最終的には「私」の口から「顔、キモいよね」と発し、さっちゃんを喜ばせるまでに。

この様に、フィンディルは“異様”を感じました。あまりにも自分を持たず、流されている。大きく、何度も。

そのように考えると「私」が転校生に「大丈夫?」と話しかけて交流したのは、集団の濁流から抜け出たのではなく、そのときの「私」が交流の態度に流されただけだったのだと思い至れてしまうのです。それも濁流の内だったのです。


そしてさらに“異様”なのが、クラス対抗リレーにおいて「私」を流している存在も「私」であることです。

一応さっちゃんも「いなくなっちゃえば、いいのにな」と発言して、それに流された「私」が「そうだね」といつものように同調しています。しかし「いなくなっちゃえば、いいのにな」はおよそ「私」も考えていたことです。

何とかなってほしいと願ったのも「私」ですし、いなくなればいいと思ったのも「私」ですし、純粋に応援したいと思ったのも「私」ですし、クラスメイトが積み重ねてきたモノが壊されて絶望したのも「私」です。クラス対抗リレーにおいて「私」は何度も流されますが、「私」は他者に流されているのではなく、「私」自身に流されているのです。

この様に普通の集団でない“異様”を感じました。


「それは単純に自分の気持ちに従っているだけでは?」とも感じられますが、それにしてはあまりにも態度がブレブレなんですよね。

他人に迷惑をかけずに仲良くしないといけないという価値観に従って態度を決めるのならば、もっと「私」の態度は一貫するはずなんですよね。それこそさっちゃんのように。

しかし「私」はそのときの自分の気持ちに応じて、応援と軽蔑が回転しすぎているように思います。まるで振り子のように。

ですので「私」は確固たる自分の価値観を持っているのではなく、自分自身にも流されてしまうくらいに自分を持っていない人間なのだろうとフィンディルは感じました。自分の気持ちに従っているのではなく、自分の気持ちに流されている。


一般的に集団は保守的なので、一度決めた態度を変えることに抵抗を示します。流されますが、何に流されるのか、どのくらいの大きさ・頻度で流されるのかについて相応に慎重です。流されているだけなのに、「私は自分を持っている」と思う集団もありますしね。

しかし「私」はあまりにも簡単に流され、一度決めた態度をも翻す。振り子運動のように、振幅も頻度も大きい。そして「私」を流すのは他者だけでなく、自分自身でもある。

流されて集団であろうとして安心する心。そんな普遍的な心の闇を“異様”な姿にしてみせたのが「私」であると、フィンディルは解釈しています。



と、本作を読み進めるほどに「私」の“異様”が、本作の魅力として主張してくるように感じました。それに伴いさっちゃんや母の“異様”も腑に落ち、本作は展開を描いた作品ではなく人を描いた作品なのだろうと感じられました。

転校生に“異様”はないとフィンディルは捉えていますので、転校生は「展開の人物」と考えられるかもしれません。展開を用意して“異様”を引きだすための。

そして転校生の周囲のキャラを「人の人物」として、「人の人物」の“異様”を描く。そういうバランスで書かれた作品であるようにフィンディルは受けとっています。


なおそのように考えると倉西にも“異様”を拾うことは可能です。それはクラス対抗リレーにおいて倉西の存在感があまりにもないこと。人形のことを調べて転校生を気にかけているような倉西ですが、クラス対抗リレーで「私」やさっちゃんや集団から浴びせられる絶望と軽蔑の場にあって、倉西は一切の存在感を見せませんでした。それはニュートラルであろうとする倉西の立場が端的に表現されたのかもしれません。自分は積極的には絶望・軽蔑しない、最初からわかっていたことだし、転校生にはどうしようもないことだから。しかし積極的に転校生の味方をすることもしない、転校生の味方をするのはそれはそれでニュートラルではないから。

それが存在感のなさとして表現されているのかもしれません。

疎外されている転校生の立場からすると、積極的に軽蔑する人も積極的には軽蔑しない人も同じ疎外の加害者にしか見えません。中立であろうとする立場は空気であり無力なんですよね。その残酷さを窺い知ることができます。

亜済さんが意図的にこのように表現しているかはわかりませんし、これが“異様”とまで形容できるものかというと微妙ですけどね。




転校生の周囲の“異様”は、転校生を悲劇的な結末へと導きます。

ニュートラルであろうとする倉西は、転校生に何らかの手を差し伸べるものではありませんでした。(「私」の)母は転校生を同情的に見ますが、それは「かわいそう」と見下すだけのものでした。

爪に全ての価値を負託していたさっちゃんは、爪を磨いて信条を破壊しにきた転校生を実力行使で排除しようとしました。疎外から排除へと。

そして振り子のように態度を流される「私」は、自分の意思を持たずに軽率に転校生に手を差し伸べました。その姿は転校生にとって“友達”に感じられました。

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「このあと、打ち上げもあるからさ。私、早く行かないと」

 彼女は、足をピクリと動かし、再び妙な声を上げる。ズボンの裾がめくれ上がり、しなやかな足を夕陽がそっと照らし出す。そこにはいくらか青みが差して、うっすらと汗ばんでいるようだった。

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振り子によって転校生の疎外に再び立っていた「私」の発言は、転校生の心を刺すには十分すぎるものだったでしょう。「彼女は、足をピクリと動かし、再び妙な声を上げる。」胸が締めつけられる一文です。

貧弱にも疎外にも慣れていた転校生ですが、交流・友達には慣れていませんでした。クラスメイトに疎外されることには慣れきっていましたが、“友達”に疎外されることには慣れていなかったでしょう。

あるいは転校生の人生においては、それすらも経験済みのことかもしれませんが……。いずれにせよ残酷なことです。


中立である“異様”、蔑まれるべき存在を排除する“異様”、流されて手を差し伸べられる“異様”、そのどれもが転校生の心を刺すものでした。

悲しい、悲しいものです。転校生を巡る顛末は、読者にとって非常に心苦しいものです。

フィンディル的にはやはり、“友達”に疎外されるのが一番苦しいように感じられました。“異様”な振り子運動に振り回されて、転校生の心が無理やり捩じ切られるようなイメージを持ちました。

そして転校生は死にました。救われることのない、悲しい終わりでした。




しかしフィンディルの感覚で、さらに悲しいことがありました。そしてそれこそが本作の素晴らしさとフィンディルが感じるところです。

疎外されてそれぞれの“異様”で傷つけられた転校生は、車にはねられて“あっけなく”死にました。そのあとです。

登場人物が何も変わらなかった。ここにこそフィンディルは悲しさを感じます。そして登場人物を何も変えなかったことに、作品表現としての安堵も覚えました。展開を描く作品ではなく人を描く作品だからこそ、登場人物を変えない。だから“異様”は作品的な救済なく“異様”として強く表現される。最後まで登場人物達の“異様”に方針転換が加えられなかったこと、素晴らしいと思います。「そう、そう!」という気持ちになりました。


さっちゃんは転校生の死を知ってから、狂ったように爪を磨くようになったようです。血が出るほど。

美しく爪を磨いた転校生があっけなく死んだのは、爪を磨くほど人間の価値が上がると考えていたさっちゃんの価値観を揺るがすものだったでしょう。ならば爪を磨くをやめるのか、爪を磨いても人間の価値が上がらないと認識するのか。いや、そうではない、美しく爪を磨いた転校生があっけなく死んだのは、爪の磨きが足りなかったからだ。ならば自分(さっちゃん)がするべきことは、一層爪を美しく磨くことだ。

さっちゃんは変わりませんでした。さっちゃんの生き方は、転校生の死によって変わらないのです。


「私」は、転校生の死によって何か変わったでしょうか。自分が自分の意見に流されて転校生と交流をもったことで、転校生をより傷つけた。

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 ――もしも、あのとき、私が放っておかなかったら?

