最終話 ふたりの物語

 白い壁が見えた。一ミリの染みもない真っ白な壁。三十秒ほど見つめていると、それは壁ではなく天井だということがわかった。自宅のどの部屋の天井とも違う。どうやら自宅以外の場所で眠ったようだが……ここはどうこだろう……。


 光陽みつひろは上体を起こして辺りを見回した。

 近くに誰かが立っていた。

 白衣を着ている女性。看護師のようだ。

 機器を操作していた看護師は、光陽に気づき振り向く。視線が合うと、驚いた顔になって話し掛けてきた。


「沢村さん、わかりますか?」

 光陽は頷いて、わかります、と返事をしたが、声はくぐもっていた。

 何かが口に填められている。

 見ると、酸素マスクだった。

「今、先生を呼びます」

 看護師は枕元に付いていたボタンを押した。

 一分ほどして医師がやってくる。

 医師は光陽に質問をしながら、瞳孔を見たり脈拍を調べたりする。そのやりとりの中で光陽が理解したのは、駅で通り魔に襲われたこと。この部屋が集中治療室であること。そして三日間昏睡状態だったということ。


 腹部の刺し傷も両腕の傷も深いが、頭部に異常はなく、峠は越したと医師は判断を下した。


 医師と入れ替わりに、奈々子が部屋に入ってきた。光陽に駆け寄り、抱き着く。

「良かった……本当に良かった」

 震える奈々子の目からは、涙が零れ落ちている。

「心配を掛けたな」

 光陽は奈々子の背中を擦り続ける。

「神様、本当にありがとうございます」

 奈々子は光陽を抱き締め続けた。




 昼になると、理人と奈美がやってきた。

 理人は安堵の表情で言葉を掛け、奈美は顔をぐしゃぐしゃにして光陽に抱きついてきた。娘に抱きつかれるなんて何年ぶりだろう、などと思いながら光陽は愛娘の頭を撫でた。

「父さんが助かって、そんなに喜んでくれるのか」

「当たり前じゃない! 何言ってるのよ!」

 奈美は父親を睨んだ。

「朝も昼も夜も心配で、食べ物も喉を通らなかったんだから!」

 言われてみれば、確かに奈美の頬はこけていた。

「ごめん。ほんとに心配を掛けたな。でも、もう大丈夫だ。今日からは、ちゃんとご飯を食べてくれよ」

「食べろって言っても、水しか飲まなかったもんな」

 と、理人。

「あたしはお兄ちゃんみたいに神経太くないもん」

「俺は助かると信じてたから食べてたんだよ。父さんが目を覚ました時に、俺たちが体調崩してたら本末転倒だろう」

「あたしは、お父さんがもう二度と目覚めない気がしたから、それどころじゃなかったのよ」

「バカ。こういう時は回復を信じるのが普通だろう」

「だから、あたしは神経が細いのよ」

「嘘吐け。どう見ても図太いだろう」

「ああっ、もう、うるさいなあ」

「ふたりともやめなさい。こんなところまできてあなたたちは、もう……」

 奈々子は心底呆れた表情になっている。

 光陽は苦笑して、

「まあ、いいじゃないか。思いはどうであれ、ふたりとも心配してくれてたんだ。奈美、あとで何か食べてきなさい。せっかくの美人が台無しだぞ」

「あたし、そんなひどい顔になってる?」

 奈美は、光陽から身体を離すと、自分の顔を手で触った。

「なあに、たくさん食べてぐっすりと眠れば、すぐに美人の復活さ」


 光陽の中に安堵感が広がっていく。

 この子たちの笑顔がまた見られて良かったと、心の底から思った。


「元の生活に戻れるんだよね。お兄ちゃんはいなくなるけど」

「寂しいなら、もう少し残ってやろうか?」

「いいよ。寂しくないからとっとと行って」

「はいはい、そうですか」

「元の生活か……」

 兄妹のやりとりを横目で見ながら、光陽は呟くように言った。

「どうしたんですか?」

 と、奈々子。

「いや、何でもない……」

「あ、そうだ、お父さん。テレビやネットで、お父さんはヒーローになってるんだよ」

 奈美が手を叩きながら言う。

「俺がヒーロー?」

「お父さんが子供を助けた時の一部始終が、防犯カメラに映ってたの。自分を犠牲にしてまで子供を逃がす姿がテレビやネットで流れて、お父さんは凄い人気になってるのよ。外国でも大きく報道されたんだよ」

