第二十七話 さようなら

 真由美は消えてしまったのではないか。そんな思いが脳裏を過ぎった。

 いや、そんなはずはない。

 真由美が身体の中にいることは感覚でわかる。三年以上この状態なのだ。

 なあ、そうだろう、真由美?


 ――ずっと言おうと思ってたんだけど。


 光陽みつひろの思いに呼応するかのように真由美の声が聞こえてきた。

 安堵したが、その気持ちも一瞬で消え去った。

 真由美の声は、震えていた。


「な、何を?」

 そう訊いた光陽の声もまた、震えていた。


 ――光が見えているの。

「光?」

 ――ええ。扉のような形をした、金色の光が見えているの。


 光陽の心臓の鼓動は、限界にまで達していた。

 真由美の言う金色の光とは、何だ?

 いや、そもそも、真由美は光陽の目を通してしか物を見ることができないはず。光陽の頭は混乱し始めていた。


「いったいどういうことなんだ? 俺の目を通してしか物を見ることはできないはずだろう?」

 ――確かに私はあなたと同じ物を見ているけれど、同じ距離じゃない。私は、あなたが見ている物を、半歩引いた感じで見ているのよ。その半歩分のあいだに、扉の形をした光があるの。

 混乱している頭でも、その真由美の説明はすんなりとイメージできた。扉の形をした光が、光陽の脳裏に浮かんでくる。


「……その光って、いつから見え始めたんだ?」

 ――見え始めたのは、一年くらい前よ。

「一年前……」

 ――その光に、私の意識が引っ張られそうになる時があるの。

「引っ張られる?」

 ――ええ。常時そうなるってわけではなく、時々だけどね。引っ張られることに対して、抵抗する意識を持てば、その場所に踏み止まれるの。光陽、あなたが私に何かを訊いてきた時、私の返答が遅くなることが度々あったんだけど、それに気づいてた?

「ああ……気づいてたよ」

 ――何で答えるのが遅くなる時があるのかというと、その光に引っ張られている最中だったからなの。引っ張られる感覚になった時、私はいつもその場に留まることを意識していたわ。綱引きのような感じね。そうしていると、やがて元通りになる。だから、あなたに言葉を返すのが遅くなる時があったの。


 過去を振り返る。

 真由美の言っていることは、辻褄が合っていた。

 少なくとも、光陽は納得ができた。


 ――ねえ光陽。その扉の形をした光の正体が何なのか、わかるでしょう?


 光陽は、バックミラーに映った自分の瞳を見つめて、その光の正体が何なのかを考えた。

 すぐにその可能性に思い当たる。

 どう考えても、光の正体は一つしかないように思えた。

 光陽は、鏡を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


 ――光の向こう側は、この世界とは別の世界。あるいは、何も存在しない場所かもしれない。ただ一つわかるのは、光の向こう側に行けば、本当の意味で私はこの世界から消えるということ。


 光陽の呼吸は荒くなっていた。気づけば、手足が震えていた。


「何でもっと早く教えてくれなかったんだ?」

 ――怖くて言えなかったの。それに、言ってしまったら、あなたは平常心でいられなくなってしまう。

「……じゃあ、何で今日、そのことを話したんだ?」

 ――何も言わずにさよならしたくなかったから。


 意識が遠退く感覚に見舞われる。光陽の額には脂汗が浮かび始めていた。


「それ、どういう意味だ?」

 ――光の向こう側に行ってみようと思うの。

「……何で?」

 ――もうすぐ、奈々子は死んだ私の年齢を上回る。妹が姉の歳を追い越しているのに、その姉がまだこの世界にいたらおかしいでしょう。だから、あの子とバトンタッチしようと思うのよ。

「バトン……タッチ?」

 ――あなたのことを、奈々子に任せようと思うの。奈々子なら、あなたを幸せにしてあげられるし、あなたなら、奈々子を幸せにしてあげられる。だから、私は身を引こうと思うの。

「ちょっと待ってくれ。真由美、自分で何を言っているのかわかってるのか?」

 ――これは、昨日今日出した答えではなくて、奈々子のあなたを見る目が変わり始めた時から考えていたことなのよ。あの子があなたに告白したことで、私は決断したの。

「嘘だと言ってくれ……。本当はそんな光は見えていないと言ってくれ……」

 ――全て真実よ。私はもう、この世界にいるべきではないの。


 胸が張り裂けそうな痛みに襲われた。光陽は胸を強く押さえた。押さえていないと、本当に張り裂けてしまいそうだった。


「何でそんな決断を……ずっとふたりでやってきたじゃないか……これからも今までどおりやっていこう……俺たちふたりなら、ずっと一緒にやっていけるよ……」


 真由美は、言葉を返してくれなかった。


「俺のことが、嫌いになったのか?」

 ――そんなわけないじゃない。私は今もあなたのことが好き。

「じゃあ、何で離れようとするんだよ。もしかして、奈々子ちゃんに気を遣ってるのか?」

 ――違う。私は誰にも気を遣ってない。

「じゃあ、何でだよ……」

 ――もう、疲れたのよ。光陽のことは好き。愛してる。でも、この生活に疲れたの。私は、楽になりたい。


 疲れた。楽になりたい。

 その言葉は、光陽の心に重く響いた。

 魂だけの存在になってしまった真由美の思いを、誰が否定できるだろうか。そんな権利は、誰にもない。

 わかっている。理解できる。

 だが、それでも、光陽はこのまま真由美を逝かせてしまうことに納得できないでいた。理屈では、そうするのが彼女のためだとわかっていても、離れたくないという気持ちの方がまさった。