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およそ「私」は罪の卵を胸に抱いたのでしょう。あのときの自分は転校生疎外の立場に戻っていたが、それは正しかったのかと。

しかし直後

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「正直俺は、あの子こと、嫌いだったな」

 親族の誰かが、ぼそりと呟くのが耳に入った。

「『人形』だからか……妙に、気持ちが悪くってね」

 そうだ。あの子は『人形』なんだ。

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やはり「私」は人の意見に流されます。場の空気に流されます。

それはつまり「私」も何も変わっていないということです。「私」の生き方は、転校生の死によって変わらないのです。


さらに転校生の親族は、転校生と希薄な思い出しか持っていません。いつか送られたスイカが葬式の挨拶になってしまうほど、まともな思い出がないのです。

また葬式の場で「嫌いだった」「気持ちが悪くってね」と呟かれる。(葬式の場ではないかもしれませんが)転校生の両親は「まるで、逆効果じゃないですか」と話す。これはこれで“異様”ですが、これら全てが転校生の死によって何も変わらないことを示唆しているように感じられます。「生活に彩りをくれるように、あの子を作り上げた」のならば、生活に彩りをもたらす別の存在を得られれば転校生はもう回顧に値しなくなるのでしょう。転校生の両親は模索するでしょう、模索して成功すれば満足するでしょう。何も変わりません。


転校生の周囲の人物は、転校生の死によって何も変わらない。本作の出来事で変わった人物は誰もいない。転校生が死んだだけ。

その表現にこそ、本作の悲しみの真髄が詰まっているように思います。

逆にいえば、人をより深く描くなら、“異様”をより深く描くなら、転校生の顛末と死によって生き方を変えないことが作品的には素晴らしいとフィンディルは考えます。生き方を変えてしまえば、変わることが作品の意味になってしまいますからね。

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 あっけなく、死んでしまう。ならいっそ初めから、生まれてこなければ良かったのだ。

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冒頭の一文の鋭利さを研ぎ澄ますには、転校生の人生にも転校生の死にも、意味を与えないことが重要なのです。“あっけない”のは車に撥ねられたからではない、“あっけない”のはそこに意味を見出せないからだ。誰も変わらないからだ。

それは“異様”な残酷さでもって、人間のありふれたリアルを炙りだし、表現します。




以上、本作へのフィンディルの簡単な解釈を述べました。以降の感想内容は上述の解釈を前提にしています。亜済さんの想定と致命的に食い違う場合は、一読者の解釈としてお受けとりくださいますようお願いします。

転校生を「展開の人物」、他を「人の人物」として表現し、転校生の顛末に沿って「人の人物」の“異様”を描く、人を描いた作品。普遍的な心の闇を由来とする“異様”は、転校生を疎外し、いたずらに転校生を傷つけ、転校生の心を捩じ切る。

そして“異様”は転校生の人生にも転校生の死によっても変化せず、転校生の人生にも転校生の死にも意味を与えない。

それは“異様”だが、人間のリアルを拡大鏡で大きく映したに過ぎない。


非常にバランスのとれた作品だと思います。何を描く作品なのか、どう描く作品なのか。テーマと表現がぴっちり合っている作品だと思います。非常に素晴らしいと思います。

「私」の振り子運動によって転校生の心が捩じ切られる感覚を覚えるところも素晴らしいですし、転校生の人生と死に意味を感じさせない“あっけなさ”も素晴らしいと思います。地に足のついた残酷といいますか、ひよった残酷でも前のめりの残酷でもないところが素晴らしいですね。バランスがとれています、素晴らしい。




ただバランスがとれていて素晴らしいというのを前提として、ひとつの挑戦を示すことも可能だろうと思います。それを挑戦と思うか余計と思うかは亜済さん次第ですが。

転校生にも“異様”を付与する、という発想もアリだと思うんですよね。

上述のとおり、フィンディルの解釈では転校生に“異様”は見られませんでした。癖がなかった。その立場・生い立ちならば自然とそうなるだろうなという言動に終始していました。反面、他の登場人物は(倉西は微妙ですが)普遍的な心の闇を拡大鏡で大きく映した“異様”が見られました。考察すれば普遍的だが、その発露には異常を感じさせる。

転校生の人形としての美しい容姿を“異様”に設定されている可能性もありますが、こちらは転校生の心の闇を由来とするものではないのでフィンディルとしては“異様”には数えられませんでした。周囲の“異様”を呼ぶための“異質”に過ぎないと。


真っ当なバランス感覚ではあると思います。転校生は「展開の人物」、他を「人の人物」と区別できて、作品がよくまとまっていると思います。何を描いている作品なのかがわかりやすく、転校生はその“異様”を引きだすための呼び水になっている。物語が進むにつれて「私」の振り子の幅が大きくなっているのも、転校生の「日常→努力→リレー→死」の呼び水が大きくなっているからですし。

なので人の“異様”を描くならば、“異様”の主たる対象となる転校生に“異様”を付与しないのは非常に無難な判断だと思います。“異様”を引きだす人物に“異様”があるとまとまりにくくなる。


だからこそ転校生にも“異様”を付与するという発想が価値を持つだろうと思います。付与しないのが真っ当ならば、付与して真っ当でなくする。そんな発想です。

書きやすい・作品がまとまりやすい・何を描きたいのがわかりやすい、これは、消化しやすい・作品が小さくなるを指すことがあります。読書体験が小さくなってしまうリスクを孕んでいると考えられます。

なので転校生にも“異様”を付与すると、読み味がさらに複雑になってくれる期待を持つことができます。転校生は「展開の人物」かつ「人の人物」ともなり、何を描いているのかがわかりにくくなります。それは読書体験をさらに大きくすることに繋がるかもしれません。

もちろんそれで作品のバランスが崩壊してしまっては駄目ですけどね。転校生を「展開の人物」、他を「人の人物」にしたうえで、転校生に「人の人物」性を与える。

せっかくバランスが整っているのだから、バランスを壊してみよう。面白いことが起こるかもしれない。そんな発想に価値を見出せる作品だと思います。

こんなことを言うのは作者が亜済さんだからです。亜済さんの実力ならば十分挑戦できることだと思います。亜済さんがこの話に価値を感じるならば、考えてみると面白いかもしれません。「それはやっちゃ駄目だ」と考えられたならば読み流してください。



繰りかえしになりますが、非常にバランスのとれた作品だと思います。人のリアル、“異様”、残酷。それらを効果的に伝えるための作品方針がきちんととられているように感じました。“異様”を“異様”に見せるための真っ当なバランス感覚が披露されています。

「人の人物」を拡大鏡で大きくして“異様”として表現したこと、それらは普遍的な心の闇由来であること。“異様”により転校生を傷つけたこと。転校生の死によって、“異様”に方針転換をさせなかったこと。全てが素晴らしい。素晴らしい。

非常に素晴らしいと思います。



●「私」の人物描写への違和感


この項目は指摘です。「人の人物」である「私」の人物描写についてです。


前項目でもお話ししましたが、「私」は自分を持たずに流されてしまう人物であると解釈しています。

それが“異様”なのが、振り子運動を連想させるほどに振幅と頻度が大きいこと。そして自分の意見にも流されてしまうこと。それは自分の意見を持っているということではなく、その場その場の自分の意見に流されてしまう。クラス対抗リレーなどでは「私」は応援と軽蔑をフットワーク軽く行き来しました。

一般的に集団は変わりやすいのですが「私」ほどは変わりにくいものだと思います。しかし「私」はあまりにも変わりやすい。変わるための種火も何でも良い。それは逆説的には「私」は変わらないことを意味するかもしれませんね。誰よりも変わりやすい人物は、本質的には誰よりも変わりにくいのかもしれません。


