第三十四話 ずっと

 死を覚悟したのは、人生で二度目だった。

 あの森の中で首を吊った時以来、光陽みつひろの脳裏には≪死≫がはっきりと浮かんでいた。


 男が、光陽の顔に向けて、刃物を振り下ろす動作に入った。

 奈々子、理人、奈美の顔がフラッシュバックする。

 三人とも、すまない。

 諦めた瞬間、リュックを持って防御して! と声が響いた。


 肉体に甚大な損傷を受け、もう上がらないと思った両腕だったが、まるで呪縛から解き放たれたかのように、光陽は足元に転がっていたリュックを掴み頭上に持ち上げていた。


 鈍い音を立てて、刃物がリュックに突き刺さった。

 直後、リュックを左右に振って! とまた声が聞こえてきた。


 光陽は言葉を理解するよりも早く、リュックを持った両腕を左右に振っていた。何度も、何度も。動かす度に、刺された腹部と切られた腕が悲鳴を上げたが、力の限りに両腕を動かし続けた。


 男が体勢を崩した。刃物を握っていた手が離れた。

 その瞬間、三度みたび、声が聞こえた。


 今よ! 逃げて!

「……えっ」


 今度は、光陽は言葉のとおりに動かなかった。

 いや、動けなかった。

 その声に、聞き覚えがあったから。


 極限状態だったから、気づくのが遅れたが、先ほどから聞こえてきている女性の声、確かに聞いたことがある。


 奈々子の顔が頭に浮かんできた。

 奈々子?

 いや、奈々子の声に似ているが、違う。声が若すぎる。今の奈々子の声ではない。

 次いで、光陽の脳裏に浮かんできたのは、真由美だった。


 まさか……そんな……。


 そんなこと、あるわけがない。あってはいけない。真由美は、二十六年前のあの日、逝ってしまったのだ。彼を残して、向こう側に行ってしまったのだ。この身体の中に、いるはずがない。


 男が、リュックから刃物を引っこ抜いた。目は真っ赤に染まり、涎をまき散らし、言葉になっていない何かを叫びながら光陽に歩み寄る。


 ――光陽! 早く逃げて!

 頭に響く声をはっきりと認識した時、光陽の中で天地がひっくり返った。

 この、頭の中に直接言葉が響く感覚……。

 長い年月忘れていた感覚が蘇った。

 痛みよりも、恐怖心よりも、驚愕の感情が上回った。


「嘘だ……嘘だ……嘘だ……」


 光陽は混乱する。目には狂乱の男が映っているのに、脳裏には真由美の顔が浮かんでいた。


 男が、光陽の心臓に向かって、刃物を振り下ろす。

 ――光陽!


 次の瞬間、男の身体は横に吹っ飛んでいた。


 男を突き飛ばしたのは駅員だった。体格のいい二人の駅員が、男を取り押さえようとしている。

 仰向けに転んだ男は、必死に抵抗していたが、二人の駅員が上半身と下半身を押さえ込むと、観念したかのようにぴくりとも動かなくなった。


 それを見届けた光陽の身体は、ゆっくりと床に倒れた。起き上がろうとしても、全く力が入らない。次第に手足の感覚もなくなっていく。瞼が、ゆっくりと閉じていく。

 暗闇の中で、声が聞こえてきた。




 ――光陽。大丈夫? しっかりして!

「真由美……本当に真由美なのか?」

 ――もうすぐ救急車がくるわ! それまで気をしっかり持って。

「真由美、いるのか……俺の中に、いるのか……」

 ――ええ。私はあなたの中にいる。


 そんな……。


「ずっと、いたのか……二十六年間、ひとりで……」

 ――ええ。ずっといたわ。


 なぜ……。


「嘘だったのか、光の話は……」

 ――ごめんなさい。

「俺や奈々子に気を遣ったからか……だから……嘘を……」

 ――はい。


 ずっとひとりで……。


 この二十六年間の出来事が、走馬灯のように駆け巡る。その中のどこにも真由美はいなかったが、彼の心の中には存在していた。

 彼が誰かと笑い合っている時も。

 彼が誰かと喜び合っている時も。

 彼が奈々子だけを見るようになってからも、ずっと彼の中にいたのだ。ひとりで……ずっと……。


「辛かっただろう……」

 真由美は答えない。

「二十六年間も孤独にじっと耐えて、苦しかっただろう……」

 真由美は答えてくれない。

「気づいてあげられなくて、ごめん……」

 ――謝らないで。あなたは何も悪いことはしてないんだから。

「俺は……俺は真由美を愛していた」

 ――あなたが今愛しているのは、奈々子よ。

「光の話が嘘だと知っていたら……俺は誰とも結婚しなかった……。真由美が心の中にいると知っていたら、俺は他の人を愛さなかった……」

 ――あなたは、奈々子を幸せにしてくれた。だけど、それは私のためではなく、あなたが奈々子を愛したからよ。そして奈々子もあなたを愛した。その結果、ふたりの可愛い子供が生まれてきた。

「それは、結果論じゃないか……。真由美が俺と生きることを決めてくれていれば、別の道を歩いていた……。心のどこかでは、納得していたところもあるんだ。俺の中に閉じ込められて一生を過ごすよりは、光の向こうへ行った方が楽だろうなと。でも、実際は違った。存在を消して、ずっと俺の中にいた。真由美が、ひとりで背負う必要は、どこにもなかった。俺が死ぬまでこの状況から解放されないというだけで、それだけでもう他の人間の数十倍、数百倍の苦しみを背負わされているのに……それ以上重荷を背負う必要はなかったのに……どんなことがあっても、俺はずっと真由美の側にいたのに……」

 ――あなたは、奈々子を愛していないの?


