第38話 国を蝕むモノの正体



 慌てて逃げようとして、何故かガクッと膝から力が抜ける。


「エリー様?!」


 驚いたロンに支えられて転ぶことは避けられたが、足に力が入らない。


「何、で……」


 足がもつれただけではない。

 何故か視界もぐにゃりと歪み、バタバタという忙しい足音と動かない体に焦りは増す。


「ロン、とりあえず貴方だけでも」


 逃げて。

 そう言おうとした時、影が差す。

 

 顔を上げてハッとした。

 ロンの後ろには、私たちがここまで来る時に付けていたゴロツキ風の男が、どこから持ってきたのだろう、瓶を振りかぶっていた。


「ロンッ」


 私の悲痛な声が空を割いたのは、彼が上から殴りつけられた後だった。


 彼を殴った瓶の破片が、破裂音と共に辺りに散っていく。

 人が殴られるのを間近で初めて見た私は、そうでなくともすくんでいた足がガクガクと震えて一層立てない。



 ロンの心配と、次は私なのではないかという恐怖。

 前者は初めて感じる、後者は子爵家にいた時に感じた感情を久しぶりに引っ張り出されたかのようだ。


「一体何でこんな所にアンタみたいな普通のやつがいるんだろうなぁ? いやこの際関係ないか。俺たちの話を立ち聞きしていたかもしれない人間をタダで返すと、俺たちも殺されかねないからな」


 こんな風になって初めて、自分がどんな危険な事をしていたのかを思い知らされた。


 巻き込んでしまったロンだけでも、どうにかしなければ。

 咄嗟にそう思うものの、私になす術はない。


 私はただの令嬢だ。

 特に身体能力に優れている訳でも、知能に長けている訳でもない。

 この状況を打開する術を持っていない。

 そんな私でもできる事は。


「貴方たちは、一体何を売っているの……?」


 震える声でそう尋ねた。


 どちらにしても、彼は私を逃がさない気のようである。

 ならば少しでも時間稼ぎを。

 情報を聞きだすための言葉を。

 そんな事をしたところでここから生還できる算段はまったくないから意味ないのかもしれないけど、もう本当に私にはそれくらいしか出来る事がない。



 彼は、私を脅威だと思わなかったのだろう。

 もしかしたら恐怖でいっぱいの私の顔を見て、少し遊んでやろうとでも思ったのかもしれない。

 ニヤニヤと笑いながら「知りたいか?」と言ってくる。


「聞いてしまったら気になるでしょ? いいじゃない、どうせ貴方は私たちを逃がしてくれはしないのだろうし」


 倒れたロンを自然と背中に庇いながら、キッと彼を睨み上げる。


 後ろでは、ロンが力ない声で「エリー、様……」と呟いた。

 おそらく「そんな事をしている暇があったら逃げろ」とでも言いたいのだろうけど、何故か動かない足はもちろん、そもそも彼をこんな所に置いてはいけない。


 頭がクラクラしてきた中、せめて少しでも負傷した彼を元気づけるためにと手を握る。


「怖いんだろ? 俺たちが。なのに何でそんな事をわざわざ知りたがる」

「私は貴方たちみたいに、暴力で他者を従わせようとする人が嫌い。ただ怖がっているだけなんて、何だか暴力に負けたみたいじゃない」


 自然と口からそう零れ、私はやっと自身の気持ちを自覚した。


 もしかしたら私が組織に入ったのは、過去の自分と同じような境遇の人を助けたいと思ったのはもちろん、過去の自分が恐れていたものに負け続けたくないという気持ちもあったのかもしれない。


 あの時私を助けてくれたレンリーア様は、誰にも穢されない白いユリのように堂々とした佇まいだった。

 過去の自分とは正反対の人だ。

 私なんてきっと、レンリーア様のようにはなれない。


 でも、純白のユリに美しくは在れなくても、泥の中でも必死に咲く蓮の花のようにはなれるかもしれない。

 私の過去は消えないけど、その過去から這い上がった自分になら、なれる可能性がきっとある。


 そんな自分を諦めたくなかったのだと、気がついた。

 そして私はこの期に及んで、それを諦める気はない。


「私、こうと決めると意外と頑固な性分なのです」


 キッパリとそう言い切ると、彼は何故か少し楽しげに笑う。


「そんなに言うなら教えてやるよ。俺たちが売っているのは麻薬だ」

「麻薬?!」

「あぁ。ちょっとにおいを嗅ぐだけですぐにぶっ飛べる。ハンカチに沁み込ませたにおいを嗅ぐだけだから、どこでも、それこそ目の前で誰かと喋りながらでもお手軽摂取ってな」


