第三部 虹

第三十話 あれから

 会社を出ると、光陽みつひろは急いで駅に向かった。屹立したビルに阻まれて太陽は見えなかったが、空はまだ明るさを残している。金曜日の夕方ということもあって、擦れ違う人たちの表情は弾けて見えた。自分もそんな風に見られているのかもしれない。


 駅に着くと、すぐに目的地に向かう電車がやってきた。最後尾の車両に乗り込み、手近なシートに腰を下ろす。

 三駅ほど通過すると、たちまち混み始め、吊り革を掴む人が多くなった。その中に、八十歳くらいのお婆さんがいた。杖を左手に持って、右手で手摺りを掴んでいる。その前の席はシルバーシートだったが、そこに座っている人間は誰も席を譲ろうとはしなかった。ある者は音楽を聴き、ある者はゲームをし、ある者はパンを頬張っていた。全員、二十歳前後と思われる若者だった。


 まったく、最近の若者は……。

 光陽は溜息を吐きながら席を立つと、お婆さんの元に進んだ。自分が座っていた席を指差しながら、

「お婆さん、どうぞ、あそこの席に座ってください」

「あらあら、すみません。ご親切に、ありがとうございます」

 お婆さんは顔を綻ばせ、丁寧に頭を下げて着席した。

 

 光陽は手摺りを掴み、窓の外の流れゆく景色を眺め続けた。それから五駅通過したところで、目的地の駅に着いた。


 電車を降り、駅の構内を抜けて外に出ると、タクシー乗り場に向かった。先頭に停まっていたタクシーに乗り込み、愛想の良さそうな運転手に行き先を告げる。タクシーが走り始めると、光陽は携帯を取り出し電話を掛けた。すぐに繋がった。


「俺だけど、今大丈夫か?」

「ええ、大丈夫ですよ」

 と、妻は言った。

「今タクシーに乗ってそっちに向かってる。あと二十分くらいで着くと思うけど、もう着いてるのか?」

「私はさっき着きましたけど、理人りとと奈美はだいぶ前に着いたみたいです。今は店の前であなたを待ってます」

「そうか。先に席に着いてていいよ」

「わかりました。気をつけてきてください」

 そう言って妻は電話を切った。


 赤信号につかまり、タクシーは停まった。

「奥様と待ち合わせですか?」

 それまで無言だった運転手が訊ねてきた。

「ええ。妻と子供たちとね。今日は子供のお祝い事なんですよ」

「ほう。何のお祝い事ですか?」

「長男の大学卒業のお祝いです」

「おお、そいつはめでたい。しかし、大学生のお子さんがいるようには見えませんね」

 光陽は笑って、

「もうすぐ六十ですよ」

「ええっ! じゃあ、今五十九歳ですか?」

「今年の夏でね」

「わたしの二歳上ですか。見えませんね」

「でも、身体は痛んでるよ。最近、身体の節々が痛いし、ちょっと小走りしただけでも息切れするからね。歳は取りたくないもんだ」

「それは同感です」

「でも、運転手さんも若く見えますよ。四十九歳でも通用するかな」

「嬉しいですねえ。女房には、すっかり老けたねって言われるんですけどね」

「お互い様だろって言わないんですか?」

「はは。それが、女房はわたしより七歳年下なんですよ。おまけに童顔ですから、四十代前半でも通用する顔立ちなんです」

「へえ。七歳も下ですか。それじゃ、友人や同僚に羨ましがられるでしょう?」

「いやあ、昔はそうでしたけど、この歳になるとそうでもないですよ」

 そうは言っていたが、運転手の顔は満更でもないという表情になっていた。

「お客さんの奥様は、どうなんですか?」

「うちも年下なんだ。さすがに七歳も年下じゃないけどね。妻は三つ下だよ」

「いや、そのくらいが一番いいのかもしれませんね。――世間じゃ昔から姉さん女房の方が男は大成するとか言いますけど、あれはどうなんですかね。わたしなんかは、年下女房の方が男の力を引き出すと思うんですけどね。俺がこの女を守ってやらないといけないっていう意識です」

「まあ、それは男の性格にも左右されるから一概には言えないけど、そういうケースもあるだろうね。でも、世の女は強いからね。最近は特に。今じゃ守ってもらってる男の方が多かったりして」