まるで振り子のように態度を様変わりさせる。瞬く間に態度は両端を行き来しますし、その振り幅が大きくなると変化の程度も大きくなる。それを呼んでいるのは「展開の人物」たる転校生ですが、転校生の状況(日常→努力→リレー→死)に応じて、「私」は態度豹変の程度・頻度を増していく。そういった振り子的な表現が、「私」の表現としてもっとも効果的だろうと思います。

物語が進むにつれて「私」の表現を段階的に強くしていけますし、ピーク時は「私」の“異様”をしっかり表現できる。

その表現コンセプトは非常に理に適っていると思います。


この表現コンセプトによる「私」の人物描写ですが、二点気になるところがありました。



まず気になったのが、「私」を交流に流れさせるときの種火がスマートでないように感じたことです。

「私」は転校生を対象に疎外・交流の両端へと振り子運動をします。疎外・交流は軽蔑・応援にも言い換えられます。

「私」は自分の意思で態度を決めることはありません。他者の意見であれ自分の意見であれ、流れるための種火が必要です。


このうち、疎外と軽蔑に振るための種火には事欠きません。基本的にクラスメイトは転校生を疎外していますから、「私」もそれに乗ればいいだけです。常に疎外と軽蔑を示すさっちゃんもいますから、疎外と軽蔑に「私」を振るときの種火の補給は何も難しくありません。何も難しくないだけに面白くなりにくいというのもありますが。


難しいのが交流と応援に振るための種火です。

クラスメイト達は普通の集団ですから、一度疎外と軽蔑に態度を決めたら多少の動揺はあるにせよ疎外と軽蔑を徹底すればいい。

しかし“異様”である「私」は、一度疎外と軽蔑に決めても簡単に交流と応援に振る可能性がある。そして作品的に見れば振り子運動のように複数回、交流と応援に振りきれてもらう必要がある。

ではそのための種火はどこから補給するのですか。その問題が発生します。


とはいえ基本的に本作はこの作業を上手くこなしていると考えています。

自分の意見に流れさせる、という倒錯的な心の動きを本作は表現しているとフィンディルは受けとっています。周囲のクラスメイト達が交流と応援の種火になれないのなら、自分自身がその種火となればいい。

自分の意見に流されて「私」は交流と応援に態度をとりますし、また自分の意見に流されて「私」は疎外と軽蔑に態度をとる。

こういう倒錯的な心の動きを採用することで“異様”となりえますし、それが人物描写の魅力となっていると思います。素晴らしい。


この作業、クラス対抗リレーの場面ではある程度上手くできていると思います。

努力ではどうにもできないとわかっていながら努力していた、だから応援する。むしろそうでないとクラスに迷惑がかかるから疎外する(疎外に同意する)。走りだしたらどうにかなってほしいから応援する。結果的に駄目でクラスが積みあげてきたものを台無しにしたから軽蔑する。

いずれも

―――――――――――――――――――

他人に迷惑をかけてはいけない。

―――――――――――――――――――

という自分の意見に流されて、応援と軽蔑をこまめに行き来しているように感じました。ここで疎外の立場を一貫して見ようとか、中立の立場を一貫して見ようというのができないのが「私」らしいと思います。応援するときは100%応援、軽蔑するときは100%軽蔑。秒単位で自分に流されて自分の態度を表裏させるのが「私」の“異様”だと思います。

「他人に迷惑をかけてはいけない」というフレーズはここで突然湧いてきたものですが、本作においては突然湧いてくるのは何ら悪いことではないだろうと思います。「私」の性質と親和性の高い意見ですしね。突然の湧かせ方にはもっと洗練できる余地があるような気もしますが、トリガーの方向性としては無難で良いと思います。


クラス対抗リレーにおける「私」の振り子運動の表現は上手いと思います。ワインディングロードを走っているような読書感があり、「私」の“異様”をよく感じられました。非常に良いと思います。そのなかで「さっちゃん発信の軽蔑に同意する」→「『私』発信の軽蔑でさっちゃんに同意を求める」の変遷が置かれているのもとても良いと思います。



気になったのはこの場面ではなく、それよりも少し前。

「私」と転校生が交流をする場面です。「私」が初めて交流に態度を振った場面。

速く走れるようになるために転校生は毎日校庭を走っていました。そして転校生は転倒してしまいます。さっちゃんは嘲笑し「私」もそれに流されますが、さっちゃんが去ってその場に「私」と転校生の二人になると、「私」の振り子は交流へと振られ「……大丈夫?」と話しかけるのです。

ここの種火がスマートでないように感じられました。


―――――――――――――――――――

 ケタケタケタ、とさっちゃんは唇を醜く歪めた。私もアハアハ笑い返す。一体何がおかしいのか、よく理解できなかった。アハアハ、アハアハ。さっちゃんはすぐに興味を失い、別の誰かと話し始める。ぽつねんと残され、私は一人、笑い続ける。自らの声が、誰に届くでもなく響いていた。これではまるで、機械みたいだ。

 思えば、いつだって、そうだった。友達と、仲良くしたいと思っている。自分の気持ちが分からないまま、仲良くしよう、とだけ思う。だから、頷くのだ。何度も、何度も。機械みたいに。

 アハアハ、アハアハ。転校生は倒れたまま、相変わらず動かない。静寂と、笑いと……。

 ――案外私は、あの子によく似ているのかも。

 十秒が経つ。二十秒が経過する。笑いを収めて、ふと思い立ち、彼女の方へと近づいてみる。ほんの少しだけ、転校生が、好ましく思われたのかも、知れなかった。

 特段、柔らかい表情で、接しようとは思わない。けれど先の笑いがまだ、口角にこびり付いている。油汚れに似たしつこさ。

―――――――――――――――――――

ここで「私」は自身の性質の言語化をはかっているんですよね。これがすごく気になってしまいました。

「私」を交流に流れさせる種火としては、非常に真っ当だと思います。時計の話から人形である転校生にはどんな意味があるのかと疑問に思う。しかし自分も、自分のない機械のようなものじゃないか。人形と機械はどこか似ているなと親近感を抱き、その自分の意見に流されて「私」は転校生に「大丈夫?」の言葉を放つ。振り子は交流に振れた。この流れは真っ当だと思います。

しかしその種火とするために「私」に自身の性質の言語化をはからせた、自身の性質を意識的に自覚させたことがスマートでないようにフィンディルには感じられました。

本作の作品コンセプトに衝突しているように感じられたのです。


「私」がはかった言語化は、フィンディルの目にはおおむねそのとおりであると思います。およそ的確。自分の意見にすら流されて頻度高く振り子運動を行う“異様”までは触れていませんが、それは程度問題でしょう。

ここまで的確に自身の性質を言語化してしまえば、人は選択を迫られます。分析だけ行ってそれで終了とはならない。「自分はこんななんだな、へー」では終わらない。自己分析を行った人は「そんな自分を変える」「そんな自分を変えない」という二択を迫られるのです。

自分のそういうところは変えていかなければならない、成長したいと望むのか。自分はそういう人間だ、ありのままに受けいれようと割りきるのか。

どちらかを迫られるものだと思います。そしてこれはどちらを選択しても「成長」「変化」だと考えます。

仮に「そんな自分を変えない」を選択したとしても、その選択そのものが「成長」「変化」です。変化しないことを選ぶのは変化です。自己を理解して自己を受けいれる、これは立派な成長です。

