第三十二話 思い出

 肩を激しく揺さぶられて、光陽みつひろは目を覚ました。眼前には、奈美が立っていた。

「おお……奈美……もう朝か?」

「もう朝か、じゃないわよ! もう九時よ!」

 光陽は目覚まし時計を手に取って、

「九時? もう九時か。昨日、飲みすぎたからかな……」

 奈美は光陽の手から目覚まし時計を取って、

「何、この目覚まし時計。何だか、随分古臭いわね」

「ずっと前、父さんがまだ新人の頃に作った時計なんだ。今でもきちんと動くよ」

「ふうん、そうなんだ」

 興味がなさそうに、奈美は目覚まし時計をテーブルに戻した。

「ほら、早く起きてお店に行こうよ」

 奈美は光陽の腕を両手で摑み、強引に上体を起こさせた。こういう時の女の力は強いなと光陽は思った。

「そんなに急がなくてもいいだろう。店は逃げないんだから」

「逃げたって捕まえるわよ!」

 と、奈美は鼻息荒く言った。

「何を買うってまだ決めたわけじゃないんだから、選ぶのに時間が掛かるのよ。ほら、早くっ!」

 光陽は強引にベッドから引き摺り出された。


 予想していたとおり、たった二着の服を買うのにかなりの時間が掛かった。

 最初は、昨日言っていた、光陽の知らないブランドの服を置いてある店に行くだけだと思ったのだが、ショッピングモール内を見て回るうちに、別のブランドの服もお洒落だと奈美が言い出し、そのブランドの服が多数置いてある別のデパートに行かされることになってしまった。結局は、昨日言っていたブランドの服を買ったのだが、支払いを済ませた時には昼食休憩を挟んで五時間近く経過していた。

 購入した洋服は、一万二千円のスカートと一万七千円のシャツ。高校生に買い与える服にしては、値段が高いかなとも思うのだが、奈美に上目遣いでお願いされると、首を縦に振ってしまうのだった。まあ、父親なんて大体こんなものだろうと、心の中で言い訳をしていた。

 自宅へと帰る車に乗った時は、午後五時を過ぎていた。


「お父さん、ありがとうね。二着も買ってくれて」

 奈美は服の入った袋を嬉しそうに抱えている。やはり女の笑顔は強力な武器だな、などと光陽は思った。

「大事に着てくれたら、それでいいよ」

「大事に着るよ。あたし、お父さんとお母さんに買ってもらった物は、全部大事にしてるよ」

「それは良かった。買ってあげた甲斐があるよ」


 日曜日の夕方ということもあり、道路は混んでいた。赤信号で停まった時、周りに停まっている車の中を見てみたが、光陽のように助手席に若い女を乗せている車はなかった。そんな光陽の視線を追っていたのか、奈美が話し掛けてくる。


「あたしたち、恋人同士に見られてるかな?」

「ははは。さすがに恋人同士は無理があるだろ」

「そうかな? お父さん、四十九歳って言っても通用すると思うよ。髪を染めたら、もっと若く見えると思う」

「たとえその年齢で通用しても、奈美はどう見ても十代だからな。愛人にも見えないだろう」

「愛人、か……。ねえお父さん。あたし、前から一度訊こうと思ってたんだけどさ……」

「何?」

「浮気したことある?」

 光陽は咳き込んだ。

「唐突だな。何でそんなこと訊くんだ?」

「したことあるのかなあって」


 信号が青に変わったので、光陽はアクセルを踏んだ。


「ないよ。浮気したことは、一度もない」

「そうだよね。お父さんはそんなことしないよね」

 奈美はほっとしたような表情になっている。

「……もし、あるって言ってたら、どうしてたんだ?」

「内緒にしててあげるから、服をもう四、五着買ってもらってたかな。一着五万くらいのやつ。あ、あとハンドバッグと靴もね」

 光陽は苦笑いして、

「それは父さんの小遣いじゃ無理だな」

「お母さんにも、前訊いたことあるんだよ。浮気したことあるかどうか」

「へえ」

「……お母さんが何て答えたのか知りたくないの?」

「奈美の持ち物を見る限り、母さんが高価な物を買わされた形跡がないからな。それが答えだろう」

「おお、うまいね、お父さん」

 奈美は光陽の二の腕をポンポンと叩いた。

「お母さん、あたしの質問にこう答えたんだよ。『浮気っていうのは、大抵の場合、心が満たされていない人がするものなの。私はお父さんと結婚してから、毎日満たされた思いで過ごしているから、他の誰かに気持ちを寄せる必要がないの』って。完全に惚気のろけだよね。普通、娘にそこまで言うかな。まあ、それだけお父さんのことを愛してる証拠なんだけどね」