「ああ、それは確かにそうですね。最近は軟弱な男が増えてますよ。女は強くなったかもしれないけど、その分性質の悪い奴も増えました。何でこんな風になったんですかねえ」

 運転手は、目的地に着くまでずっと、最近の若者に対する愚痴を零し続けていた。


 妻たちの待つレストランへ入店すると、爽やかな笑顔のウェイターがやってきて、名乗った光陽を席へと案内してくれた。

 そこは奥の席で、こちらに背を向けた格好で妻が、右側に理人、左側に奈美が座っていた。奈美は、光陽に気づくと軽く手を上げて笑顔を見せた。理人は、光陽を一瞥しただけで特に感情を出すことはなかった。妻は、微笑みを浮かべてお仕事お疲れ様と言ってくれた。光陽は三人に声を掛けて着席した。


「注文はしたのか?」

 誰に言うでもなく、光陽は訊ねた。

「まだでーす」

 奈美がお腹を擦りながら答えた。

「理人も奈美も好きな物を注文しなさい」

「ほんとに? 何でもいいの?」

 奈美が目を輝かせている。

「ああ、何でもいいよ」

「でも、一番高いやつ、三万もするよ」

「おいおい、そんなの頼むなよ。常識で考えろ、常識で」

 理人が苦笑して妹に苦言を呈した。

「だって、何でもいいってお父さん言ったもん」

 奈美は唇を尖らせた。

「男に二言はない。何を注文してもいいよ。今日は父さんの給料日だからな。お金はあるぞ」

「やっほー。さすがお父さん。でも、今日はあたしじゃなくて、お兄ちゃんを祝う会だから、あたしはこの五千円ので我慢しておく」

 奈美の言葉に、理人は苦笑したまま口を開きかけたが、結局何も言わずメニューに視線を落とした。


 光陽は妻に視線を移す。妻はメニューを見ていたが、視線に気づくと彼に向き直った。

「久しぶりにお酒を飲もうかしら」

 と、妻は言った。

「たくさん飲んでいいよ。酔いどれになっても、今日は三人いるし、運んで帰れるだろう」

「そんなことを言ったら、昔何かあったと思われるじゃないですか」

「あったじゃないか。ほら、結婚するちょっと前くらいに」

「そんな昔のことを持ち出されても……」

 妻は困惑した表情で肩をすくめた。

「なになに? 昔、何があったの?」

 奈美が興味津々といった様子で訊ねてくる。

「あなたは聞かなくていいのよ」

「あたしが聞かなかったら、誰が聞くのよ。ねえお父さん、おしとやかなお母さんの裏の顔を聞かせてよ」

「ああ。また今度、母さんがいない時にな」

「絶対ね。約束だよ」

「ああ、約束だ」

 奈美は愉快そうにメニューに視線を戻した。


 四人の頼む料理が決まると、光陽はウェイターを呼んで注文した。それだけで五万円は掛かりそうだった。奈美が遠慮しなかったら、もっと高くついただろう。全員の食べる料理がテーブルに載せられてから、光陽たちは食べ始めた。

 奈美が、三本ずつ置いてあるフォークとナイフを内側から取った時、理人が口を開いた。


「おい奈美。フォークとナイフは外側に置いてある物から使っていくんだ。知らないのか?」

「あたし、まだ高校生なんだけど?」

「高校生なら知っておかないといけないマナーだぞ。ちなみに俺は小学生の時には知っていた」

「うるさいなあ、お兄ちゃんは。だから彼女ができないのよ」

「関係ないだろ。それに、俺は恋人ができないんじゃなくて、つくらないんだよ。この違いは、天地ほどの差があるぞ」

「ふん。そうですか。でも覚えておいた方がいいわよ。こういう時はね、そっと教えるのよ。そんな周りに聞こえるような声で注意されたら、レディは恥ずかしくて堪らないわ」

「それは女の勝手な理屈だな。こういう店にくる時は、最低限のマナーを覚えてからくるべきだし、何より、まず自分の非を認めるべきだ。その上で、相手に注文をつける。そうしないと、この世は頭を下げない連中の集まりになっちまう。そのくらいはわかるだろう?」