自己分析は、自分自身の「変化」「成長」へといたる第一歩であると考えます。


しかし前項目でお話ししましたが、本作は無変化無成長が重要であるとフィンディルは解釈しています。変化しない成長しないから「変化する」「成長する」に焦点を合わせずに、人が持つリアルかつ“異様”な心の闇を表現できる。変化しない成長しないから転校生の人生と死に意味が与えられず、“あっけない”残酷さが強く表現できている。

しかし「私」が的確な自己分析を行えてしまうと、それは「私」の「変化」「成長」の第一歩になってしまうように感じられます。

転校生の姿を見て、「私」が自分自身の性質を言語化できた。自己分析ができた。それは「変化」「成長」への道筋になってしまうんですよね。

「私」を交流へと流すための種火調達、それは一展開のためのトリガーです。一展開のためのトリガーが、作品全体のコンセプトと衝突している。無変化無成長だから強く表現できている作品に、変化成長の第一歩がぽんと置かれている。


だからなのでしょうか。自己分析を行ったはずの「私」は、何故か二択を迫られないのです。「そんな自分を変える」「そんな自分を変えない」の選択を行いませんでした。衝突は回避されているのです。

クラス対抗リレーで流された「私」も、葬式で流された「私」も、自分の性質を俎上に上げませんでした。自己分析などなかったのように、大きく振り子運動を行います。振り子運動を行うに際して「これが自分だ」や「また流されてしまっている」という思考を挟みませんでした。

それは無変化無成長を肝とする作品コンセプトには合致しています。しかし自己分析を先日行ったはずの「私」の人物描写としては不自然です。そしてこの不自然は、作品の利益に合致している。

無変化無成長が作品の肝だ。しかし交流に態度を振る種火の調達が難しい。「私」に自己分析をさせて得た親近感を種火にしよう。種火にするための自己分析だし、作品コンセプトに反するので用済みになった自己分析はそのまま放置する。

そういう作品的な思惑をフィンディルは感じました。

結果的に、作品コンセプトと人物描写の衝突を無理やり回避した歪みが残されてしまっているように感じました。


初読時フィンディルは自己分析を行った「私」の姿を見て、「あ、これ『私』は成長するんだな」と思ってちょっとがっかりしたんですよね。期待していた作品コンセプトに反する展開が待っているようで。

しかし「私」は成長しませんでした。本作は期待していた作品コンセプトを見せてくれました。フィンディルは安心しました。「そうそう!」と思いました。

ですがそれと同時に「じゃああの自己分析は何だったの?」という違和感も残ってしまいました。そして交流の態度に振るための種火調達だったんだなと推測ができてしまったのです。

なので、種火調達がスマートじゃないと思いました。



また本作はさっちゃんが上手く表現できているんですよ。無変化無成長をきちんと表現できているのです。

さっちゃんは「爪を磨けば磨くほど人間の価値が上がる」と思っています。しかしそれは「何かに全ての価値を負託せずにはいられない自信のなさ」という性質があるというのがフィンディルの解釈です。そしてさっちゃんは「何かに全ての価値を負託せずにはいられない自信のなさ」を無自覚ながら気づいている。

そして転校生が爪を磨いたこと、転校生が死んだことで「爪を磨けば磨くほど人間の価値が上がる」は崩壊の危機を迎えてしまいます。軽蔑対象の爪が綺麗だった、爪を磨いたのにあっけなく死んだ、いずれも「爪を磨けば磨くほど人間の価値が上がる」に反する事象です。

「爪を磨けば磨くほど人間の価値が上がる」が崩壊すればさっちゃんは自信を持つことができなくなります。同時に「何かに全ての価値を負託せずにはいられない自信のなさ」を自覚せざるをえなくなるでしょう。本当はわかっていたが爪のフィルターで見ないようにしていたものが、フィルター崩壊によって生々しくさらけだされてしまうから。自分の性質を自覚せざるをえなくなる。

転校生の死によりさっちゃんは、割りきるのか成長を望むのか、その選択をさせられそうになったとフィンディルは解釈しています。「自分は何かに全ての価値を負託せずにはいられない、自信のない人間なんだ」と割りきるのか「何かに全ての価値を負託せずに自信を保てるような人間になろう」と成長を望むのか。その選択は大事な選択のように感じられますが、本人にとっては吐き気を催すような辛いイベントでしょう。自分に自信がないこと、自分に価値がないことを嚥下しなければなりませんからね。

だから、さっちゃんは選択させられそうになったから、狂ったように爪を磨いたのだろうと解釈しています。選択したくないから、「何かに全ての価値を負託せずにはいられない自信のなさ」を意識的に自覚したくないから、自分を知ってしまいたくないから、今までどおり「爪を磨けば磨くほど人間の価値が上がる」を信条として生きたいから、転校生が死んだのは爪の磨き方が足りないからだと「爪を磨けば磨くほど人間の価値が上がる」を強化することで自分を守ろうとしている。

フィンディルの解釈ですが、自身の“異様”を変えずにすむように必死に抗ったのがさっちゃんであるように思います。上手く表現できていると思います。


それを考えると、あっさりと自身の性質を分析してしまっている「私」にどうしても違和感を覚えてしまうのです。そしてその自己分析を何もなかったかのように放置している姿にも違和感があります。この「私」の心情描写がフィンディルには腑に落ちませんでした。

そしてその分析は「私」を交流に流れさせるための真っ当なトリガーであるという作品的意図であると思い至ると、そのトリガーの役目を果たしたから放置されているのだと思い至ると、これはやはり「私」の人物描写に少々の無理が発生していると考えるのが自然であると判断します。

一展開のためのトリガーが作品全体のコンセプトを若干ながら毀損している、それを無理やりに回避しているから「私」の人物描写を毀損している。

仮にそれを指して亜済さんの応募コメントの「なめらかさ・美しさにおける欠陥」とするならば、確かにそのとおりだとフィンディルは考えます。


「私」に自分の意見に流れさせる“異様”を描くのは素晴らしい。“異様”です。

しかしそのために「私」に自身を分析・言語化させるのはスマートではない。人物表現に無理が生じている。自分の意見に流れさせるのならば、「私」には“異様”を槍玉にあげさせないかたちで意見を言わせるのが無難であると考えます。

本作は「人を描く作品」として徹頭徹尾「私」達の“異様”に焦点をあてる作品だと考えますが、飽くまでそれは作品として焦点をあてるのであり、登場人物である「私」に焦点をあてさせるものではないと考えます。“異様”を見るのは作品であり、「私」達に己の“異様”を見させてはいけない。見させるときは作品のコンセプトから変えるときだ。

そのようにフィンディルは本作の魅力を判断しています。さっちゃんについては、己の“異様”を見させない表現が上手い。


もちろん難しい作業ですけどね。「私」に転校生への親近感を抱かせるのは、「私」に交流へ流れさせるうえで真っ当な手段です。母の「仲良くしてあげなさいよ。」、倉西の「諦めろって、いってやるのが、良いんじゃないか。」、時計のメタファー、これらを蓄えて交流へ態度を振るための決め手として、自己分析を用いているのかもしれません。真っ当だと思います。

これを潰されてしまうと、ではどうやって「私」に交流へ流れさせようか迷ってしまいます。他者の意見に流れさせようとしても、種火の調達は困難です。

もちろん、このとき「私」が交流に振れているからクラス対抗リレーでの振り子運動が展開できます。一番最初に振り子を大きく動かすのが、このときの交流なんですよね。いくら「私」が“異様”であっても、それなりに強い動機づけは必要でしょう。

