エピローグ

 学校から帰ってきた陽奈ひなは、靴を脱いでキッチンへと向かう。その途中、祖父の部屋から独り言が聞こえてきた。まただ、と陽奈は思った。祖父の独り言を聞いたのは、一度や二度ではない。何を言っているのだろうかと、たまに聞き耳を立てる時もあるのだが、今日はそのまま歩を進めた。


 キッチンでは、母親がケーキ作りに励んでいた。母親の趣味の一つで、最近は特に凝った物を作るようになっていた。ほぼ毎日、店で売っているような美味しいケーキが食べられる。それ自体は、甘い物好きの陽奈としては有り難かったのだが、体重計の数字を見るのが悩みの種になっていた。


「ただいま」

「おかえり」

 陽奈は食卓の椅子に座ると、

「お祖父ちゃん、また独り言呟いてたよ」

 と、母親の背中に向かって言った。

「そう……」

 母親は特に気に留めた様子はなく、ケーキの上に鮮やかな色の苺を載せ続けている。

「あたしが小学生の頃から、お祖父ちゃんの独り言多かったけど、お祖母ちゃんが亡くなってから、一段と増えた気がする。――心配じゃないの?」

「大丈夫よ。ボケたわけじゃないんだから」

「あたしだって、別にお祖父ちゃんがボケたなんて思ってないわよ。ただ、独り言が増えたこと自体は、ちょっと心配。あたしはね、お祖母ちゃんからお祖父ちゃんのことを任されてるの。だから常に気を配っておかないといけないのよ」

 母親は苺を載せる手を止めて、陽奈に振り返った。

「任されてるって?」

「お祖母ちゃんが入院してる時に言われたのよ。『もし私が死んだら、お祖父ちゃんをお願いね』って」

「そうなの……私は何も言われなかったわよ」

「あたしの方が頼り甲斐があるからでしょ」

 そう言って陽奈は自慢げな笑みを浮かべた。

「そうかもね」

 母親は笑ってまた手を動かし始めた。

「まあ、独り言は多くなったかもしれないけど、お父さんは大丈夫よ。お母さんが亡くなった直後は私も心配するくらいの落ち込みようだったけど、今はまた前向きに生きていく顔になってるからね」

「うん、そうだね……。ねえ、お祖父ちゃんの独り言を聞いてると、よく耳にする名前が二つあるんだよね。ひとりはお祖母ちゃんで、もうひとりは真由美って名前。誰のことなんだろう?」