 何か言わなければいけない。

 そんな思いが、光陽の頭の中をぐるぐると回っていた。どんな言葉でもいい。声に出さなければ、本当に真由美は逝ってしまう。早く何か言わなければ……。

 けれど、たった一文字の言葉さえ浮かんではこなかった。

 静寂を破ったのは、真由美だった。


 ――あなたたちなら、きっとうまくやれる。私は、光陽にも奈々子にも幸せになってほしいの。特に光陽には、幸せになる権利があるわ。今まで十分に頑張ってくれた。私に気を遣いすぎるくらい気を遣って、献身的に一緒に生きてくれた。でも、もうこれで十分。これ以上苦しむことはない。このまま私と同じ道を歩んでいたら、あなたは幸せにはなれない。でも、私が離れれば、あなたは新しい道の上を歩けるようになる。そしてその道の先に、あなたが本来手に入れるはずだった幸せが待っているの。

「俺は、この三年半のあいだ、ただの一度も自分が不幸せだなんて思ったことはないし、真由美との暮らしに満足していたんだ……」

 ――それは嘘よ。この生活に満足していたなんて、嘘。この世の誰一人として、私たちのような状況を幸せだなんて言える人はいない。こんなに不幸なことってないもの。世界で一番愛している人の側に居られるのに、決して触れることはできない。こんな残酷なことってないわ。私は何度も運命や神様を呪った。何も悪いことをしていないのに、何でこんな酷い仕打ちを私たちが受けなければならないのかって。突然現れたこの光は、そんな私の思いが通じた結果なのかもしれない。私が光の向こう側に行けば、光陽はいばらの道から抜け出せる。そして私も、楽になれる。


 話を聞いている途中で、光陽の頬を涙が伝い始めていた。


「あんまりだ……ずっと一緒だと思っていたのに……事故にさえ遭わなければ、今頃子供でも生まれて幸せに暮らしていたはずなのに……それなのに、邪魔をされて……二度と顔を見ることができない状態にされて……それでも死ぬまでずっと一緒だと思っていたのに、ひとりで逝ってしまうなんて……あんまりだ……」

 ――奈々子があなたを助けてくれるわ。今は底のない悲しみの中にいるようでも、奈々子と時間があなたを苦しみから救い出してくれる。


 光陽は、涙で濡れる目で、睨むようにバックミラーを見つめた。


「真由美が俺を残して逝ってしまうのなら、俺も死ぬ。今からビルの屋上に行って――」

 ――バカなこと言わないで。

 真由美の声は怒声に近かった。

 ――そんなこと、絶対に許さない。あなたが死んだら、どれだけの人が悲しむと思ってるの。奈々子だって、自分を責めるわ。自分の言動があなたの自殺を招いたんじゃないかって。だから、絶対に自殺はさせない。そんなことをしたら、私はあなたを軽蔑する。向こうの世界で会っても、あなたとは二度と口を利かない。


 今まで一度も聞いたことのない真由美の強い口調に、光陽は平手打ちをされた気分になった。


 ――私、今までそんなに我侭わがままを言わなかったでしょう? だから、最後に私の我侭を聞いて。どうか私を向こうに行かせてほしい。

 光陽は震える両手で頭を押さえた。

「そんなこと、いきなり言われても、答えを出せないよ。なあ、もう少し考えてみないか……そんなに急がなくてもいいじゃないか……光はずっとあるんだから……」

 ――延ばすことはできない。もしここで躊躇ってしまったら、きっとこのまま一生ずるずるといってしまう。それは誰のためにもならない。


 その言葉を最後に、再び長い沈黙がやってきた。

 もう、光陽にこの沈黙を破るだけの気力はなかった。何かを言った瞬間に真由美が消えてしまいそうで、巨大な力に怯える小動物のように、じっと身を固めたまま動けなかった。

 メールの受信音が響く。

 奈々子からのメールだろうが、それを確認する余裕もなかった。


 ――さあ、奈々子のところに行ってあげて。今ここから、あなたの新しい人生が始まるの。

「ちょっと待ってくれ……真由美、待ってくれ……」

 ――私の分まで幸せになって。

 光陽は首を振りながら窓ガラスを叩いた。

「こんな終わり方ってないよ……。なあ、本当に俺のことを想ってくれているなら、もう少し待ってくれ。まだ、話したいことがたくさんあるんだ……まだ、真由美と離れたくないよ……」

 ――ねえ、光陽。私のこと、今も愛してる?

「当たり前だろ。愛してるよ。俺が愛してるのは、今までも、これからも、真由美だけだ。だから、逝かないでくれ。ずっと側にいてくれ。頼むよ……」

 ――最後にその言葉が聞けて良かった。私も光陽のこと愛してるよ。これからもずっと。この世界で、あなたに会えて良かった。この三年半も含めて、幸せだったわ。今度は奈々子を幸せにしてあげて。そして、あなたも幸せになって。今までありがとう。さようなら。


「逝っちゃダメだ! 真由美!」

 沈黙。

「真由美?」

 沈黙。

「真由美、返事をしてくれ、なあ……」

 沈黙。


 気が狂いそうだった。何かが頭の中で破裂しそうだった。

 光陽はほとんど無意識のうちに車を降りていた。ふらつく足取りで歩き始める。どこに向かっているのだろう……奈々子のマンションに向かっているのか、それとも別の場所に向かっているのか、もはや自分でも判断できなかった。


 真由美。

 呟いてみる。

 返事はない。

 真由美。

 もう一度呟いてみる。

 返事はない。

 不意に全身の力が抜けた。民家の塀にもたれ掛かりながら、地面に崩れ落ちる。その体勢で、滂沱ぼうだの涙を流し続けた。

 ふっと、どこからか声が聞こえてきた。

 それは彼を呼ぶ声のようだった。

 耳を澄ます。

 それは愛する人の声に似ていた。

 振り返ると、奈々子が立っていた。

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