 光陽は、あの時の子供を思い出す。

「あの男の子、助かったんだよな?」

「ええ。無事にご両親のところへ戻りました」

 と、奈々子が言った。

「その男の子のご両親が、あなたが回復したらお見舞いにきたいと言ってくれました。そしてできる限りのお礼をしたいと。あとで意識が回復したことを連絡しますね」

「ああ。俺もあの男の子に会いたいから、よろしく頼むよ」

「それでね、お父さん。あたしの友達が――」

 それからしばらくのあいだ、光陽が世間でどのように扱われているか、奈美は詳細に話し続けた。




 時刻は午後三時。光陽はひとりで屋上に出ていた。青空はどこまでも透き通っていて、微風が心地良かった。

 近くに人はいない。光陽は鉄柵を掴み、空を仰ぎ見た。


「綺麗な青空だなぁ。最近、こんな風にじっと空を見上げることなんてなかったな」

 光陽は大きく息を吸い込み、思いを伝える。

「はっきりと覚えてるよ。ずっと存在を隠し続けようとするつもりが、あんなことになって……すごく勇気が要ったと思う。助けてくれてありがとう、真由美」


 しばし待ったが、応答はなかった。

 光陽はポケットから手鏡を取り出すと、昔そうしていたように、鏡の中の自分の目をじっと見つめた。


「いないわけ、ないんだ。あの時聞いた声は、夢や幻じゃない。感じるんだ。俺の中にいる真由美を。もう、存在を隠す必要はないよ。もう、いいじゃないか。これからは、新しい道を歩いていこう。別に奈々子を裏切るわけじゃない。俺は奈々子を愛している。死ぬまで、その気持ちは変わらない。今までどおりの生活を続けていく。ただ、その生活の中に、他の人には見えない真由美が入ってくるだけだ。傍目からは何も変わらない。誰にも迷惑は掛からない。そうだろう? だから、声を聞かせてくれ」


 長い時間待ったが、応答はなかった。


「あの時聞こえてきた真由美の声は幻聴だったと、そんな風に自分を誤魔化して生きていけるわけないだろう。それは拷問と同じだよ。真由美が消えてしまったあの日からずっと、胸に穴が開いていたんだ。誰にも埋めることのできない穴。一生埋まらないと思っていたけど、もう一度真由美が出てきてくれたら、完全に塞がると思うんだ。俺にも幸せになってほしいって言ってくれたよな。このまま真由美が出てきてくれなかったら、胸の穴はもっと大きくなって喪失感に包まれて生きていくことになる。そんな俺の姿は、望んでいないはずだ。頼む。声を、聞かせてほしい……」


 あなた、と声がした。振り返ると、奈々子が立っていた。光陽はそっと手鏡を仕舞った。


「こんなところにいたんですか。探しましたよ」

「ああ、すまない」

「何をしていたんですか?」

「ちょっと、空気を吸いにな。昔から病院の、あの薬品の匂いは苦手なんだ」

 奈々子は納得したように頷いた。

「ちょっと顔色が優れないみたいですけど、大丈夫ですか?」

「ああ、何ともないよ。大丈夫だ」

「さあ、もう戻りましょう。何もかも忘れて、ゆっくり寝ていてください」

 何もかも忘れて、か……。


 何でこんなことに。

 本当はあったのだろうか。

 真由美の魂を元に戻す方法が。

 たぶん、どんなことをしても、戻らなかったような気がする。

 それは自己弁護だろうか。

 続いていく。

 彼の鼓動が鳴り続ける限り、ふたりの物語に終わりは訪れない。

 みんなが幸せになれる道は、どこにもない。

 それならせめて、一番納得のできる形で残りの人生を送りたい。


「奈々子」

「何ですか?」

「実はな、倒れ込んでもうダメかなと思った時、声が聞こえてきたんだ」

「声、ですか?」

「ああ。お姉さんの……真由美の声が」

「姉の声が……」

「ただ声が聞こえてきただけじゃなくて、色々と指示を出してくれたんだ。映像を見たと思うけど、とっさにリュックで防御できたのも、真由美の声に従った結果なんだよ。もし声が聞こえていなければ、俺は殺されていた」