「真由美さんか……」

 母親は遠い目をしている。何かを思い出すような顔。

「誰? 知ってるの?」

「知ってるけど……」


 母親は言葉を切り、視線を陽奈の後ろに向けた。陽奈は振り返る。祖父が立っていた。今の会話を聞かれただろうか。陽奈は笑顔をつくった。


「ただいま、お祖父ちゃん」

「おお、陽奈、おかえり」

 祖父は笑顔でこちらに歩いてくる。その様子を見た限り、今の母親との会話は聞かれていないなと思った。

「これはまた、美味しそうなケーキを作ったな」

 舌なめずりをして、祖父は陽奈の隣に腰掛けた。

「お店で買ったら、千円以上しそう」

「ああ、そうだな。そのくらいしそうだ。――真哉しんやはまだ帰ってきてないのか?」

 どちらに訊ねるでもなく、祖父は言った。

「あの子、確か今日テストだったから、悪い点数でも取っちゃって帰りづらいのかもね」

 そう言って陽奈はケラケラと笑った。

「悪い点数取ったからって、この家じゃ誰も怒らんだろう」

「お母さんが怒るよ」

 祖父は首を傾げて、

「はて。テストの点数が悪かったからって、奈美は子供を怒れるような成績だったかな?」

 母親はバツが悪そうな顔になって、

「いいじゃない、昔のことは」

「えええぇ。お母さん、あたしには、自分は才女だったとか言ってたんだよ。だからあなたも頑張りなさいって」

「才女ねえ……」

 祖父は遠くを見つめるような目で、母親を見た。

「小学生の時は、その片鱗が見られたでしょう?」

「それならあたしだって成績良かったじゃん、昔は」

 祖父は笑いながら手を叩いて、

「まあ、嘘も方便だ。お母さんは、陽奈にもっと頑張ってほしいから、そういう風に言ったんだよ」

「そうそう。あなたのためを思って言ってるのよ」

 陽奈は大人の嫌らしさを全面に感じたが、敢えてそれ以上は何も言わなかった。


「よし、できた。――真哉は、きっと学校に残って遊んでるんでしょう。先にみんなで食べましょう」

 母親は、陽奈と祖父の前にケーキとオレンジジュースを出した。

「お父さんは、コーヒーにする?」

「いや、ジュースでいいよ。このケーキには、そっちの方が合いそうだ」

 祖父と母親は、最近の政治や芸能に関する話を始めた。陽奈は、ケーキを頬張りながら、隣に座る祖父のことを考えた。


 陽奈の名前は、祖父と祖母の名前から一文字ずつ取られて付けられている。母親のアイデアでそうしたらしかった。

 陽奈は昔から祖父母が好きだった。幼少の頃からずっと側にいたし、一緒にお風呂に入る回数や遊ぶ回数も両親より多かったと思う。をするとすぐに怒る母親よりも、いつもにこにこしている祖父母が親だったら良かったのになあと思ったことは一度や二度ではない。


 祖母は、精神科医として働いていたということもあってか、とても聞き上手だった。友達と喧嘩した時、好きな男子に振られた時、クラス対抗リレーで自分のミスが原因で負けてしまった時、そんな何かに落ち込んだ時は、いつも祖母に話を聞いてもらっていた。そしてその度に、祖母は陽奈の心を癒してくれたのだった。


 そんな大好きな祖母は、一年前に亡くなってしまった。

 妻を亡くした祖父は、この世の不幸を一身に背負ったかのような顔で過ごすようになった。

 その直後から、祖父の独り言を多く聞くようになった。陽奈自身も、何度も聞いていた。最近だと、『奈々子がこんなに早く死んだのは、俺のせいなのかな』とか『俺は十分に愛してあげられたんだろうか。どう思う?』とか『死んだらまた奈々子に会えるのかな。その時は俺と真由美と奈々子の三人で話し合いたいな』とか。


 思い返してみると、祖父の場合は独り言というよりも、誰かと会話しているようにも聞こえる。


 その祖父の独り言で、何度か耳にした真由美という人は誰なのだろう。母親は知っているみたいだけれども……。その女性は、祖父の誰かと会話をするような独り言と何か関係があるのだろうか。


「どうしたの、考え込んだ顔して? 味がおかしいの?」

 母親の言葉で、陽奈は思考を現実に引き戻される。

「ううん。美味しいよ。ちょっと、考え事をしてただけ」

「何の?」

「別にいいじゃん、何でも。あたしだって考え事くらいするわよ」

「奈美は、学校の通知表には集中力が足りないとよく書かれていたが、食事をする時はとても集中していた。考え事なんかせずに、一心に食べていた。奈美と陽奈は、そこが違うな」

