第三十一話 いつまでも忘れない

 四人で朝食を食べている時、光陽みつひろはふたりの子供に対して、今日は母さんとデートしてくると言った。だから昼食は出前でも頼みなさい、と。


「いいなあ。あたしは家で春休みの宿題をやるだけだよ」

「大学受験に備えた勉強もやっておけよ。お前は今からやっておかないと後悔することになるぞ」

 理人が妹に箸を突き付けて言う。

「うるさいわねえ。そんなもん、九月に入ってからで十分よ」

「知らないぞ。あとで泣くことになっても」

「どんな結果になっても、あたしは泣きません」

「どんな結果になってもって、落ちることもあるってことか。ダメだな、そんな心構えじゃ。受験は戦争なんだよ、戦争。戦地に赴く兵士で、生きて帰ってくることをイメージできない奴は間違いなく死ぬぞ」

「あー、もう、ほんとに――」

「奈美は、受験勉強も含めて、短期間で仕上げるタイプだろう。父さんもそういうタイプだったよ。まあ、九月よりはもう少し早く受験に備えてたがな」

 延々と続きそうな丁々発止に、光陽は口を挟んだ。

 奈美は大仰に頷いて、

「そうそう。あたしはダラダラやるのが嫌いなのよ。さすがお父さん。ちゃんと子供のことわかってるわね。お兄ちゃんも見習わないとね」

 はいはいといった顔で理人は味噌汁を飲む。

「今日は宿題をやるだけって言ったけど、友達とは遊ばないのか?」

 と、光陽は訊いてみた。

「仲の良い子はみんな彼氏がいるからね。休みの日は大抵彼氏と遊んでるのよ」

「……奈美は、彼氏はいないのか?」

「いないよお。知ってるくせに」

 奈美は頬を膨らませた。

「カッコいいなと思う男子くらいはいるだろ?」

 奈美は首を横に振って、

「うちの学校の男子は、あんまりイイのいないのよ。つらのいい男子は彼女いるし……年下は趣味じゃないし……」

「お前のクラスの男子も、同じこと言ってるぞ。『沢村奈美? ああ、あのうるさくて気が強い女か。ああいうのは、俺のタイプじゃない』って」

「はあ……。お兄ちゃんは何でいつも一言多いのかなあ」

「俺はいつも正論と真実しか言ってないぞ」

 それからふたりは食べ終わるまで、言葉のパンチを応酬していた。光陽も奈々子も、もう止めなかった。


 時計の針が九時を指そうとする頃、光陽たちは車に乗って出かけた。

 助手席に乗っている奈々子は、いつもより若々しい服を着ていた。光陽の記憶が確かなら、それは彼女がまだ四十代だった頃によく着ていたシャツとスカートだった。奈々子は光陽と違って白髪染めをしているし、肌の艶もあるので実年齢より若く見えるのだが、今日はまた一段と若く見えた。


「良い天気ですね」

 奈々子は窓の外の空を眺めている。

「ああ。もうすっかり春だな」

「こんなに天気が良いなら、理人と奈美を連れてピクニックをしても良かったかもしれないですね」

「それじゃデートじゃなくて、家族でお出掛けになるじゃないか」

「あ、そうか」

「それに、もう親とはピクニックには行かないだろ、ふたりとも」

「そうですかね……」

「何か買ってやるから一緒にきなさいと言えば、奈美は付いてくるだろうけどな」

「昔は、休日でも友達とは遊ばずに私たちに付いてきてたんですけどね。それもつい最近のことのように思うんですけど……時の流れは早いですね」

 光陽は左手で奈々子の肩をポンポンと叩いて、

「何だか、年寄りみたいだぞ」

 奈々子は肩をすくめて、

「最近、昔のことをよく思い出すんです。意識して思い出す場合もありますけど、ふとした時にも。歳を取ったということなんでしょうね」

「……どのくらい昔のことを思い出すんだ?」

「二十代中盤から後半の頃ですかね」

「二十代中盤から後半か……」

 そう呟いた光陽の目は、過去を振り返るようなものになっていた。

 その話はそれ以上続かず、話題は子供や仕事のことに切り替わっていった。


 二時間ほどドライブしたあと、映画館に足を運んだ。

 若い頃は、光陽も奈々子も洋画ばかり観ていて、一年のうちで邦画は両手で数えられるくらいしか目にしなかったのだが、最近ではその比率が逆転していた。

 歳を取ったせいもあるのだろうが、どうも最近の洋画はわかり難いものが増えたように思う。若い頃はソレが何を意味するのか瞬時に理解できたが、今はソレが何なのか理解できずに最後まで引っ掛かって映画に集中できないことが増えた。結果、どんどん洋画から遠ざかっていった。

