第二十九話 愛した人

 奈々子の自宅を出た光陽みつひろは、ホームセンターでロープと脚立を買い、森へときていた。森の手前にある駐車場には、他に車は一台も停まっていない。光陽がエンジンを切ると、辺りを照らすのは月明かりだけとなった。光陽は車を降りると、脚立とロープを持って森の中へと入っていく。


 真由美は消えていない。

 全ては、光陽と奈々子のためを思って仕組んだ計画。


 光陽の想像どおりであれば、真由美に声を出させるのは至難の業だ。たとえば、真由美が苦手にしているものを突然見せたり聞かせたりしたところで、声は出さないだろう。

 何を見ても聞いても、どんな状況になっても、存在を消し続ける。

 真由美はそう決意して光陽に別れの言葉を言ったはずである。


 ほぼ全てのやり方は、彼女に通じないと思っていい。


 そんな中で、光陽の頭に浮かんできたのが、自ら命を絶つという方法だった。

 光陽が自殺をしようとすれば、真由美はそれを阻止するために声を出すはず。


 ただし、演技ではダメだ。演技だと、どれだけ真に迫っていても、最初から死ぬ気がないと真由美に見抜かれる。

 だから、光陽は本当に死ぬ覚悟でこの森へとやってきた。


 首を吊る直前に、真由美に思いを伝えるつもりだった。

 その思いに応えて、真由美が声を出してくれれば、その瞬間に生きることを選び、声が聞こえてこなければ、そのまま死んでいいと考えていた。


 見方によっては、真由美の思いを踏みにじるようなやり方に見えるかもしれない。しかし、どれだけ光陽たちのためを思ってしてくれたことでも、存在を消してこの身体の中で生き続けるなんて、そんな選択は認められない。真由美は、間違っている。


 どのくらい歩き続けただろう。

 光陽は足を止めた。

 眼前には大木がある。首を吊るにはいい太さの枝が伸びている。

 光陽は脚立を立て、枝にロープを巻き始めた。

 これから何をするのか、はっきりと目に映しながら、最後にロープで輪を作った。


 光陽は輪っかの部分を両手で握り、真由美に語り掛ける。

「真由美、聞こえてるか? 俺は、真由美が消えていないと答えを出した。真由美は、俺と奈々子ちゃんの幸せを願って嘘を吐いたんだ。そう確信してる。このまま存在を消して俺の中で生き続けるなんて、そんな残酷な道を歩ませるわけにはいかない。苦しむなら、俺と一緒にだ。俺だけ幸せになるなんて、絶対にできない。だからどうか声を聞かせてほしい。黙ったままなら、俺はここで首を吊って死ぬよ。真由美だけに苦しい思いをさせて生きるくらいなら、軽蔑された方がましだ」


 思いを伝え、静寂の中で待ち続けたが、真由美の声は聞こえてこなかった。


 光陽は、ゆっくりと、輪っかの中に顔を通した。

 脚立から足を離せば、一気に死へと向かう。

 その体勢で、光陽は夜空に浮かぶ月を眺めた。


「俺たちの幸せを願って身を引いたのは間違いだよ。そのやり方は間違ってる。それじゃ、誰も幸せになれない。真由美を苦しませて得る幸せなんて、紛い物だ。俺が愛してるのは、真由美だけなんだから」


 声は聞こえてこない。風が吹いた。


「俺は、真由美は絶対に、まだこの身体の中にいると確信してる。でも、その思いが間違いで、本当に逝ってしまったのなら、俺もここで死ぬよ。真由美のいない人生なんて、生きていても意味がないからな」


 声は聞こえてこない。虫の鳴き声が響いた。


「真由美をずっと愛すると言った言葉に、偽りはない。俺は真由美だけを愛し続ける。だから声を聞かせてくれ。一緒に生きていこう」


 静寂の中に、声は生まれなかった。


 光陽は大きく息を吸い込み、最後の思いを伝える。

「応えてくれないなら、それでいい。一緒に死のう」

 光陽は脚立から足を離した。


 本当に死ぬつもりの人間なら、迷いを断ち切るために、脚立を倒すだろう。

 しかし光陽は脚立を立てたままにしておいた。

 死ぬ気がなかったわけではない。

 最後の最後、真由美の声が聞こえてきた時のために、生への選択肢を残しておいたのだ。


 ロープが首を絞めつけていく。

 ギギギという軋む音が耳に届く。

 徐々に闇が身体を侵食していくのを感じた。

 呼吸ができない苦しみは、真由美には感じ取れないものだが、光陽に残された時間がないことは理解しているはずだ。真由美は、光陽を死なせない。必ず、声を出してくれるはず。思考力が薄れていく中で、光陽はその時を待った。


 しかし、十秒以上経っても、真由美の声は聞こえてこなかった。静寂の中で聞こえるのは、光陽の呻き声だけ。


 急激に意識が薄れていく。

 緞帳どんちょうが下ろされていくかのように、眼前が暗くなり始めた。

 脳裏に、はっきりと、≪死≫が浮かんできた。


 真由美……。

 本当にいないのか……。

 ひとりで逝ってしまったのか……。


 真由美がいないのなら、このまま死んでもいい。

 薄れゆく意識の中で、光陽は生きることを諦めた。

 死ぬ間際、走馬灯が駆け巡るというのは本当だと知る。光陽の脳裏には、真由美との思い出が流れ続けていた。


 ふっと息苦しさがなくなった。直後、浮遊感が光陽を包んだ。

 意識が……命が断ち切られる。

 そう覚悟した時、微かな音が耳に届いた。

 この音は……。

 思考力がほぼゼロになっている中で、その音の正体に気づいた。


 これは、奈々子からの着信音だ。ポケットに入れているスマホから響いている。


 さっき別れたばかりの奈々子が、なぜ電話を掛けてきたのだろう……何かを察知したのだろうか……。


 脳裏に浮かんでいた真由美の顔が、奈々子に切り替わる。


『あなたが死ねば、奈々子は自分を責める』


 真由美の言った台詞が蘇る。

 光陽の遺影を前に涙を流す奈々子の姿が……暗い部屋で自分を責める痛ましい奈々子の姿が……真由美と光陽の墓の前で泣き崩れる奈々子の姿が……まるでその光景を実際に見たかのように、鮮明に脳裏に浮かんできた。

 奈々子……。


 死ねない。

 奈々子に自分と同じ思いをさせてはいけない。

 全身が熱くなるのを感じた。ほとんど失われていた身体の感覚が、その一瞬蘇った。

 光陽の両手は、無意識にロープを掴んでいた。宙に浮いた両足を必死に動かして、脚立の上に立とうとする。


 意識が朦朧とし、身体の自由が効かない状態で、何度か脚立を倒しそうになったが、寸でのところで脚立の上に片足を乗せることに成功した。首を絞めていたロープが緩み、僅かに呼吸ができるようになる。光陽はもう片方の足を脚立に乗せたあと、ロープの輪から顔を出して、そのまま脚立と一緒に地面に倒れ込んだ。


 真由美は、本当に、光陽の中からいなくなってしまったのだ。光陽と奈々子のためを思って存在を消しているのではなく、本当に向こうの世界に逝ってしまったのだ。

 愛する人は、いや、愛した人はもういないのだと、光陽は悟った。


「真由美……」

 暗い森の中で、光陽は嗚咽を漏らし続けた。


 奈々子からの着信音はまだ鳴り続けている。




 ――第二部 完――

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