第二十八話 愛する人

 気づくと、奈々子の部屋に上がっていた。

 ソファに座っている光陽みつひろの前には、湯気の立っているコーヒーが置かれている。

 視線を少しだけ上げると、対面に奈々子が座っているのが確認できた。ただ、それ以上は視線を上げず、再び俯いた。

 この部屋にくるまでのあいだ、光陽は奈々子に何を言ったのか、奈々子は光陽にどんな言葉を掛けたのか、僅かばかりも思い出せなかった。


 光陽は指で目の辺りを触ってみる。

 まだ少し濡れていた。


「光陽さん……」

 名前を呼ばれ、顔を上げる。

 奈々子と視線が交わる。

 彼女は、沈痛な面持ちで光陽を見つめていた。見ているこちらが居た堪れなくなるくらいの目をしていた。

 光陽は、目を伏せた。とても人の目を見られる精神状態ではない。奈々子なら、なおさら。


 奈々子を幸せにしてあげてという真由美の声が脳内で再生される。

 あなたも幸せになってという真由美の声が脳内で再生される。

 さようならという言葉が、何度も木霊している。


「光陽さん、私にできること、何かありますか?」

 奈々子の優しい言葉に、返答しなければいけない。そう思い、必死に口を開いた。

「奈々子ちゃんは……」

 しかし、続く言葉が出てこない。

「大丈夫です。無理に話さなくても。気持ちが落ち着くまで、このままでいいです」


 真由美を失った悲しみの中にいながら、段々と、奈々子に辛い思いをさせていることへの情けなさも感じ始めていた。

 自分は何をやっているんだという、苛立ち。

 その思いが、光陽の顔を上げさせた。

 再び奈々子と視線が交わる。


 奈々子は、コーヒーカップの方に向かって手を伸ばした。

「温かいうちに飲んでください。少しは気が落ち着くかもしれません」

 光陽はこくりと頷き、カップを手に取りコーヒーを飲んだ。

「相変わらず、奈々子ちゃんの淹れたコーヒーは美味しいよ」

 自然と出た本音だった。

「また褒めてもらえた。嬉しいな」

 奈々子は微笑みを浮かべた。


 そんな奈々子を見て、いっそのこと全てを話してみようかと思った。あの事故のあと、光陽と真由美に何が起きたのか、真実を打ち明けようか。一度は真由美に止められたが、その真由美はもういない。

 もっとも、奈々子に真実を話したところで、真由美は戻らないのだが……。

 と、その時、光陽の頭にある考えが浮かんできた。


 それは、ほんの僅かな可能性。


 もし真由美が消えていなかったとしたら。そんな思いが生まれていた。

 真由美がした話は、全て作り話なのではないか。

 何のために?

 光陽と奈々子をくっ付けるための、嘘。

 ふたりのことを思って身を引いたというのは本当だが、光の話は嘘。つまりまだ真由美は光陽の中にいる。たとえ一パーセントでも、その可能性は残されているのではないか。


 扉の形をした光が見えているという話を思い返す。

 聞いている時は、混乱した状態だったから、辻褄が合っていると答えを出した。  

 しかし、改めて考えてみると、作り話の可能性も残されていることに気づく。


 真由美には、視覚と聴覚の二つしかないはずだが、光に引っ張られると言っていた。そういう感覚になると。真由美の状態からすると、その発言は矛盾しているのではないか。

 真由美の感覚は、普通のソレとは違うだろうし、比喩として引っ張られるという言葉を使ったのかもしれない。あるいは、光に接した時だけ、触覚のような感覚が生まれているのかもしれない。


 どちらとも取れる。それはつまり、真由美の話が嘘という可能性もあるわけだ。

 

 光の話が嘘であれば、真由美はいつからこの計画を練っていたのだろうか。

 恐らく、奈々子の変化に気づいた直後からだろう。奈々子は、いつか光陽に想いを告白する。それを見越して、真由美は知略を巡らせていた。今日という日のために……。


 自分の存在を消し、大切に思っているふたりを結ばせる。

 普通は、できない。この先一生、声を出さずに光陽の中で生き続けるなど、今まで以上に辛く苦しい時間になるのは想像に難くない。

 だが、真由美の性格なら、彼女の精神力なら、それをやってのけるだろう。

 彼女なら……。


 真実がそのとおりであるのなら、このままにしていてはいけない。彼女に非情な犠牲を強いてまで、幸せになろうとは思っていない。そんな幸せは、どこにも存在しない。


 段々と、心の中に真由美を感じるようになってきた。

 錯覚か?

 いや、これは錯覚ではない。

 光陽の思いは、やがて確信へと変わる。

 真由美は、まだこの身体の中にいる。


 光陽は考えを巡らせる。どうすれば真由美に声を出させることができるだろうか。強固な意志で存在を消した真由美である。そう簡単に声を出すはずがない。たとえばここで奈々子に真実を話そうとしても、真由美は表に出てこないだろう。その程度のやり方ではダメだ。普通のやり方では、真由美の鉄の意志は砕けない。

 どうすればいい。いったいどうすれば声を出させることができる。


 まるで啓示のように、ふっと光陽の頭にその方法が浮かんだ。

 光陽は思わず立ち上がっていた。

 この方法なら、真由美に声を出させることができるかもしれない。


「奈々子ちゃん、ごめん。今日はこれで帰るよ」

「そうですか……。わかりました……」


 奈々子の心の中は、疑問で埋め尽くされていただろう。

 光陽の方から会いたいとメールしてきたのに、なぜ道端で号泣していたのか。

 何も答えずに、心配している奈々子を残していくのは心苦しかったが、今は一刻も早く思いついた方法を実行に移したかった。


 玄関のドアを開けた時、背中に声を掛けられた。

「このまま帰るんですか?」

「……いや、ちょっと確かめたいことがあるんだ」

「それは、姉に関することですか?」

 何かを感じ取ったのだろうか。奈々子はズバリと言い当てた。

「……うん」

「また、会えますよね?」


 その問い掛けは、二つの意味に捉えることができる。

 奈々子が、どちらの意味で訊いたのかはわからない。

 だが、彼女の表情は、何かを察知しているようにも見受けられた。


 光陽は答えなかった。いや、答えられなかった。

 このあと自分がどんな道を辿り、どんな結末を迎えるのか、予測できなかったから。


「私は、また光陽さんに会いたいです。会って、色んな話をして、また手料理を食べてもらって、味を褒めてもらいたいです」


 切ない笑みを浮かべる奈々子を見て、光陽の心臓がどっくんと跳ねた。奈々子に対して、今までなかった感情が生まれたような気がした。


 奈々子を悲しませるな。

 愛する人の声で、その言葉が再生された。


 光陽は両手を固く握り締めていた。


 奈々子にこんな表情をさせてはいけない。

 これ以上辛い思いをさせてはいけない。

 わかっている。わかっているが……。

 自分が愛する人は……。


「奈々子ちゃん、おやすみ」

 それだけ言って、光陽は奈々子に背を向けて歩き始めた。

「光陽さん……」

 名前を呼んだあと、言葉が続いていたが、もう光陽の耳には届かなかった。

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