 奈美は歯を食い縛っている。歯軋りが聞こえてきそうだった。

「もう、止めなさいふたりとも。何であなたたちは毎回そんなどうでもいいことで喧嘩するの」

 妻は呆れた表情で兄妹を見ている。

「喧嘩するほど仲が良いんだよ」

 と、光陽は言った。

「別に仲良くないよ。お兄ちゃんが遠くに行くんで、四月からはあたしの血圧も安定するわね」

「そうか。それは良かった。俺も四月からは頭痛の種が無くなって、快適な社会人生活を送れるよ」

 理人がへらへらと笑いながら言うと、奈美は兄に向かってあっかんべーをした。

「はあ……。何でこの子たちはこうなるのかしら」

 やれやれといった表情で、妻は溜息を吐いている。

 そんな三人を、光陽は微笑みを浮かべて眺めていた。


 ある程度みんなが料理を食べ終わった時、光陽は背広の内ポケットから包装紙に包まれた箱を出して理人に手渡した。

「卒業祝いだ。父さんと母さんからのな」

「ありがとう」

「何だか、あんまり感情の籠もってないありがとうだなあ」

 と、奈美がまたちょっかいを出す。

「こら、奈美、止めなさい」

「有り難く思ってるよ、ほんとに」

 そう言うと、理人はおもむろに立ち上がった。

「小さい頃から色々と我侭を聞いていただき、その上大学まで出させていただいて、感謝しています。まだまだ未熟ですが、できるだけ早く、ふたりに安心してもらえるような大人になります。今まで本当にありがとうございました」

 理人は光陽と妻に頭を下げて着席した。


 予想だにしていなかった息子の行動に、光陽は目を瞬かせた。妻も同じような反応をしていた。

「どうしたのお兄ちゃん? 変な物でも食べちゃったの?」

 奈美は心配そうな顔で理人を見ている。

「思っていたことを、そのまま言っただけだよ」

 理人は何事もなかったかのように、残っていたワインを飲み干した。

「そんな言葉をもらえて、私たちは満足よ。困ったことがあったら、いつでも言ってきていいんだからね。あなたくらいの歳の頃は、私はまだ親に甘えていたもの」

 感謝の言葉がとても嬉しかったようで、妻は愛に満ちた表情で理人を見つめていた。

「へえ、お兄ちゃんって、そんな風に考えられる人間だったのね。感心したわ。そういう考え方ができるなら、大丈夫よ。これからうまくやっていける。あたしが保証するわ」

「そうか。お前のお墨付きなら大丈夫だな」

 と言って理人は笑った。


 光陽は胸が熱くなるのを感じた。息子は、ここまでしっかりとした物の考え方ができるようになっていたのかと。自分が大学を卒業した時は、こんな感謝の言葉は両親に言えなかった。

 光陽は手を挙げてウェイターを呼ぶと、更に高い酒を頼んだ。




 家に帰り着いた時には、午後九時を過ぎていた。奈美、理人、妻の順番で風呂に入らせたあと、最後に光陽が入った。白髪だらけの頭髪、皺が刻まれた顔、シミが点々とする身体を洗い、浴室を出た。


 リビングでは、妻がソファに座ってニュース番組を観ていた。光陽が現れると、妻はお茶を注いでくれた。礼を言って光陽は一口飲んだ。

「さっきはびっくりしました。あの子があんな風に考えていたなんて」

「母親の育て方がしっかりしていたのさ」

「そんな、私は何も……あなたに似たんですよ。小さい頃から、あなたに付きっきりでしたから。やっぱり、男の子は父親に似るんです」

「ふうむ。しかし、そう考えると、奈美はどっちにも似てないな。顔は母親似なんだが……」

「あの子は……そうですね、どちらにも似てないですね」

 ふたりとも笑った。

「中学生の時まではそう思わなかったけど、高校生になってもあそこまで気が強いと、将来結婚相手を探す時に苦労しそうだな」

「大丈夫ですよ。あの気の強さが好きだって言う男性がいつか現れますよ」

「そうだといいがな」


 ニュース番組が終わったあとのテレビは、最近若者に人気のデートスポットを映し出していた。

「私たちの時代とは違って、今はこういう場所が人気なんですね」

「俺たちが若い頃は、俺たちの親も同じことを思ったんだろうな。理人や奈美が俺たちくらいの歳になったら……」

 光陽はそこで言葉を切って笑みを浮かべた。

「そうやって巡っていくんですね、ずっと」

 妻は感慨深げな顔になっている。

 光陽は妻の太ももに手を置いて、

「明日はふたりでどこかに出かけるか」

「デートですか?」

「そう。デート。今年に入ってまだしてないだろう。どこか、美味しい物でも食べに行こう」

「いいですね」

 と、奈々子は言った。

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