 におい。

 それで急な不調の合点がいった。


「麻薬はこの国では禁止されている」

「だからいいんだろ? 皆大金を出してでも欲しがる」

「そんな事をしていたら捕まるわよ」

「国が俺たちを捕まえるって? 舐めてもらっちゃあ困る。俺たちだって伊達にアンダーグラウンドで生きちゃいないんだから」


 ハッと鼻で笑いながら、彼は自信ありげに言った。


 しかし私は、おそらく彼らの事を放っておかない人がこの国にいる事を知っている。


「それでも貴方は、必ず何かしらの制裁を受ける事になる」

「へぇ? 面白い事を言うな、お前。まぁどちらにしても、お前がここで終わる事は決定事項だけど」


 言いながら、彼は手にしたままだったロンを殴った瓶の慣れの果てをこちらに見せびらかすようにしてニィーッと笑う。


 瓶だったものは、今は砕けて鋭利な破片と化している。

 まるで刃物のように尖っており、少なくとも私を傷つけるには十分に見えた。


 先程まで勝っていた正義感と義務感が、恐怖心に負けてしまう。

 

 怖い。

 そう思った時だった。



 ボンッという、大きな破裂音がした。

 同時に視界が真っ白になる。


 最初は麻薬の作用のせいかと思ったものの、煙いにおいが私にこれを現実に起きている事だと確信させた。

 すごい煙に思わずケホケホとせき込んでいると、後ろからヌッと手が伸びてきた。


 布で口をふさがれて、私は驚き抵抗した。

 すると耳元で「落ち着け!」という、焦りと呆れを孕んだ声がする。


 ――煙いにおいに、ミントのにおいが混ざり込んだ。

 あれ、知っている。

 このにおいは……。


「ゼフ?」

「あーもう俺は、そもそも裏方担当なのに! っていうか、何でお前がこんな所に来るんだよ! こんなの指示書には書いてなかったぞ!!」


 幼馴染の苛立たしげで煩わしげな声は、今にも頭を掻きむしり始めてもおかしくないようなものだった。

 しかし今は非常時だ、そんな事をする暇さえない。


「とりあえず煙が晴れる前に逃げるぞ、大きな音を立てたしこの煙だ。多分じきに憲兵が来る」

「でもロンが!」


 いつの間にか意識を手放してしまったロンを、ここに置いていく事はできない。

 私の腕を無理やり引いて立たせようとするゼフに逆らい、私は首を横に振る。


 そんなやり取りでこの場所の位置を掴んだのだろうか。

 ブワッと吹いた風と共に、大きく腕を振りかぶったあの男性と目が合った。


 間違いなくこちらを害そうとする意思がある目だった。

 にも拘らず、その腕が振り下ろされる前に、彼の体が崩れ落ちる。



 一瞬の事、しかも煙の中での出来事だ。

 何が起きたのか分からなかった。


 ゼフも隣で驚いている。

 辛うじて見えたのは、おそらく彼の意識を刈り取った長剣の刃だけだ。


「貴女たち、早く逃げなさい」


 凛とした女性の声がした。

 誰かは分からない。

 煙の向こうに紫色のドレスのシルエットが淡く浮かんでいるものの、その服にも見覚えはない。


 ヒマワリのにおいのする彼女の声は、しなやかな強さを孕んでいるように聞こえた。

 レンリーア様とは少し違うけど、堂々と立つそのシルエットはどこか彼女に似ているような気がする。


「ここにいる事を知られると困る身の上なのであれば、貴女は貴女自身と貴女のなすべき事のためにここにいてはならない。そこの彼にも治療が必要でしょう。下手に動かすと悪化する可能性もある。あとは私が引き取りますから」


 もう一人を従えた彼女は、落ち着いた声で言い含めるように、私に行動を促した。



 その言葉に、ハッとした。


 たしかに私は、今ここにいるという事実を知られない方がいい。

 憲兵の聴取を受けて目立ってしまう事も、「何故貴族がこのような所に?」という質問への答えも、可能な限り避けたい立場だ。


 私も巻き込まれたとなれば、ロンはおそらくこんな場所に私を連れてきた責任を問われる。

 私のせいで要らぬ処分を受ける事になる。

 

 そして何より私には、一刻も早く組織に伝えなければならない事がある。

 国に関わる一大事だ。


 きっと、顔も見えない彼女の声に信頼を抱いた事も大きかったのだと思う。

 私はやっと決断をした。


「ロン、巻き込んでごめんなさい。あとでまた謝罪をさせてね」


 握り続けていた手を握り締め、そう囁いてからゆっくりと離す。


 今度こそゼフが引いた手に促され、私はその場を走り去った。

 途中で振り返ると、大きな音に何だ何だとあばら家の中から出てきた人影が、銀色の刃に吹き飛ばされていたのが見えた。


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