 そう言って祖父は愉快そうに笑った。

 陽奈も笑いながら、

「お母さんのイメージがどんどん崩れていくなあ」

 母親は口を尖らせて、

「お父さんは面白おかしく話してるだけよ」

「そうなの、お祖父ちゃん?」

「いや、俺は事実しか言ってないぞ。脚色ゼロだ」

「お父さん、娘を苛めて楽しい?」

「苛めちゃいないさ」

「どっちの味方なのよ」

「そりゃあ、あたしの味方に決まってるじゃん。四十過ぎた娘とピチピチの十代の孫娘だよ。勝負にならないって。ね、お祖父ちゃん」

 祖父はチラリと母親の方を見たあと、陽奈に視線を向けて「そうだな」と言って笑った。母親は苦笑したままジュースを飲んでいた。


 ケーキを食べ終えると、陽奈は部屋で着替えてからリビングに戻った。祖父と母親は、祖母の話をしていた。一週間後が祖母の命日なので、それに関する話だった。


「お祖母ちゃん、天国で話し相手を見つけたかな?」

 と、陽奈は訊いてみた。

「そうだな……。たくさんできたと思うぞ。顔の良い男ばかりだと少し困るけどな」

「大丈夫だよ。お祖母ちゃんはお祖父ちゃん一筋だし。それは天国に行っても変わらないよ」

「陽奈がそう言うなら、安心だな」

「お祖母ちゃんは、人の話をじっと聞いてあげてるかもしれないね。心の悩みを持つ人の話とかをさ」

 祖父は首を傾げて、

「うぅん。天国には、悩み事を持つ人はいないんじゃないか?」

「そうかな? 愛しい人と離れ離れになって、寂しがっている人とか心残りで悩んでいる人はいるかも。あ、それはお祖母ちゃんも同じかもしれない……」

 祖父は寂しそうに笑って、

「俺が行って寂しさが消えるなら、すぐにでも行きたいがな……」

 母親がテーブルをコンコンと叩きながら、

「めったなこと言わないでよ、お父さん」

「そうだよ。言霊っていうでしょ。そんなこと言ったらダメ」

 祖父は肩身が狭そうな表情に変わって、

「ああ、すまない。今のは失言だった」

「こら、陽奈。あなたはお祖父ちゃんを注意できないでしょう。あなたが話を振ったんだから」

「ごめん。でも、あたしが言いたいのは、お祖父ちゃんが元気でいることが一番ってこと。お祖父ちゃんが悲しそうな顔で生活していたら、お祖母ちゃんもお空の上で安心できないでしょう」

「……ああ、そうだな。そのとおりだ」

「お祖父ちゃんにはまだまだ、あたしの成長を見てもらわないとね。お祖父ちゃん、あたしの子供、見てみたいでしょ?」

 陽奈の問い掛けに、祖父はぱっと明るい表情をつくった。

「ああ、そうだな。陽奈の子供を見てみたいな。でも、十四歳の陽奈が子供を産むまで、あと十五年くらいは掛かるだろう。俺は、大丈夫かな……」

「お祖父ちゃんなら大丈夫だよ。それに、あたしの予想では、もうちょっと早く結婚して子供産むと思う」

「何だ、陽奈は結婚願望が強いのか」

「うん。願望は強いよ。子供好きだし。って、まあ、今のところあたしの相手は影も形もないんだけどね」

「なあに、そのうち母さんみたいに良い男に出会えるさ。――なあ、奈美」

 母親は優しい笑みを浮かべて、そうね、と言った。


 それから母親は夕食の買い物に出掛けた。陽奈は祖父と一緒に、録画したドラマを観ていた。陽奈のお気に入りの恋愛ドラマだが、祖父も陽奈と同じくらい楽しそうに観ている。正直、男が観てもあまり楽しめる内容じゃないと思うのだが、好みは人それぞれだし、祖父は昔から比較的女性が好むものを観たり、聴いたり、使ったりしていた。だから陽奈とも話がよく合うのだった。


 ドラマが終わろうとする頃、弟の真哉が帰ってきた。母親が言っていたとおり、友達と学校で遊んでいただけのようだった。弟は陽奈より五歳下の小学三年生だ。昔はどこに行くにも付いてきていたのに、今では憎まれ口しか叩かなくなった。


 午後七時を過ぎた頃、父親が帰ってくる。陽奈の父親は、祖父が昔勤めていた会社の部下で、何度か家に呼んでいるうちに、互いに想いを寄せるようになっていったらしい。祖父が恋のキューピッド役ということになる。


 夕食は、母親得意のクリームシチューだった。祖母も元気だった頃は、よく母親と一緒に料理を作っていた。このクリームシチューも含めて、母親が作るほとんどの料理が、祖母直伝のものだと聞いている。


 祖父は、このクリームシチューをとても好んでいた。何でも、祖母に初めて作ってもらった料理だとかで、今でもその時の味を覚えているという。その話を聞いてからというもの、陽奈もクリームシチューを食べる時は感慨深くなるのだった。