 反面、邦画は気軽に観られた。良くも悪くも、無駄な味付けがないし、複雑に見せることをカッコいいと勘違いした作品は少ないように思う。悪く言ってしまえば、邦画はスケールが小さいということになってしまうのだが、スケールの大きさだけが映画の良さではない。最近のふたりは、若い頃に観ていなかった邦画も自宅で観賞するようになっていた。


 寿司屋で昼食を取ったあと、昨日テレビで放送していた若者がよく行くデートスポットにも足を運んでみた。

 すぐに場違いだと気づく。自分たちと同い年の人間が見当たらず、ふたりはとても浮いていた。どちらから言うでもなく、きびすを返していた。


 デートの最後は、世界中から色とりどりの花を集めて売っている市場に行った。花好きの奈々子は、そこにある花の名前を七割以上言えたが、光陽は一割も言えるか微妙だった。奈々子は赤いアネモネと紫のチューリップを買った。


 帰りの車中。奈々子は満足そうな表情を浮かべていた。

「ああ、楽しかった。でも、ちょっと疲れました。大して動き回ってないのに、やっぱりもう歳ですね」

「奈々子はまだまだ若いさ。外見だって、十歳くらい鯖を読んだって誰も疑わない」

「ほんとですか?」

「ああ。この前連れてきた部下たちも、歳を聞いて驚いてたぞ。実年齢よりかなり若く見えるって」

「それは嬉しいですね。じゃあ、エイプリルフールも近いから、今度初めて会った人に、四十五歳だと言ってみようかしら」

「あと五年はそのまま四十五歳で通したって、誰も疑わないさ」

 褒めまくる光陽に、奈々子は照れ笑いを浮かべていた。


 自宅に帰ると、友達との送別会に出掛けた理人を抜きに、三人で夕食を取った。

「そんな高い寿司屋に行くんなら、誘ってほしかったなあ」

 光陽たちのデートコースを聞いた奈美は、予想どおり羨ましそうな目を両親に向けてカレーを食べていた。

「昼間、母さんにも言ったけど、それじゃデートじゃなくなる」

「じゃあ、明日どこか連れて行ってよ。明日も休みでしょ?」

「いいけど、どこに行きたいんだ?」

「美味しい物を食べられるところ」

「美味しい物は、昨日たくさん食べただろう」

「昨日は、お兄ちゃんを祝う会だったから、遠慮してあんまり食べなかったもん」


 遠慮してあまり食べなかったという奈美の昨日の食事代は、一万六千円だった。支払い総額は四万九千円だったので、三分の一に当たる金額を一人で飲み食いしたことになる。四人で食べたのに、三分の一だ。その事実は、光陽は言わないでおいた。


「メインは食べ物じゃなくて、何か買って欲しい物があるんだろ?」

 何となくそんな気がしたので、光陽は訊ねてみた。

「さっすがお父さん。子供の心がわからないその辺の親とは違うわね」

「あなた、それ褒めてないでしょう」

 と、奈々子が指摘する。

「褒めてるよお。友達も、奈美のお父さん優しくていいなあって言ってるもん」

「ほう。それは光栄だな。で、何が欲しいんだ?」

 奈美は、光陽の知らないブランド名を出した。そのブランドの洋服が欲しいらしい。

「そのブランドの服、女子高生に人気あるのよねえ」

 と、奈々子が光陽に知識を与えてくれた。

「でも、あんまり高い服をおねだりしちゃダメよ」

「大丈夫だよ。あたし、今まで一着二万円以上の物をおねだりしたことないもん」

 その言葉で、買わされる服は一着一万五千円以上だと推測できた。

「あなたは綺麗なんだから、そんなに高価な服を着なくても、そのままで十分映えるわよ」

「母さんの言うとおりだ。奈美は素のままでも十分輝いてるぞ」

 両親の褒め言葉を聞いた奈美は、照れたような笑みを浮かべた。

「いやあ、親にそんな風に言われると、ちょっと照れちゃうね。まあ、あたしが美人なのは、そのとおりなんだけどさ。でも、それはふたりのおかげだよね。ありがとう。で、話を戻すけど、明日洋服は買ってもらえるよね?」