 俺が愛していたのは……。

 俺が愛しているのは……。


「奈々子を愛してるよ。でも……」

 ――今、あなたは誰よりも奈々子を愛している。それ以外の感情、想いは、必要ないはずよ。

「そんなの、無理だ。そんな風に割り切れるのは、機械のような冷たい心を持った人間だけだ。逆の立場だったら、真由美だって、自分の決断に賛成も納得もしなかったはずだ……」

 ――そうね。きっと賛成しなかったわ。そして私があなたに言っていたでしょうね。ふたりで生きていこうって。

「じゃあ、何で……」

 ――あなたを愛しているからよ。奈々子だけじゃなく、私はあなたにも幸せになってほしかった。

「真由美とふたりなら、耐えられた。どんなに進むのが困難な道でも、ふたりならやっていけたんだ……」

 ――私はそれを望んでいなかった。

「望んでいなかったというなら、俺だって、真由美を苦しめてまで生きようなんて、一ミリだって望んでいなかったよ……」

 ――でも、「選択権」は私にもあるはずでしょう。

「それは……」

 ――この二十六年間、苦しくなかったって言ったら嘘になるけど、あなたの中にいて楽しいこともたくさんあったのよ。理人や奈美の成長を見ているのも楽しかったし、線の細かった奈々子が、段々強いお母さんになるところを見ているのも楽しかった。そしてあなたが、みんなに頼られる素敵なお父さんになる過程を見るのも楽しかった。私は決して光のない世界に存在していたわけじゃないの。

「それが本当だったとしても、辛くて苦しいことの方が多かっただろう……」

 ――永遠に続くわけではないわ。いつか、解放される。そう思えば、耐えられるものよ。ねえ、昨日、奈美があなたに言った言葉を覚えてる?

「奈美の、言葉……」

 ――『もしお父さんが真由美さんと結婚していたら、あたしとお兄ちゃんは生まれてこなかったんだよね』って言葉。私にもあなたにも、正解の選択肢はなかった。だけど、より幸せが多く見つけられる道はあった。それが今あなたが進んでいる道なの。奈美の言葉が、その答えよ。


 確かに、光陽と真由美のふたりが幸せになれる道は存在していなかった。真由美の肉体が消滅した時に、その道は崩れ去ってしまった。


 真実を聞いた光陽の頭に浮かんできたのは、これからのことだった。これから、真由美はどうなるのだろう。


「もし、俺がここで助かって、あと二十年も三十年も生き続けたら、真由美はまた長い時間、孤独と苦しみに耐えなければならなくなる。でも、俺がここで死ねば……」

 ――ダメ。私のことは気にしないで。あなたは、自分と奈々子たちのことだけを考えて。

「そんなの、無理だ。もし生き残ったら、真由美のことばかり考えるよ。寝ても覚めても、真由美のことばかり……」


 このまま生きることと死ぬこと、どちらが正しいのか、光陽にはわからなかった。どちらも正しい気がしたし、どちらも間違っているような気がした。正解なんて、あるのだろうか。


 ――奈々子も理人も奈美も、あなたが亡くなったら悲しむ。あなたはまだ生きて三人を愛してあげないといけない。そしてあなたももっと愛してもらわないと。

「子供たちは、もう俺がいなくても大丈夫なくらい、逞しく育ったよ。知ってるだろう」

 ――そうね。確かにふたりともしっかりしてると思う。でも、奈々子はどうするの。ずっとひとりで生きていかせるの? 二十年も三十年も、孤独を背負わせるの?


 奈々子……。


 ――こういう言い方は卑怯だと思うけど、まだ私のことを想ってくれているのなら、奈々子の元に帰ってあげて。愛する人の元に。


 俺が愛しているのは……。


 ――あなたが愛しているのは、奈々子。私じゃない。


 意識が遠退いていく……。


 ――目覚めたら、あなたはこのことを忘れている。これは夢よ。あなたがこれまでに何千何万と見てきた夢と同じ。決して現実ではない。あなたは、いつも夢の内容を覚えていないから、目覚めると同時に、このことも忘れている。目覚めたら、あなたの大切な人たちが現れる。でもそこに私はいない。私はもう、死んだの。

「真由美……」

 ――もう一度あなたと話せて嬉しかった。これでまた耐えられるわ。今度こそ、本当にさようなら。

 何か言葉を返そうと思った。

 だが、そこで意識は途切れた。

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