しかしその動機づけに、自己分析は不似合いだとフィンディルは考えます。「私」が成長してしまう。


ただ亜済さんならばできると思います。それだけの実力がある方だと思います。フィンディルがあれこれ方針を示す必要すらないと思います。

ここで挙げた内容が「なめらかさ・美しさにおける欠陥」だと亜済さんが感じられたのなら、挑戦されてみてください。

もし「なめらかさ・美しさにおける欠陥」でない場合は、納得いただけたなら挑戦されてみてもいいですし、納得いただけなかったのなら読み流してください。飽くまでフィンディル個人が仮定した作品コンセプトと魅力です。




「私」の人物描写で気になったところ、もう一点です。二点のうちのもう一点。

起承転結の結に、「私」の“異様”が沿わされているのではないかという懸念です。


本作は大衆文学に位置する作品ではないと考えています。エンタメではない。それはエンタメ小説においておよそ必須の「成長」「変化」が本作には描かれていないから。「成長しない」「変化しない」それが地に足のついた残酷を描くキーとして表現されていると思います。転校生の人生にも死にも意味がない、“あっけない”ものだった。展開ではなく人を描いたという点において、本作は大衆文学の様子を見せていません。まあここまで言語化せずとも雰囲気を見ればわかりますね。

一方で本作には起承転結と判断できる構成は組まれている。葬式から始まり転校生との出会い、そこから「私」の日常生活と転校生の努力、クラス対抗リレーにおける「私」の“異様”がワインディングロードとなって読者を揺るがし、転校生の死とともに葬式の場面に戻る。場面に性質を求める人からすると起承転結でないとも声もあるかもしれませんが、速度感と起伏で見るとそこに起承転結があるとフィンディルは見ています。

そういう意味でフィンディルは本作を北西と方角づけています。純文学の作品コンセプトと大衆文学の作品構成。それを併せ持っていると。


ですのでその組みあわせの話でもあると思います。

本作は起承転結の結を作ろうとしていて、「私」の“異様”にセーブがかけられているのではないか。そのようにフィンディルには感じられたのです。

亜済さんは起承転結を意識しているわけではないと推測していますけどね。無意識的に結を作ろうとして、“異様”にセーブがかけられていると想像しています。


―――――――――――――――――――

「あの子には、もっと生きていて欲しかった。私達は、生活に彩りをくれるように、あの子を作り上げたんです。これでは、まるで、逆効果じゃないですか」

 ――もしも、あのとき、私が放っておかなかったら?

 私は、事故を想像する。ボンネットにぶつかって、宙をひょいと飛んでいく。ゴム人形か何かのように、べたり、地面にキスをする。捻った片方の足首が、醜く膨れ上がっている。ぱっくりと頭が割れていて、そこから、何かがはみ出している。膝の鋭い傷口が、酸素を求めて、あえいでいる。両手の磨かれた爪だけが、不思議な光沢を放っている……。

 けれども、案外、辛くはない。

 事故を知らされたさっちゃんは、狂ったように爪を磨いた。カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ……。磨かれ、削られ、ついに血が流れ出しても、決して手を止めようとしない。それを見ると、私は不思議に、安心するのだ。

「正直俺は、あの子こと、嫌いだったな」

 親族の誰かが、ぼそりと呟くのが耳に入った。

「『人形』だからか……妙に、気持ちが悪くってね」

 そうだ。あの子は『人形』なんだ。

 深呼吸する。肩がひょい、と軽くなる。

―――――――――――――――――――

葬式の場面を見ていて感じたことなのですが、「私」が罪悪感に態度を振っていないんですよね。正確には、罪悪感へ態度が流されそうになったところをぐっとこらえている。こらえて、無関心に留まっている。「けれども、案外、辛くはない。」がそうです。

どうしてこらえたのか。

罪悪感は交流・応援に類する態度です。無関心は疎外・軽蔑に類する態度です。

クラス対抗リレーでは振り子運動のように両態度を行き来していた「私」なのですが、この場面では罪悪感に流されかけたのをこらえて無関心を維持しているのです。振り子運動になっていないのです。ここが気になりました。


賛否両論あると思うのですが、フィンディルとしてはクラス対抗リレーよりも死のほうが重大だと感じています。「私」視点ならば転校生の死よりもクラス対抗リレーのほうが重大だろうという考えもあるとは思うのですが、重大であることには変わりないとは思っています。「――もしも、あのとき、私が放っておかなかったら?」「深呼吸する。肩がひょい、と軽くなる。」と、序盤にはなかったような心の揺れを「私」は覚えていますので。

仮に死よりもクラス対抗リレーのほうが重大だったとしても、振り子運動をする程度には死も重大であるはずだと考えています。

もし亜済さんの想定として「転校生の死は『私』にとって些末なこと」という認識ならば、以下は参考程度にしてください。


転校生の死が「私」にとって一定以上の重大であるとして、ならば「私」はクラス対抗リレーと同じように振り子運動を描くはずだと考えます。

しかもこの場面においては、「私」を罪悪感へ流れさせるだけの種火も調達できます。

―――――――――――――――――――

「あの子には、もっと生きていて欲しかった。私達は、生活に彩りをくれるように、あの子を作り上げたんです。これでは、まるで、逆効果じゃないですか」

―――――――――――――――――――

この両親の発言が葬式でなされたものか、「私」の家に挨拶しにきたときになされたものかは判然としませんが、

―――――――――――――――――――

「子供をそんな風に作るなんて、自然じゃない。おかしいことよ。こういうことをする親に、子供への愛情なんて、ないんだわ。どんなに綺麗な顔をしても、どんなに勉強ができていても、その子供は、不幸せなの」

―――――――――――――――――――

転校生の両親は、序盤で「私」の母は糾弾した親そのものです。そして母は人形を「かわいそう」と述べました。

もし転校生の両親の発言が葬式でなされたものなら、「私」は過去の母の発言を引っぱりだすことができたでしょう。人形という単語から引っぱりだすことができたのですから、母が糾弾する親そのものの発言から引っぱりだすことは容易でしょう。

転校生の両親の発言が「私」の家に挨拶しにきたときになされたものなら、挨拶後にでも「私」の母は何かを言ったでしょう。「ほら、やっぱり。子供がかわいそう」などと。その場合はより直近の母の発言を「私」は引っぱりだすことができます。

ならば「私」は母の発言に流され、糾弾対象となる存在への義憤、あるいは転校生への「かわいそう」を抱き、伴って罪悪感の態度をとることが自然に予想されます。「私」を罪悪感に流れさせるのは何も難しくないし、むしろ流れるのが自然であるとすら思えます。


しかし「私」はそれをしていないのです。罪悪感へ流されそうになったが、それをこらえているのです。そこが腑に落ちませんでした。どうしてこらえるのか、こらえられるのか。「私」の“異様”がこれまで見せてきた姿ではない。

何故か。もしかしたら亜済さんのなかでは「私」の人物描写的な想定があるのかもしれませんが、フィンディルの印象としては「もう物語は終わるから」「物語的な着地を見計っているから」という回答しか持てませんでした。

もう物語は終わり際の結で、「私」による転校生への無関心へと着地を見計らっているタイミングだから、振り子運動なんてしている場合じゃない。

「私」に無関心へいかに着地させるかを考えているときだから、転校生の両親の発言にブレる必要はあるが、しっかりと流されてはいけない。綺麗な着地ができなくなる。

そういう作品構成的な都合が、「私」に罪悪感へ流れるのをこらえさせたのではないか、そのようにフィンディルは見ています。


もしそうであるならば、その分「私」の人物描写は削られたということです。伸び伸びと“異様”を描くなら罪悪感に流されていたはずを、作品構成の柵によって表現が弱くなった、と。それはやはり「人を描く作品」としては違和感が残ってしまうところです。