 我が娘ながら、逞しいなと思った。そして、面白い。昼間奈々子と話したとおり、奈美は良い意味で光陽にも奈々子にも似ていなかった。


 夕食を食べ終わったあと、奈美は浴室へ行き、光陽は奈々子とリビングのソファで向かい合って座った。

「明日は色んなところを連れ回されるんだろうな」

 光陽はそう言ったが、別にイヤなわけではなかった。休日に娘と一緒に歩くことをイヤがる父親はいないだろう。

「あの子は私と違って、ウィンドウショッピングを三時間でも五時間でも楽しめる性格ですからね」

「俺も奈々子も、目当ての物を買ったらとっとと帰るからな」

「私も女ですから、ちょっとはその気持ちはわかりますけど……あの子クラスになると、もう付いていけません」

「やっぱり、奈美は奈々子にも俺にも似てないな。――なあ、俺は奈美に甘いかな?」

「甘いか厳しいかで言えば、甘いですね」

 と、奈々子はきっぱりと言った。

「やっぱりか。まあ、奈美が生まれた時から、こうなるとわかっていたけどな。俺は、娘には厳しくできないって」

「でも、優しさが含まれた甘さですから、いいじゃないですか」

「そうか?」

「ええ。スパルタ教育より、愛情が籠もっている甘さの方がずっと良いですよ。それに、私も人のことは言えませんから」


 世間から見れば、光陽と奈々子は甘い親の部類に入るだろう。ふたりの子供に対して、光陽は激しい口調で怒ったという経験は一度もなかった。奈々子も同じだろう。そこまで強く叱られるようなことをふたりがしなかったとも言えるが、やはり光陽も奈々子も甘い親だと言えた。

 だが、昨日の理人を見て、そんな育て方でも良かったのだと改めて思った。

 時刻が九時になった時、奈々子が立ち上がった。


「明日は早いので、もう寝ます」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」


 奈々子は光陽と結婚してからも精神科医として勤務していたが、理人が生まれてからは、長いあいだ専業主婦として過ごしてきた。

 しかし子供も大きくなり、手も掛からなくなったので、二年前から精神科医に復帰していた。勤務場所は以前と同じ病院。約二十年のブランクがあったが、二週間ほどで感覚を取り戻したみたいだった。どれだけ時代が変わっても、人の心の問題は不変なのかもしれない。


 光陽はしばらくのあいだ、酒を飲みながらバラエティ番組を観ていた。観ながら、明日は何時に家を出ようかな、どんな服を着ていこうかな、自分も何か買おうかな、というようなことを考えていた。


 バラエティ番組が終わり、ニュース番組が始まった。

 アナウンサーが最初のニュースを読み上げて、画面が切り替わった時、光陽の視線は画面に釘付けになった。

 テレビ画面は、横転した四駆の自動車を映していた。

 俄かに、光陽の胸が熱くなる。

 高速道路を逆走してきた車を避けた四駆が、そのまま横転してしまったようだった。乗っていたのは二十代のカップルで、運転していた男性は両足の骨折で済んだが、助手席に乗っていた女性は意識不明の重体ということだった。

 光陽はソファに深くもたれ掛かり、長い溜息を吐いた。


 三十年前の、光陽と真由美を襲った事故の記憶が蘇ってくる。


 真由美が消えてから、二十六年経つ。長い年月だ。だが、光陽は真由美を一日たりとも忘れたことはなかった。

 真由美が消えたと悟ってから、光陽は半ば廃人のようになっていた。仕事でありえないようなミスを何度もしたし、車を運転していて事故に遭いそうになったことは一度や二度ではなかった。何を食べても味は薄かったし、何をしてもあまり頭には入ってこなかった。周りの人間は、なぜ彼がそんな状態になったのか、当然知る由もなかった。みんなの中では、真由美はとっくの昔に死んでいるのだから。


