第三十三話 恐怖

 勤続三十六年になる。今では、光陽みつひろは部長になっていた。しかし、同期入社で代表取締役と副社長になった者がいるので、出世争いでは負けたことになる。

 ただ、言い訳をさせてもらえば、光陽は部下たちと一緒に現場で働く方が性に合っていた。

 時代は変わった。彼が若かった頃とは、何もかもが違う。

 けれども、子供を楽しませる、子供の役に立つ物を作るという社の理念は変わらない。その思いは光陽も同じ。だから今もここで働いている。


 長い時間、モニター上で作業をしていた光陽は、ふと時計に目を向けた。

 午後六時三十分。

 光陽はモニターの電源を切ると、大きく伸びをしてから、帰り支度を始めた。

 前方にデスクを並べている複数の部下たちは、まだ仕事をしていた。

「それ、急ぎの仕事か?」

「いえ、違います」

「じゃあ、もう終わりにしたらどうだ。月曜日に遅くまで仕事をすると疲れるだろう。遅くまで頑張るのは、他の曜日でいい」

 光陽がそう言うと、部下たちは笑って次々とモニターの電源を落としていく。光陽は帰りの挨拶をして、一足先にオフィスを出た。


 いつもは車で通勤しているのだが、今日は月に一度の「ノー・カー・デー」なので、地下鉄まで歩いて電車に乗った。

 光陽はドア近くのシートに腰掛け、上部に設置してあるモニターを眺めた。ちょうど夜のニュースを放送しているところだった。

 政治に関するニュースが終わったあと、アナウンサーは一昨日の事故の続報を伝え始めた。逆走してきた車を避けた四駆が横転して、助手席に乗っていた女性が意識不明の重体になった事故。逆走していた車の運転手は逮捕され、女性の意識は戻ったということだった。


 その女性と全く面識のない人間で、最も安堵したのは光陽だっただろう。自分のことのように嬉しく感じられた。これで万が一にも、光陽たちが経験した悲劇に見舞われることはなくなった。

 もしかしたら、女性の顔には傷が付いたかもしれないが、医療技術は三十年前とは比べ物にならないくらいに進歩している。仮に裂傷を負っていても、完璧に治せるだろう。

 一番大事なのは、命が助かったということ。

 そう、生きてさえいれば、何とかなるのだ……。


 今、改めて思う。

 あの時、命を棄てなくて良かったと。人生を放棄しなかったから、理人と奈美が生まれてきてくれた。何もない無の状態から、自分と自分の愛する人の子供が誕生する。これは、とても素晴らしいことだ。


 昨日、奈美が言っていた言葉を思い出す。

 もし真由美と結婚していたら、理人も奈美も生まれてこなかった。

 もし真由美と結婚していたら、どんな子供が生まれてきたのだろう。

 ふとそんな思いが過ぎった。

 そんなことを考えるのは不純だろうか。

 真由美と結婚していても、今とそれほど変わらない日常を送っていたと思う。笑顔の絶えない家庭で、子供が高熱を出したら、あたふたしている夫を尻目に、奈々子と同じように真由美は冷静に対処していただろう。生まれてくる子供も、きっと理人や奈美のように、思い遣りのある人間に成長していたはずだ。


 瞼を閉じる。

 真由美を失った悲しみは薄れていっても、記憶の箱を刺激すれば、彼女の顔は鮮明に浮かんでくる。

 笑顔。

 驚いた顔。

 頬を膨らませている顔。

 眩しそうに目を細める顔。

 考え事をしている時の顔。

 彼を見つめて好きと言ってくれた時の顔。

 そんな様々な表情を、これだけ長い年月が経っていても、即座に思い出すことができた。

 真由美が消えてから彼が最も愛した女性は、奈々子だ。揺るがない事実。だがそれ以前は、彼は誰よりも真由美を愛していた。偽りのない真実。

 これからも、こうやって続いていくのだろうなと思った。奈々子を愛し続け、そして時々、奈々子と同じくらい愛した人を思い出す。


 電車が自宅近くの駅に停まった。光陽は目を開けて電車を降りる。二歩、三歩と歩き始めた……その時だった。


「きゃあああっ」

 女性の悲鳴が響き渡った。

 光陽は振り返る。


 最初に光陽の目に飛び込んできたのは、変な動きをする男の姿だった。下手なダンス、あるいは酔っぱらいのようにも見えた。


 違った。

 男は右手に刃物を持っていた。

 通り魔だ。

 一気に緊張が高まり、心臓の鼓動は限界にまで高鳴った。

 男の近くに、尻もちをついた格好の二人がいた。

 一人は四十代くらいの女性。もう一人は、小学生くらいの子供だった。刺されて倒れているのか、それとも恐怖のあまり座り込んでいるのか、光陽の立ち位置からは判断できない。


 刃物を振り回している男は、標的を絞っている風ではなく、視界の中で動くもの全てに対して切り掛かっているような感じだった。だから背後にいる二人は襲わず、逃げ惑う人たちに向かって刃物を突き出し続けている。