 奈々子の思いを聞いて、光陽の胸には様々な思いが去来していた。


「そこまで言ってもらえたら、男冥利に尽きるな」

「ほんとにふたりは鴛鴦おしどり夫婦だよね。ふたりって、喧嘩したことある?」

「うーん……記憶にないなあ」

「そうだろうね。夫婦喧嘩って大体、異性関係やお金、あとは家庭を顧みないとか、そんなことが原因だもんね。ふたりじゃ、喧嘩しようにもできないか。――じゃあ、結婚する前はどう?」

「……夫婦になる前なら、母さんを泣かせたことは何度かあるけどな」

「ええっ! ほんと? 何が原因で?」

 光陽は一呼吸置いて、

「母さんに言わないか?」

「言わないよ。何、そんな重要な話なの?」

「別にそういうわけじゃないけど、積極的に話す内容でもないからな」

「大丈夫。あたし口は堅いよ。それで、結婚する前、何があったの?」

 奈美はぐいぐい迫ってくる。女だな、と思った。

「父さんは結婚する前、母さんのお姉さんと付き合ってたんだ」

 奈美は大袈裟と思えるほど仰け反った。

「ええっ! 嘘……初めて聞いた」

「初めて言ったからな」

 と、光陽は真顔で言った。

「お母さんにお姉ちゃんがいたのは、お婆ちゃんに聞いて知ってたけど……えっと、確か、交通事故で亡くなったんだよね?」

「ああ。車の助手席に乗っていて、暴走してきた車に衝突されたんだ。それで意識不明になって、昏睡状態のまま、約二ヵ月後に亡くなったんだよ」

「可哀想……」

「その時、車を運転していたのが父さんなんだ」

「えっ……」

「父さんはちょっとした怪我で済んだんだけどな……その、母さんのお姉さんの名前、真由美と言うんだがな、ただの恋人ではなくて、婚約者だったんだよ。事故に遭わなければ、二ヵ月後には夫婦になっていたんだ」

 奈美は、これまで一度も見たことのない悲痛な表情になっていた。

「それで、真由美のことが忘れられなくて、父さん、一時期廃人のようになっていたんだ。こんなことを子供に言うべきじゃないんだろうけど、自殺を考えたこともある。死ねば、この苦しみから解放されると思ってな。それで……色々とあって……話すと長くなるからそこは省略するけど、そんな父さんを救ってくれたのが、母さんだったんだ。母さんを泣かせたことがあるっていうのは、その時に起こった出来事が原因なんだよ。まあ、全部父さんが悪いんだけどな」


 話を聞き終えた奈美は、何度か口を開いては閉じていた。何を言えばいいのか、何を言ったらいけないのか、そんな言葉の取捨選択をしているように見えた。


「そんな過去があったんだ。でも、お父さんの気持ち、わかるよ。自殺したくなる気持ち。あたしがお父さんの立場だったら、ほんとに自殺してるかも……」

「おいおい。物騒なことを言うなよ」

「お父さん、今も真由美さんのこと忘れられないんでしょう?」

「……何でそう思うんだ?」

「だって、真由美さんといっぱい愛し合ったんでしょう?」

 さすがにその言い方はませすぎだと思ったが、光陽は笑うに留めた。

「ああ、そうだな。愛していたし、愛されていたと思うよ。でも、いつまでも忘れないなんて、優柔不断だと思わないか? 女から見てどうだ?」

「全然優柔不断なんかじゃないよ。それだけ愛してた人にそんな死に方されたら、忘れられるわけがないもん。時間の経過とともに悲しみの量は減るだろうけど、だからって胸に開いた穴が埋まるわけじゃないし。人間と犬を比べちゃいけないかもしれないけど、リリーが亡くなった悲しみ、あたし今もまだ覚えてるもん」