 そんな光陽を救ってくれたのは、奈々子だった。

 あの日、森の中で自殺しようとした時、奈々子からの電話がきっかけで生きることを選んだ。すぐに元気を取り戻したわけではないが、奈々子の献身的な言動のおかげで、光陽は徐々に生きる希望を得たのだった。

 

 この二十数年のあいだで、奈々子に愛していると言った回数は、真由美に愛していると言った回数を上回っていた。

 一度大切な人を失っているので、愛する想いは普通の人間より強力だったと思う。想いが強すぎて、神経質になっていた頃もある。特に奈々子が妊娠していた時期は、その傾向は強くなっていた。その神経質な言動は、普通の女性だと煩わしく思っただろうが、奈々子は何も言わなかった。精神科医としても、ひとりの人間としても、彼の心の痛みがわかっていたからだと思う。


 子供が生まれると、想像していた以上の慌しい日常がスタートした。世の中の一般的な父親たちよりは「善戦」する自信があったが、人間を育てるというのは、一筋縄ではいかなかった。元より、子育てにマニュアルなんてないのだ。頭ではなく、身体で覚える他なかった。


 仕事に、子育てに、そして奈々子を愛することに懸命になっていく日々の中で、真由美を失った悲しみは徐々に薄れていった。自分でも信じられなかったが、事実だった。


 そう。確かに悲しみは薄れた。

 しかし、今も胸に穴は開いている。大切な人を失った時、必ずできる穴。それは誰にも埋めることのできない穴だ。奈々子にも埋められないし、時間がどれだけ進んでも決して埋めることはできない。


 しかし穴が開いたままでも、前を向いて歩くことができたし、心の底から笑い、喜ぶことができた。そして真由美以外の女性、奈々子を愛することができた。奈々子がいつも側に居て彼の手を握っていてくれたから、立ち直ることができた。もし奈々子がいなかったら、あの森の中で自分は死んでいた。

 光陽と真由美の物語は、あの日完結した。そしてあの日から、光陽と奈々子の物語が始まったのだ。




 肩を叩かれて目を開けた。いつの間にか眠っていたことを知る。

 振り返ると、理人が立っていた。

「こんなところで寝てると、風邪引くよ」

 光陽は欠伸をしながら、

「ああ、すまん。友達とのお別れは済んだのか?」

「他県に引っ越すというだけで、別に俺だけが就職するわけじゃないんだけどね。まあ、盛大に祝ってもらったよ」

「それは良かったな。さて、俺も寝るか。明日は忙しくなりそうだからな」

「どこか行くの?」

「奈美の買い物に付き合わされる予定だ」

 理人は苦笑いして、

「あいつをちょっと甘やかしすぎじゃないの?」

「……そう思うか?」

 理人は深く頷いた。

「欲しい物があるなら、バイトすればいい。俺はそうしたじゃん。あいつは部活も何もしてないんだから、バイトする時間ならいくらでもある」

 今度は光陽が苦笑いして、

「まあ、いいじゃないか。年齢で考えると、奈美はしっかりしてる方だと思うぞ」

「それは知ってるよ。あいつは、その辺の我侭わがまま娘とは違う。ただ、自分で金を稼いで欲しい物を手に入れた方が、より良いと思うからさ」

「そうだな。徐々にそうやれればいいんだがな」

 理人は首を横に振りながら、

「きっと父さんには無理だと思うよ。あいつに厳しく物を言うことは」

「無理か?」

「自分で無理だってわかるだろう? まあ、父さんだけじゃなくて、母さんも奈美には甘いけどね。だから奈美には俺が厳しく言ってきたんだ。小さい頃から、ずっと」

 これじゃ、どっちが奈美の親かわからない。

 しかし、今理人が言ったことは事実だった。

「奈美がちゃんと育ったのも、お前のおかげかな」

「それをあいつに言ったら、全否定するだろうけどね。まあいいや。とにかく、あんまり高価な物は与えない方がいいよ」

 理人はそう言い置き、リビングを出て行った。


 光陽は戸締りを確認したあと、二階の寝室に向かった。

 ベッドの上では、奈々子が気持ち良さそうに寝息を立てていた。

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