第31話 ロロカ・キダノ伯爵令嬢
「あ、そうだエリー様。これが私のおすすめ本なのですが――」
言いながら、彼女が少し背伸びをして、本棚から一冊取り出した。
振り向いて渡してくれた本を受け取ると、表紙には『神秘の泉の住人』という文字が。
彼女の話を聞いてみるに、どうやら森の中が舞台の幻想小説らしい。
彼女は瞳を輝かせ「いいですよね、日の光に透ける緑と小鳥のさえずり。その下で繰り広げられる非現実」とどこか遠くへ思いを馳せながら言う。
私の生家である男爵家は森に面する領地だけど、実際には森なんて、虫は出るし鬱蒼とすれば日が入らずに一日中薄暗かったりもする。
それを度外視して語る彼女は、もしかしたらあまり本物の森を知らないのかもしれない。
まぁ別に、森に幻想を抱く事自体は悪いわけではない。
実際に森に入るのであれば少しマズいが、小説の中で楽しむ分には、逆にそのくらいの解釈の方が綺麗な情景が思い浮かぶだろう。
「ロロカ様は本当に、本が好きなのですね」
後に続く少々夢見がちな作品感想を聞きながら、私はなんだか不思議な気持ちになっていた。
そもそも本は、値段が張る娯楽だ。
娯楽に大金を使うなんて、金を持つ者の道楽である。
もちろん下級貴族生まれの私にも、読書の習慣はなかった。
辺境伯家に貰われて一応読書ができる環境にはなったものの、今回のような事でもなければ自ら進んで本を読むだなんて事、しなかっただろう。
私の言葉に、彼女はキョトンとした顔になった。
しかしすぐに可笑しそうに笑う。
「エリー様も本が好きではありませんか」
「え?」
「だって私と談義ができるのですもの。『森の妖精物語』だって、上巻だけではなく下巻まで読了したのでしょう? でなければできない話にも、貴女は答えてくださいますもの」
言われてみて「たしかに」と思ってしまった。
なんせ一度読めば済む話なのに、実はすでに三巡目を終えている。
私も随分とこの本にハマってしまったものである。
「私、とても嬉しいのです。これほどまでにきちんと本のお話ができて。昔はおばあさまとお話していましたが、一昨年亡くなられてからはこんな風に話した事は一度もありませんでしたから」
彼女はそう言って、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「本を読む方の大半が、知識を目的としています。娯楽として本を読む方がもともと少ない上に、この物語は上下巻もの。分厚い本を二冊もなんて、他の方に強要するのは、苦痛を齎すものでしょう。だから私、お友達には読書を自分から進めないようにしているのです」
彼女は伯爵令嬢だ、子爵家や男爵家の子女に「この本を読んでお話ししましょう」と言えば、彼女たちはおそらく話を合わせるために本を読んでくるだろう。
しかし彼女はそれをしない。
無理して読んで話を聞いてもらっても気持ちよくないからではなくて、相手が苦痛だろうからしないのだ。
実際に、周りに読書を強く勧めていたら、そのような話はすぐに社交界に出回りそうな物なのに、彼女がこんなにも本好きであるという事はあまり広く知られていない。
組織から彼女に関する情報を知らされる前は、キダノ伯爵家は目立つことが好きな当主と古書収集が趣味の夫人を要する家だと思っていた。
ロロカ様自身は、言い方は少し悪いけど、「淑やかな印象のあまり目立たない存在」だった。
おそらく他の人たちも、似たような印象を持っているだろう。
本について話している時の彼女は、とても楽しそうだというのに。
その喜びを、彼女はおばあさまと話した事で、既に知っているというのに。
彼女は他者に自らの気持ちを押し付けたりはしない。
誰にでもできる事ではない。
これは彼女が、とても優しいからこそだ。
何だかもうここまで来ると、ミッションとかそっちのけで彼女という人間を好きになってきている自分がいる。
彼女と話すのは楽しいし、話の端々から読書家の彼女から垣間見える思いやりの心が見える。
それがひどく優しくて、心地よくて落ち着いた。
そんな相手と話していれば、時間はすぐに過ぎていく。
そして、話し始めてから約四時間後。
昼下がりの柔らかな陽光が差し込む書斎で二人、本談義は一休みして彼女がお勧めの本を読ませてもらっていた時に気がついた。
「ロロカ様、……ロロカ様?」
いつの間にか、彼女が隣でスピスピと寝息を立てている。
その可愛らしさに思わず頬を綻ばせ、私はハッと我に返った。
やっと自分が今日ここに何をしに来たのかを、思い出した。
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