“異様”のスケール感が小さくなってしまう感覚も覚えました。“異様”は転校生の死によって変化しない、それが本作の作品コンセプトというのがフィンディルの解釈です。

“異様”の不変を考えると、交流と軽蔑の振り子運動が転校生を傷つけて捩じ切ったのに、死んでもなお罪悪感と無関心の振り子運動を見せるほうが残酷な不変が表現できるんですよね。むしろ葬式では無関心を維持されるほうが、“裏切られた”身としては常識的です。

転校生が死んでも、「私」の振り子は今までどおり態度を二転三転させる。罪悪感に振れて転校生に想いを馳せるほうが、より残酷にフィンディルには映ります。そして最後はやはり無関心に戻る。死人に同じ刺し傷を負わせるような、どうしようもない残酷さがあります。


音をイメージしてみると、クラス対抗リレーから大音量で鳴り響く“異様”が物語が終わりになるにつれて綺麗に終われるようにボリュームダウンしていってる感じでしょうか。

しかし“異様”の魅力、転校生の死に意味がないことを考えると、物語が終わりに近づこうが転校生が死のうが“異様”は大音量で鳴り響き続けて物語終了とともにプツンと音が消えるほうが、演出としても表現としても素直であるようにフィンディルには感じられます。


そのあたり、「人の心を拡大して表現する」純文学的表現と「起承転結などの構成を組んでバランス良く仕上げる」大衆文学的表現の摩擦を上手く処理できていないのかな、という印象を持ちました。片方に配慮して片方のスケールが小さくなっている、と。


フィンディルとしては、葬式の場面でもお構いなしに振り子運動を続けていいと思っています。転校生の死が「私」にとって一定以上に重大なら、クラス対抗リレーのときと同じように「私」は振り子運動を続けていいと。振り子運動をするための種火はありますし。

「この場面は結だから」と締めに向かって着地を見計る必要もないと思います。本作は展開の作品ではなく人の作品なのですから。

あるいは結のなかに小さな起承転結を並べる気持ちを持つのもアリかもしれません。振り子運動そのものに展開を作るエネルギーがあるので、それだけで小さな起承転結は作ることが可能です。結のなかの小さな結で着地を表現するのも可能でしょう。


綺麗に着地しよう、きちんと結を作ろうとする所作が、“異様”のスケール感を小さくしてしまっている。フィンディルにはそのように感じられました。

このあたり、さらに洗練させられるように感じています。大衆文学的に美しくない構成を局地的に採用することが、本作において美しさとなると考えます。

罪悪感をこらえて無関心に戻るより、罪悪感に流されてさらに無関心に流されるほうが、「私」らしいし“異様”らしいとフィンディルは思います。残酷さがさらにぐっと上がります。“裏切られた”相手に同じ角度から優しさを向けられるのが一番キツいですからね。

「私」が罪悪感に流されるのをこらえたことに特別な理由がない場合には、参考にされてみてください。特別な理由がある場合にはそちらを優先してください。





以上、「私」の人物描写について気になったところでした。

いずれも「私」が交流・応援・罪悪感サイドに態度が流される描写についての違和感です。

疎外・軽蔑・無関心サイドに流されるときよりも難易度はずっと上がると思います。普通の集団はなかなかしない挙動ですので。

しかし「私」の場合は両サイドを頻繁に行き来することで、その振り子運動に“異様”が乗ります。そしてそれが本作の「人を描く作品」としての主たる魅力だとフィンディルは考えています。

この振り子運動を洗練・徹底させることが、人物描写の面では「なめらかさ」や「美しさ」に磨きをかけてくれるのではないかと期待しています。

亜済さんが自作に抱いた「欠陥」がこれであるのかは知る由もありませんが、フィンディルの目には感じられた向上点です。



●文章面の違和感


前の項目では人物描写で気になったことについてお話ししました。

ここでは文章面で気になったことについて三点、お話ししたいと思います。前項目と関連する内容もあるのですが、適宜参考にしていただければと思います。



まず二点紹介したいと思います。

それが「読点の多用」と「改行ダッシュの多用」です。


読点の多用。

本作といいますか、亜済さんの文章には読点が多いというのはすぐに拾える特徴だろうと思います。「フィンディルの感想」への応募コメントでも読点が多かったので、本作で選択した文体ではなく亜済さんの文章特徴なのだろうと推測しています。

おそらく亜済さん本人も自覚されていると思います。自覚されていないのなら認識していただければと思います。亜済さんの文章には読点が多い。一文ごとにひとつ二つ、読点を減らす余地があります。


改行ダッシュの多用。

改行ダッシュというのはフィンディルが今作った言葉なのですが、要は改行後の文頭でダッシュを使うということです。

―――――――――――――――――――

 ――明るく、優しい女の子でした。

―――――――――――――――――――

 ――雰囲気が、以前と少し違っている。

―――――――――――――――――――

 ――だから。

―――――――――――――――――――

などなど、本作は改行ダッシュが非常に多い。これが亜済さんの文章特徴なのか本作で選択された文章特徴なのかはわかりませんが、読点のことを考えれば亜済さんの文章特徴なのかなあ? という印象を持っています。違っていたらごめんなさい。

本作の改行ダッシュで特徴的なのが、対象を選ばないことです。

「――明るく、優しい女の子でした。」は台詞です。かぎ括弧での台詞ももちろんあるのですが、台詞のなかでも強調するときにかぎ括弧に代わって改行ダッシュを用いています。「――意味分かんない!」などが顕著ですね。

「――雰囲気が、以前と少し違っている。」は「私」の思考です。本作は「私」の一人称視点文なので「私」の思考がたくさん綴られているのですが、特定の思考を強調するときに改行ダッシュを用いています。

「――だから。」は単純な強調です。そのあとに「だから、なのだ。」とも続きますし、強調してリズムを作る用法として改行ダッシュが用いられています。

いずれも「強調する」という意図で改行ダッシュが用いられているのですが、その対象は多岐に渡っています。強調しようと思ったときには何にでも使っているというくらい、対象を選んでいません。

亜済さんのなかでは「強調する」技術のファーストチョイスなのかもしれません。


読点の多用、改行ダッシュの多用、いずれも文章全体をのっぺりさせる効果をもたらします。

読点は基本的に文章を読みやすくしたりメリハリをつけるためのものです。どこにブレスを置くかを示したり、どこに文意があるかを示したり。

「私が好きな食べ物はエビだ」という文があったとして。「私が好きな食べ物は、エビだ」とすれば「エビ」が重要なのだな、「私が好きな、食べ物はエビだ」とすれば「食べ物」が重要なのだな、と文意をある程度コントロールできます。そのため読点を用いて自然に文意を強調することができます。

しかし読点が多くなりすぎると、全部が強調されている状況になります。それは実質的には全部が強調されない、メリハリが全てなくなるという意味を指します。赤文字で強調したとしても赤文字を使いすぎればそれは強調の意味をなさなくなります。「私が好きな、食べ物は、エビだ」では何を伝えたいのかがわかりにくくなります。

改行ダッシュも同じですね。対象を選ばない改行ダッシュで何度も強調すれば、改行ダッシュから強調の効果はおよそ失われます。また対象を選ばずに同一の技術でリズムを整える所作には冗長さが生まれます。複数の対象に同じ技術を使って同じ効果を出し続けているということですから、メリハリはなくなります。

結果、読点を多用して改行ダッシュを多用して強調すればするほど、文章全体はのっぺりします。もちろん読み進めれば読み進めるほど。強調効果が減衰していくかたちですね。

本作は文章全体がのっぺりしているとフィンディルは考えます。



しかし文章全体がのっぺりするのは、決して悪いことではないと考えます。一般的な大衆文学であればリズム感が重宝されて冗長は煙たがられるでしょうが、一般的な大衆文学だけが文学ではありません。