 その隙をついて、倒れていた女性は立ち上がって逃げていく。やはり切られていたようで、押さえている片方の腕からは血が滴り落ちていた。

 もう一人の子供の方は、立ち上がる素振りを見せず、その場に留まったままだった。


「逃げろ!」

 光陽は子供に向かって叫んだ。

 しかしパニックになっている人々の悲鳴に搔き消されて声は届いていないようだった。

 光陽は、もう一度、声の限りに叫んだ。

「そこのきみ! 立って逃げるんだ!」

 子供が振り返った。

 光陽と視線が合う。

 男の子は、ぶるぶると震えながら、首を横に振った。立てない。その顔はそう言っていた。


 考えるより早く光陽は走り出していた。

 男と子供の距離は、十メートルくらいしか離れていないが、男は反対側を向いて暴れている。大丈夫だ。いける。子供を抱えてこちら側に走り続ければ、ふらふらしているあの男の足では追いつけないはずだ。体力が衰えている今の光陽でも、それだけの力は残されている。


 そんな光陽の予測を嘲笑うかのように、子供に手が届くところまできた時、唐突に男は振り返った。


 光陽と男の目が合う。

 まるで操り人形のように、どちらも動きがぴたりと止まった。

 男の血走った目は、正常な人間のソレではなかった。話が通じる相手ではない。一目瞭然だった。


 どうする?

 どうするのが最善だ?

 ほとんど一瞬のあいだに光陽は自問し、そして答えを出した。


 光陽は体勢を沈め、子供を抱きかかえると、そのままやってきた方向へ走り出そうとした。

 その時点では、男は僅かばかりも動かなかった。

 だからいけると思った。

 しかし男に背を向けた瞬間、強い衝撃を受けて、光陽は子供を抱えたまま倒れ込んだ。

 うつ伏せの状態で振り返ると、男がこちらに向かって肩を突き出していた。どうやら体当たりされたようだ。


 男は呪文のような言葉をぶつぶつと呟いていたが、右手に持った刃物は下ろしたままだった。

 光陽の視線が、傍らに落ちているリュックに向けられる。男の子が背負っていたリュック。厚みがあって、重さもそこそこあるように見えた。

 再び男に視線を合わせる。

 男はぎらつく目で光陽たちを睨んでいる。刃物を持った手はまだ動かない。

 子供だけなら、まだ逃がせる。

 そう判断した光陽は、男の子の耳元で囁く。

「おじさんが、あの男にリュックを投げつけるから、その瞬間に逃げなさい」

 先ほどは首を横に振った男の子だったが、今度はこくりと頷いた。

 涙を流し、震えてはいたが、その目を見て大丈夫だと思った。この子なら、走って逃げられる。


 男が意味不明な言葉を発しながら、光陽に一歩近づき刃物を振り上げた。

 光陽はリュックを両手で掴み、男に向かって思い切り投げつけた。

 リュックが胸に当たると、男は奇声を上げて一歩後ずさった。


「今だ! 逃げなさい!」

 

 男の子は素早く立ち上がって走り出した。その先にいる大人たちが早くこいと手招きしている。

 よし、あの子は助かる。

 続いて光陽も立ち上がり、逃げようとした。


「ぐあぁっ」

 背中に激しい痛みが走り、光陽は前のめりに倒れた。背中を切られたんだ。そう思いながら振り返ると、男は刃物で切り掛かる動作に入っていた。光陽はとっさに両腕を上げた。


 その両腕目掛けて、刃物が鋭く振り下ろされた。背中に感じた以上の激痛が両腕を襲う。あまりの痛みに腕を下ろすと、袖の中から血が流れ出してきた。


「逃げろ!」

「早く逃げて!」


 そんな声が光陽に向かって飛んできていたが、立ち上がれない。足は動かない。

 正常ではない者を前にした恐怖。

 初めて身体を切られたことの恐怖。

 死を感じさせる苦痛。

 恐怖心が光陽の足を動けなくさせていた。


 また、男が刃物を光陽に向かって振り下ろした。光陽は男を見上げながら、辛うじて動く両腕を上げ、必死に防御する。一度、二度、三度と、男は刃物を振った。その度に激しい痛みが脳に伝わった。眩暈めまいが強くなり、目の前の光景が揺れ始めた。


「うぐぅ……」


 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 両腕に感じていた痛みが、下の方へと移動していた。


 光陽は視線を下に動かす。

 腹部に刃物が突き刺さっていた。

 血が沸騰するかのような痛みが全身を駆け巡る。


 光陽が上体を起こせているのは、後ろに支柱があるから。それがなければ、とっくに仰向けに倒れていただろう。しかし現状も、あまり意味は変わらなかった。精神的にも肉体的にも、もう光陽に逃げるだけの力は残されていなかった。


 男が、ゆっくりと、刃物を振り上げた。その先端は、光陽の顔に合わされている。

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