 光陽の話に対して、奈々子は顔色を変えなかった。むしろ、微笑みを浮かべていた。


「きっと姉は、ずっとあなたを見守ってくれているんですよ。今、この瞬間も。私、ずっと言いませんでしたけど、姉が近くにいるような気がしていたんです。今も、そう感じています」

「今、ここで話すべきことではないと思うけど……」

 光陽は一度言葉を切り、思いを纏める。

「俺は、今も真由美のことが忘れられない。でもそれは決して、奈々子と真由美を比べてどうとかって話ではないんだ。俺は、ふたりを比べたことは、一度もない」

「わかってます。姉のことが忘れられないのは、悪いことじゃありません。あの時、あなたに想いを伝えた時から、そうなるとわかっていましたから。私があなたの立場になっても、同じですよ。大切な人を、あんな形で失って、忘れられるわけがありません。姉を忘れられないと言ってくれて、私は嬉しいです」

 奈々子は、一切の混じり気がない微笑みを浮かべた。


 光陽は深い息を吐いて、

「一つ、誤解しないでほしいのは、俺が奈々子と結婚した理由に真由美は関係ないってことだ。ずっと側にいてほしいと思ったから、プロポーズしたんだよ。俺は今も真由美を忘れられないけど、世界で一番愛しているのは奈々子だ」

「そこまで言ってもらえたら、私はもう何も要りません」

「……なあ、奈々子」

「はい」

「すごく変な話だけど、もし、もう一度だけ真由美と話せるとしたら、何か言いたいことはあるか? 訊きたいことでもいいけど」

「もう一度、ですか……」

 奈々子は青空を見上げた。

「そうですね……話したいことはたくさんありますけど……何か一つだけという条件つきなら、生まれ変わってもまた私を妹にしてくれるかどうか、その答えを聞きたいですね」

「そんなの、答えを聞くまでもないだろう」

 奈々子は首を横に振った。

「わからないですよ。子供の頃は、かなり迷惑を掛けましたから。もうたくさんって思っているかもしれません……」


 そんなわけないじゃないか。言葉を返そうとして口をつぐむ。

 そんなわけないけど……。


「確かに、俺はふたりの幼い頃を知らないからな。真由美はうんざりしていたのかもしれない」

 奈々子は、彼のその言葉に少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。寂しそうな笑みを浮かべて。

「そうです……。本人に聞かないと、わからないことはたくさんありますから」

「そう言えば昔、そんな話を真由美から聞いたような気がするな」

「……姉が、私にうんざりしているって話ですか?」

「うーん……どうだったかな……真由美が、奈々子に対して、ネガティブなことを言ってたような……」

「そうですか……。じゃあ、やっぱり、ちょっとうとまれていたんですかね……」


 奈々子がそう言った時、頭の中に声が響いた。

 その声は、少し怒っていた。

 その声は、少し戸惑っていた。

 その声は、少し悲しそうにしていた。

 その声は、未来を語った。

 その声を聞いていると、彼の心はいだ海のように落ち着いた。


 奈々子は光陽の腕を掴む。

「さあ、奈美たちが心配しますから、戻りましょう」

 一歩足を踏み出した時、光陽は口を開いた。

「ああ、間違った」

「間違った? 何をですか?」

「真由美が奈々子に対してネガティブなことを言ってたかもしれないって話。あれ、別の姉妹の話だった。昔部下だった女子社員が、よく妹の愚痴を零してたんだよ。貸した服や化粧品が返ってこないとかなんとかそんな話を。その子とごっちゃになってたんだな。そんな他人の話を、真由美が言っていたかもしれないなんて思うとは……頭は打ってないはずなんだけどな」

 光陽は頭を撫でた。

「それに、今思い出したけど、真由美は言ってたよ。生まれ変わっても、また奈々子と姉妹になりたいって」

 奈々子は明るい表情になって、

「ほんとですか?」

「俺は奈々子に嘘を吐いたことは一度もない」

「わかりました。その言葉を信用することにします。――さあ、戻りましょう」

「ああ」

 光陽は奈々子の手を優しく握り、歩き始めた。


 


 愛し合った人の笑顔が、脳裏に浮かんでいる。楽しかった思い出が、いくつも浮かんできていた。愛した人の顔も思い出も、薄れることなく輝くままに残っていた。


 悲しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだった。けれどあの日、大切な人を失ってから決して埋まることのなかった胸の穴は、いつの間にか塞がっていた。

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