エンタメ的な速度感を求めない作品であれば、文章全体ののっぺりはむしろ相性良しと判断されることも十分にあると思います。


そしてここからがフィンディルも本当に判断が難しいのですが、では本作の文章は本作に合っているのか、ということです。

前項目で言及しましたが、本作は成長なし変化なしの「人を描く作品」です。この作品と一般的に相性が良いのはのっぺりした文章だろうと思います。一方、構成の速度感としては起承転結が採用されている。展開には相応の起伏がある。こちらはメリハリのある文章と一般的に相性が良い。

そのときに、強調(メリハリ)をつけすぎて逆にのっぺりとした本作の文章は、相性良しと見るのか相性悪しと見るのかが難しいんですよね。

もしかしたら亜済さんはそれを意図して、読点や改行ダッシュを多用しているのかもしれません。


ですのでここで述べるフィンディルの印象はあくまでサンプルのひとつとしてお受けとりください。

強調の多用によるのっぺりとした文章が、本作に合っているのか。「合う」「どちらともいえない」「合っていない」、読者によって割れやすいと予想します。

強調の意思により起承転結にそぐうし、結果的なのっぺりで「人を描く作品」にもそぐうとする読者もいるかもしれません。両性質を併せ持った文章として。

フィンディルのサンプルとしては、「合っていない」寄りです。フィンディルはあまり合っていないと思ってます。


というのも、強調の多用によるのっぺりとした文章が、「人を描く作品」にも起承転結的構成にも衝突しているように感じられるからです。両性質を併せ持っているがゆえに、全般で衝突しているように感じられるのです。

本作は起承転結の速度感がありますので、前半はゆっくり、後半では盛りあがります。そして「展開の人物」である転校生は起承転結に則った展開を提供しますので、「人の人物」である「私」の“異様”は転校生から提供された展開に則って振り子運動の振幅と頻度を大きくします。

前項目では、起承転結の結のボリュームダウンと、転校生の死による振り子運動のクレッシェンドが衝突して、振り子運動に遠慮させていませんかというのが指摘でした。

本作は展開面でも人物面でも、後半になるにつれて表現が大きくなっていくんですね。逆に前半は小さい。

そのときに強調の多用によるのっぺりとした文章が、前半では強すぎて、後半では弱すぎるように感じられたのです。

前半は読点や改行ダッシュの強調技術に鮮度がありますので、各種強調は相応に効果を発揮します。それが表現の小さな前半では、強調が強すぎるように感じられる。序盤から終盤みたいな読み味を感じていました。読点が終盤でした。

逆に後半は読点や改行ダッシュの強調に鮮度がありませんので、各種強調の効果は減衰している。それが表現の大きな後半では、強調が弱すぎるように感じられる。そういうジレンマをフィンディルは感じました。

強調の意思は感じるが強調されていない。これが作品の進行と上手く噛みあっていないように感じられたのです。


ただ全然合っていないというわけでもないので、やはり難しいところだと思います。文章技術は一貫しているが、強調ものっぺりも出せているとも捉えられるので。


なのでフィンディルとしては、強調の多用によるのっぺりとした文章を、亜済さんが意識的に採用しているか否かで考え方は変わるのかなと感じています。

意識的に採用しているのであれば、フィンディルの印象は一サンプルと捉えるのが無難だと思います。ただ強調の多用によるのっぺりとした文章を採用したうえで、いかにこれを洗練させられるかについては向上の余地があると思います。たとえば改行ダッシュのタイミングを、「私」の振り子運動と連動させてみても面白いでしょうし。振り子運動の裏拍をとるように改行ダッシュを入れたり、あえてバラバラのビートを刻んでみてもいいでしょうし。「すごいリズム感だね」と伝わるような文章作りができうる文体だと思います。読点の多用も上手いアクセントになるかもしれませんし。本作は合わせるにしてもバラバラにしても、展開や振り子運動との連動感がなかったんですよね。

意識的に採用していない、つまり亜済さんの癖であるのならばまず「自分にはそういう文章の癖があるんだ」と認識することが無難だと思います。癖だからといって必ずしも矯正しないといけないわけではないと思います。読点はもう少し減らしましょう、改行ダッシュは対象を絞りましょう、みたいなことを無闇に押しつける気はありません。フィンディルが悩んでいるように、強調の多用によるのっぺりとした文章は本作に合わないと断言できる性質ではありませんから。

なので「自分にはそういう文章の癖があるんだ」と認識したうえで、その癖を武器と考えて、どうすれば作品が映えるだろうかと模索するのもアリだと思います。「せっかく身についている癖」と捉えられるのが創作の面白いところですから。


フィンディルにとっても悩ましいです。合っているとはいえないが、合っていないと断言するのは憚られる、そういう文体だと思います。意図的ならばより洗練させて、意図的でないのならば自覚して武器にする。そういう考え方が無難なのかなと思います。

一サンプルとしてお役立てください。



三点目。これはフィンディルとしては悩まず「改良をオススメします」といえるところです。

無闇に入っている三人称視点文です。これは排除をオススメします。


―――――――――――――――――――

 転校生の、第一に目立った特徴は、透き通るような、真っ白い髪。毛の一本はあまりに細く、ちょっと触れただけであっても、ふつり、と切れてしまいそう。あるいは、なめらかな肌だとか、緑がかった灰色の瞳。全体に華奢なその身体は、運動をするには少し不便だ。

―――――――――――――――――――

 ひょう、と風が頬を撫でた。彼女の真っ白い髪が揺れて、その合間から、綺麗な瞳が姿を現す。疲労のせいか、表情がややこわばっていた。細かい汗が、額に浮かんでいるのが見える。

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 真っ白い髪が、陽光の下で輝いている。風にふわり、と煽られて、どこか幻想的な印象を与える。唇が強く結ばれて、相貌がまっすぐに前を向いた。走り出す。腕を振る。

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 さっちゃんは笑う。歓声の一部が、嘲笑に変わった。悲鳴の一部が、歓声に変わった。彼女の足は、酷く遅い。以前と、何も変わらない。真っ赤に染まり、フグのように歪んだ顔。鼻の穴が膨らんで、黒々とした穴が目立つ。見開かれた目が、ぎょろりと虚空を睨んでいた。

―――――――――――――――――――

「私」の一人称視点で描かれる転校生の容姿描写は、そのときそのときにより毛色を大きく変えます。これはそのときの「私」の態度が多分に影響を与えています。

振り子が動く前は無難に、振り子が交流・応援に振れているときは美しさを出し、振り子が疎外・軽蔑に振れているときは醜さを出します。転校生の容姿描写の毛色は、そのときの「私」の態度を雄弁に物語っているのですね。そしてそれは「私」の“異様”を強く表現するものです。「私」の態度によって見え方が全然違うのだな、人は自分の態度によって見え方を大きく変えるのだな、と。

これは「私」の人物描写として非常に真っ当だと思います。視点者の語彙選択により、視点者を表現する。転校生を表現しているようで実は「私」を表現している。一人称視点文であることを活かした、優れた表現だと思います。良いと思います。


しかし本作はここにちょこちょこ、三人称視点による転校生の容姿描写が混ざっているんですよね。

―――――――――――――――――――

体育の時間、あの子はいつだってみんなの後ろを追い掛けていた。細かな汗が額に浮かび、頬に赤みが差していて、足取りは酷く頼りない。息を切らして、顔がフグのように歪んでいる。

―――――――――――――――――――

ジャージを着て、頼りない足取りで校庭を走る。一周、二周、三周……と、大粒の汗を額に浮かべ、倒れるように足を踏み出す。そこには、努力、というよりも、むしろ痛々しさ、という言葉が似合った。