「お祖母ちゃんの命日って、何かするの?」

 何の脈絡もなく、真哉がそう口にした。

「何よ、いきなり」

 と、母親。

「亡くなって最初の命日でしょ。だから何かするのかなって」

「お墓と周りを綺麗にして、お母さんの好きな花を添えて、私たちの近況報告をするくらいよ。お母さんは、それで十分だって言ってくれるわ」

「お祖母ちゃんに、真哉がバカなことばっかりやってるって教えないとね」

 と言って陽奈はケラケラと笑う。

「うるせえよ。お祖母ちゃんから見たら、姉貴の方が出来が悪くて心配だろう」

「出来が悪いのはそっちだ、バカ」

「バカはそっちだろう。俺の今日のテストの点数知らないのかよ。姉貴はこの前のテスト、ボロボロだっただろうが」

「小学校のテストと中学校のテストの難易度を一緒にするな」

「はあ? 俺は小学生なんだから、小学校のテストで釣り合いがとれてるだろ」

「やめなさい。何であんたたちは喧嘩ばっかりするの」

 母親は眉間に皺を寄せて溜息を吐いている。

「奈美は、このふたりを注意できないんじゃないか。昔の奈美と理人そっくりだもんな」

 と、祖父は愉快そうに言った。

 理人という人は、陽奈の伯父だ。以前、陽奈と真哉が口喧嘩しているのを見た祖父は言った。陽奈の母親と伯父も同じような感じでやり合っていたと。

 その言葉はズバリ的中したようで、母親は陽奈たちから視線を逸らしていた。




 夕食を食べ終えると、弟、陽奈の順番でお風呂に入った。浴室を出たあと、陽奈はお風呂の順番が回ったことを知らせるため、祖父の部屋へと行く。


 ドアの前で、陽奈は足を止めた。

 また、部屋の中から祖父の声が聞こえてきた。いつもは、部屋の前までくると話し声も止むのだが、今日は足音に気づかないのか、話し声は止まなかった。ノックしようとしたが、何となく独り言を聞きたい気持ちになり、陽奈はドアに耳を近づけた。


「本当に天国があって、神様がいるのなら、奈々子は全てを知ったのかな」

「最近、そんなことをよく考えるんだ」

「また、苦しめてしまうことにならなければいいが」

「それは、真由美から言ってくれた方が伝わると思うけどな」

「ああ。そうだな。そうするよ」

「最後に、奈々子が笑顔を向けてくれた時、俺は救われた気がする」

「奈々子は、生まれながらにして、人の心を救う資質があったんだろうな」

「俺はつくづく幸せ者だよ。みんなに助けられてる。最近は特に、陽奈に助けてもらってるな」

「うん。頑張って生きて、陽奈の子供の顔を見ないといけないな。俺の年齢を考えると、早めに産んでもらうと助かるけど、こればっかりはな……」


 陽奈はドアをノックした。少し強めに。

 祖父の返事が聞こえ、やがてドアが開いた。


「お祖父ちゃん、あたしも真哉もお風呂入ったから、今からどうぞ。お湯、熱々にしといたからさ」

「ああ、ありがとう」

 祖父は部屋の隅に置いてある桐箪笥まで歩いて行き、中からバスタオルや下着を取り出した。陽奈は、部屋の中に顔だけを入れ、室内を見回した。もちろん、そこには誰もいない。

 祖父は部屋を出て、浴室の方に歩いて行く。

 その後ろ姿を見た時、陽奈は無意識に声を掛けていた。

「お祖父ちゃん」

 祖父は振り返る。

「ん、どうした?」


 真由美って誰?

 そんな思いが、喉までせり上がってくる。

 誰と話しているの? 本当にただの独り言なの?


「お祖父ちゃん……」

「ん?」


 訊きたいことはたくさんあった。

 でも、何となく、訊かない方がいいような気がした。世の中には、知らなくていいこともある。訊いてしまうことで、もしかしたら、祖父の心の中に土足で入っていくことになるかもしれない。祖父は元気で、いつも夕方には娘の作ったケーキを孫娘と食べながらお喋りをする。受け答えに変なところはない。祖父の独り言が誰かに迷惑を掛けているわけでもない。だから、別に今のままでいいかと陽奈は思った。


「今度さ、どこかに連れて行ってよ」

 と、陽奈は言った。

「ああ、いいけど……どこに?」

「どこでもいいよ。遊べるところなら」

「そうか……わかった。じゃあ、場所を考えとくよ。――真哉も一緒に?」

「あいつは……そうね、真哉も一緒に」

 祖父は頷く。陽奈も頷き、踵を返そうとしたが、再び祖父に顔を向けた。

「ねえ、お祖父ちゃん。あたし、二十歳くらいで子供産んだ方がいいかな?」

 祖父は一驚を喫した顔になる。舌で唇を舐めたあと、

「いやいや、二十歳は早すぎるんじゃないか。いや、別に、早く産んだ人たちのことをどうこう言うわけじゃないが……産むのは、お母さんと同じくらいの年齢でいいんじゃないか?」

「そうだね。じゃあ、あと十二年か。待てる?」

「ああ、楽しみに待ってるよ」

「約束だよ」

「ああ、約束だ」

「よし。じゃあ、ゆっくり温まってね」

 祖父は頭を掻きながら脱衣所へと消えていく。表情は確認できなかったが、きっと祖父は笑っていた。

 陽奈の中に、安堵感がじわりと広がっていく。

「おやすみ、お祖父ちゃん」

 ドアの向こうにいる祖父に言葉を掛け、陽奈は階段を上がっていった。



                                     ――ヴォイス–最愛の人の声が聞こえる– 完――

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ヴォイス―最愛の人の声が聞こえる― YあおばY @kumamoto777

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