第2話 メリナ様を見て、疼く古傷
門番に自分が辺境伯家の令嬢である事を伝え、夫人に取次いでもらうようにお願いすると、確認のために屋敷へと走った門番が少しして中に通してくれた。
ロンを馬車の前において一人屋敷の中に入る。
廊下は掃除も行き届いているし、調度品も――それほど詳しくない私でさえ――「高価なものだ」と分かるようなものばかり。
だからといって決してくどい訳ではないあたりが、代々侯爵の地位を守っている上級貴族の格を思わせる。
この家の当主は社交界でも、それなりの立場を気付いている。
周りからの評判も、私が知る限りは悪くない。
友人も多く、彼が誰かに理不尽を強いたという話は、少なくとも私は聞いた事がなかった。
――そんな人が、まさかあんな事をしているなんて。
上から貰った情報を頭の中で思い出しながら、私は足元に視線を落とす。
今回のような機会でもなければ、一生気がつかなかっただろう。
いや本当は、そんな事をしている家が他にも存在していただなんて、できれば信じたくはない。
けど、もし本当にそんな事になっているのなら、絶対に見逃す事はできない。
前を歩く初老メイドからほんのりと漂う柑橘のにおいに鼻を擽られながら、私は無言で廊下を進んだ。
メイドが立ち止まったのは、立派な扉の前だった。
ゆっくりノックし、中に向かって「お連れしました」と声をかける。
その声が冷たい気がするのは、きっと気のせいなのだろう。
でなければ、元々彼女はこういう喋り方なのだ。
そうとでも思わなければ、興味がないどころか一種の蔑みさえ透けて見える使用人の声色に、まだ疼く心の古傷を思い出しちょっと涙が出そうになる。
この時点で、既に情報の信ぴょう性は証明されたも同然だった。
しかし私を確信させたのは、中から「どうぞ」という声が返り扉が開かれた時だった。
そこは応接室だった。
やはり侯爵家に相応しい品格ある調度品の数々が並んでいる。
ソファーもテーブルもすべて、高級さを隠しもしない。
そんな中、ソファーから立ち上がった女性だけが、景色から浮いて見えたのだ。
淡くウェーブの掛かったこげ茶色に、深緑色の目をした彼女――メリナ・グレンディース侯爵夫人は、私にとっては少し見かけた事があるくらいの関係性に過ぎない。
にも拘らずハッキリそうと分かるくらいに、彼女は痩せすぎていた。
「クレメント辺境伯令嬢。ようこそお越しくださいました」
お辞儀をすると長い髪に、彼女のどこか虚ろな目が隠れた。
侯爵夫人というだけの事もあり、惚れ惚れするような立ち居振る舞いだった。
でもだからこそ尚の事、今の彼女が痛々しい。
上がった顔の表情は、やはりひどく疲れていた。
声にもどこか覇気がなく、私……というよりも人全般を、やんわりと拒絶しているように見える。
前情報では、彼女はまだ今年で十九歳の筈だ。
もっと年上に見えるのは、間違いなく手入れの行き届いていないお肌や髪のせいだろう。
極めつけは、彼女のにおいだ。
扉が開かれるまで気がつかなかったけど、彼女からは埃のにおいがする。
おそらく発生源は服だ。
しばらく着ていなかった服を、洗濯せずにそのまま着せされているのだろう。
普通、見た目に変わりはないとしても、使用人がついている貴族はそのようなものを着たりしない。
侯爵家なら尚の事、そんな事はない筈なのに。
寒々しいこの埃のにおいは、私に過去を思い起こさせる。
寒い、寂しい、怖い、ひもじい。
体に焼き付いている過去に、私は思わず体を震わせる。
しかし彼女から「どうぞ、お席に」と言われてハッと我に返った。
勧められるままにメリナ様の向かいに座りながら、頭の中で「落ち着け、冷静に」とゆっくり唱える。
今しんどいのは私ではない。
あの場所から救われた私は、今目の前のこの人を助けるためにここにいるのだ、と。
震える息をなるべくゆっくりと吐き出しながら、考える。
やはり正しかったのだ。
彼女がこの屋敷で、とても苦しい生活を強いられているという情報は。
彼女が普段この家でどのような扱いを受けているのかは、もう疑いようもない。
ならば私が今、すべきことは。
「メリナ様、ごきげんよう。少しお痩せになられましたか?」
指示書の滑り出しを思い出し、私は無理やりに口角を引き上げた。
うまく笑えているかは分からない。
あまり自信もないものの、「あの方ならばどうするか」と頭の中で想像し、必死に彼女の真似をする。
案内役の方のメイドは、既に部屋を辞去していた。
部屋には彼女と、若いメイドが一人だけ。
彼女の側付きなのだろう、滑らかな手つきで私と彼女のための紅茶を淹れている。
紅茶がカップに注がれる音をBGMに、彼女の口から「えぇ少しだけ」という当たり障りのない答えが返ってきた。
「最近少し暑いですものね。どうしても食が細くなるというものです」
「えぇ。もう昼間など、日傘なしには出歩けません」
彼女は嘘つきだ。
だってその青白い肌を見れば、彼女が久しく日の下に出ていない事なんて、尋ねるまでもなく分かってしまう。
前情報には詳しく書かれていなかったものの、この分だときっと庭園の散歩さえ許されていないのだろう。
本当は、それをここで指摘してやりたかった。
そして彼女に手を伸ばし「今すぐここから逃げよう」と言いたかった。
でも今はまだ、その時ではない。
むしろ今一番言ってはならない言葉である。
だから抱いた感情をすべて呑み込み、私は不格好な笑みを浮かべ続ける。
「あの、クレメント辺境伯令嬢……?」
「何でしょう」
「その、申し訳ありません。生憎と、今は主人もディアナ様も、屋敷を不在にしておりまして」
何故ここに、その二人の名前が出てくるのか。
一瞬分からずにキョトンとしてしまう。
しかし一拍遅れて理解が追い付いた。
あぁなるほど、彼女は勘違いをしているのだ。
「もしかして何かお約束をされていたのでしょうか……?」
そう尋ねる声は弱々しく、彼女の目は周りの何かを気にしていた。
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