―――――――――――――――――――

三人称視点による転校生の容姿描写がところどころで挿まれているんですよね。それも一人称視点の容姿描写とシームレスなかたちで。これが非常に気になり、一人称視点による転校生の容姿描写の良さが落ちてしまっているように感じられました。

無難から始まり、美しいと醜いを何度も行き来する合間に(三人称視点による)無難が挟まってしまうんですよね。それで容姿描写が薄められて、“異様”の表現があまりきいていないように感じられました。


「私」の振り子運動に、「私」以外による中継地点が設けられてしまっているような。これはおよそ不要であると思います。転校生の姿は全て、「私」の目と態度によって描かれるのが一番鮮烈になるだろうと期待できます。

たとえば「私」が転校生に話しかけたときに「細かい汗が、額に浮かんでいるのが見える。」との描写が入っていますが、これは「私」が額の汗が確認できるほど転校生に近づいたことを指します。転校生の汗が見えることが、「私」が交流の態度に振れた証なんですよね。

しかしその前に三人称視点で「細かな汗が額に浮かび」「大粒の汗を額に浮かべ」と何度も描写されているため、転校生の汗の描写が一切映えていないのです。「細かい汗が、額に浮かんでいるのが見える。」を読んだときにフィンディルは「知ってる知ってる」としか思えなかったのです。三人称視点のカメラは容易に転校生の汗を描写してしまいます。

三人称視点による転校生の容姿描写により、「私」が振り子運動で態度を何度も変える表現が弱くなってしまっているように感じます。逆にいえば、転校生の容姿描写をもっと徹底・洗練させれば「私」の人物描写もより映えると期待できることを指します。

「フグのように歪む」は転校生の努力が無意味であったことを端的に表すフレーズなので序盤に入れておく必要があるのは理解できますけどね。さっちゃんに言わせたりすれば補完できることだろうと思います。


本作は「私」の人物描写が一番のコンセプトだと思いますので、視点者である「私」を描くなら三人称視点文は排除することを基本的にオススメします。

このあたりの徹底が緩いように感じられました。人を描く作品で、描く人物が視点者であるのなら、作品の全ての文が(他者を表現している文ですら)視点者を表現するものである。その意識は基本的に大事になってくると思います。無闇に三人称視点文が入ってしまうと、視点者の表現が薄められてしまうことがあるかもしれません。

三人称視点による描写を入れることで作品の輪郭を下支えしているのならば、三人称視点なしでも作品の輪郭を支えられるくらいに一人称視点を磨くことをオススメします。本作は一人称視点を徹底することが望ましい作品だと思います。

意識をオススメしたいところです。亜済さんの文章技術ならば何も難しくありません。



以上、文章面で気になった三点を紹介しました。

一人称視点の徹底は細部の演出程度の話ですが、読点と改行ダッシュの認識・洗練については作品全体の文章運びの話です。大衆文学の構成と純文学の作品コンセプトをもった本作ですから、この文体が合う合わないは非常に難しい話だと思います。しかし作者ならば無限に洗練できますので、意識的に選んだ文体ならばより洗練させるにはどうすればいいか、癖ならばまず癖であると認識したうえでどうしていけばいいか、考えてみることをオススメします。

「なめらかさ」「美しさ」が単純に文章運びの話ならば、おそらくここだと思います。



●ギミックの締めは本作にとって普通すぎる


最後は本作の締めについて指摘をしたいと思います。

―――――――――――――――――――

 思えば私は、彼女の名前を、いまだ、知らない。

―――――――――――――――――――

本作は転校生は終始転校生で、名前は一切出てきませんでした。「彼女」「あの子」「アイツ」と彼女の名前が出てくることはありませんでした。

それはつまり転校生には“異質”や「人形」としてのアイデンティティしか与えられず、誰も彼女自身のパーソナリティに興味を示さなかったという残酷を表現するものです。

「私」の無関心へ振れた態度とともに、転校生への残酷さを端的に表現する締めですね。それ自体は悪くないと思います。


ただフィンディルとしては、本作の締めとしては力不足に感じました。印象を述べるなら「この締めではないんじゃないか」と最初に感じました。

何故かというと、「思えば私は、彼女の名前を、いまだ、知らない。」は俗にいうギミックなんですよね。作品的な仕掛け。

作中で一度も転校生の名前を出さないでおいて、締めでそれを回収することで表現となす。これはギミックです。

普遍的な心の闇由来の“異様”を見せつけた「人を描いた作品」の締めが、ギミックなのか。ここがフィンディルとしては満足感に乏しかったです。



何度もお話ししていますが、本作は大衆文学的な側面と純文学的な側面がある話です。そして一般にギミックは大衆文学と親和性の高い技術です。ギミックは驚きや発見で読者を楽しませる類の技術ですから、「読者のため」の思想の強い大衆文学に近しいと考えられます。

逆に純文学的な作品ではギミックはおよそ不要で、用いるとしても非常に高難度です。主人公や視点者の内面へ迫ることを趣旨とする作品で、読者を楽しませようと作者が手ぐすね引いて待ち構えているのはノイズになりかねません。作者によるもてなし精神は基本的に不要です。もっと根のところの読書体験が重要だろうと思います。

ですので本作で締めをギミックにするのは、非常にリスキーな行為だと考えます。起承転結の側面もありますから受けつける土壌はあると思いますが、大衆文学と同じ濃度と角度のギミックは難しいだろうと考えます。

そういう意味で「思えば私は、彼女の名前を、いまだ、知らない。」のギミックは、本作にとっては普通すぎる。普通の真っ当なギミックすぎるように感じます。リスキーな行為という認識なく放られている印象があります。

それで「あ、作者がギミックで締めてる」とノイズになってしまっているように思います。


転校生の名前が出ていないのは、もちろん呼んでいる途中に気づいていました。「私」の名前も出ていないのは視点者だからいいとして、さっちゃんや倉西などの人名が出ているなかで転校生がずっと転校生なことにはもちろん気づきます。倉西にはそんな存在意義もあるのかもしれません。そして転校生のパーソナリティに誰も興味を示していない表現なのだろうとも気づきます。

無関心の表現であることはわかります。そして無関心の表現になっている。

ただ締めでそこを持ちだしてしまうと、無関心の表現が削られてしまうんですよね。無関心であることに関心を持ってしまっているので。無関心がもっとも輝くのは無関心であるときです。無関心に関心を持ってしまうとそれは完全な無関心ではありません。無関心を作品の締めでギミック的に持ちだしてしまうと、それはもはや関心です。

「私」の内面に迫る作品で作者主導の仕掛けでノイズを感じさせ、しかもそれで無関心の完全性が削がれて表現が弱くなっている。そのようにフィンディルには映りました。

転校生がずっと“転校生”であることに、本作は触れなくていいとフィンディルは思います。


どうしてもギミックで締めたいのなら、もう十倍くらい凝ったギミックが必要だと思います。純文学表現とギミックは相性が悪い、その相性の悪さをぶち壊せる程度の品質でギミックを示せれば、評価は変わるかもしれません。

現実的には、ギミックギミックしたギミックを使わないことをオススメします。「私」の内面に迫る作品ならば、作者主導ではなくキャラ主導で締めさせる。

現在の締めよりも肩に力の入らないもので、現在の締めよりも読者を刺す。そういう意識を本作ではオススメします。

本作は、どこにでもあるようなギミックで締められるような普通の作品じゃないと思います。本作がどこにもである普通の作品なら、フィンディルは「思えば私は、彼女の名前を、いまだ、知らない。」に「良い締めですね」「ギミックがきいていますね」と評価していたでしょう。しかし本作はその程度の作品ではありません。

それはフィンディルが本作を評価していることを意味します。素晴らしいことなので、自身の作品に対して力不足にならない締めを探してみてください。




感想は以上です。

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