 リリーというのは、昔光陽たちが飼っていた犬のことだ。賢いシェットランド・シープドッグで、奈美に一番懐いていた。リリーは五年前に亡くなった。奈美はずっと泣き続けて、以来、もう二度とこんな悲しい思いをしたくないからと、ペットは飼わないことに決めたのだった。


「そうだな。真由美のことは忘れられないよ」

 光陽の言葉を受けて、奈美は深く頷いた。

「お母さんだって、それはきっとわかってると思うな。でも、それは別に悪いことじゃないよ。自然な感情だもん。それに、大事なのは今なんだから。真由美さんには悪いけど、お父さんがこの世界で一番愛してるのは、奈々子お母さん。でしょ?」

「ああ。そのとおりだ」

「あれぇ、あたしは一番じゃないの?」

「ははは。そうだな。母さんと同じくらい、奈美も理人も愛してるよ」

「よし!」

 奈美は手を叩いて笑みを見せた。

「お母さんは、過去に勝ったんだね」

「過去に?」

「前に観た恋愛映画がね、こんな内容だったの。主人公の女が好きになった男は、亡くなった元恋人を忘れられずにいるのね。それで主人公の女は、あの手この手でその男を振り向かせようとするんだけど、なかなかうまくいかなくて……ある時、主人公の女が友達に言うの。亡くなった人には絶対勝てないって。どんなに頑張ったって、彼の頭の中を真っ白にする魔法でもなければ、過去には勝てないって。それからも主人公の女は努力して、惚れた男に纏わりついている過去に打ち勝とうとするんだけど、結局は勝てなくて……でも、お母さんは勝ったんだよね。真実の愛は、全てを打ち破るのよ」




 丘が見えてきた。その丘の上に、光陽たちの住む家がある。沈みゆく太陽に照らされて、全ての家が真っ赤に染まっていた。

「ねえ、お父さん」

「何?」

「こういうこと言ったら怒られるかもしれないけど……もしお父さんが真由美さんと結婚していたら、あたしとお兄ちゃんは生まれてこなかったんだよね」


 その言葉は、光陽の心の琴線に触れた。とても重く、響いた。


「そんなことじゃ怒らないよ。奈美の言いたいことはわかる。奈美と理人が生まれてきてくれて、本当に良かった。宝物だよ、ふたりは」

 奈美はほっとしたように息を吐いた。

「ありがとう。あたしもお父さんのこと大好きだよ。特に今日は、大大大好き」

 光陽は苦笑して、

「何だか素直に喜べないなあ」

「服を買ってくれなくても、大好き。でも、服を買ってくれたらもっと大好き。おかしいかな?」

「いや、おかしくないよ。素直でよろしい」


 車を車庫に入れる。奈々子の車も止められていた。

「お母さんも帰ってきてる。日曜までお仕事して疲れてるよね。今日は夕食のお手伝いしないと」

「それは母さんも助かるよ」

「……ねえお父さん」

「ん?」

「お母さんと、真由美さんの話をすることある?」

「うん……たまにな。昔は全然しなかったけど」

「そう……」

 助手席のドアを開けようとしていた奈美は、何かを思い出したかのように「あっ!」と声を出した。

「どうした?」

「あたし、今気づいた。遅っ!」

「気づいたって、何を?」

「あたしの名前って、奈々子お母さんと真由美さんから一文字ずつ取ってるよね?」

 気づいたか。光陽は顔を綻ばせた。

「ああ、そのとおり。母さんとふたりで決めたんだ」

「ほんと、あたし、気づくの遅いわ」

「……どう思う?」

「一文字ずつ取ったあたしの名前?」

「ああ」

「素敵だと思うよ。お父さんが愛したふたりの名前の文字が入ってるなんて。何より、美人の美が入ってるのがあたしに相応ふさわしいわ。このとおり、あたし美人だし」

 どこまで本気で言っているのか、光陽は考えた。

 すぐに答えは出る。

 奈美は全部本気で言っているのだと。


 奈美は車を降りて、玄関のドアを開ける。元気のいい声で「ただいま」と言うと、奥から「お帰りなさい」という優しい声音が返ってきた。

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