第二十六話 胸騒ぎ
浅い眠りだった。目覚まし時計が鳴るより早く
光陽は溜息を吐きながらベッドから出て、洗面所に向かった。鏡の中の自分の顔を見ながらおはようと声を掛けると、おはようという言葉が返ってくる。顔を洗い、髭を剃り、髪型を整え、チノパンと青色のTシャツに着替えた。
「準備できたよ。もう行く?」
――朝ご飯は?
「さすがに今日は食べる気分じゃないよ」
朝ご飯の大切さを説いている真由美も、それ以上は何も言わなかった。
アパートを出て車に乗り込む。
「ドライブする場所はどこでもいい?」
――ええ。どこでもいいわ。
光陽はエンジンを掛け、アクセルを踏んだ。
真由美は昨夜から引き続き明るかった。たとえば交差点に差し掛かった時や生活道路を走っている時など、いつもなら気を遣って声を出さないのだが、この日はどこを走っていても延々と話し続けていたし、映画を観ている時も、いつもは黙って観ているのに、こんな男は許せないとか、展開が難解すぎてもうちょっと説明してほしいなどと怒った声を出していた。光陽が奈々子のことをずっと考えているのとは対照的に、真由美はそんなことは一切考えていないかのような様子だった。
一通りの場所に足を運んだあと、海に連れて行ってほしいと真由美は言った。
夏本番。土曜日ということもあって、砂浜も海も人、人、人で埋め尽くされていた。光陽は人波を縫うように歩き、砂浜の端まで進む。
近くでは、男四人が女四人をナンパしていた。全員大学生だろうか。会話の内容までは耳に入ってこなかったが、程よく日焼けした爽やか系の男ふたりが、女たちを笑わせていた。
断続的に聞こえてくる笑い声を背に、寄せては返す波打ち際まで足を運ぶ。先の方では多くの人が海に浸かっていたが、真由美と会話をする分には支障はなかった。
――ごめんね。泳ぐわけじゃないのに、こんなところまで来させて。ひとりだと目立っちゃうよね。
「いや、俺も久しぶりに海を見たかったから、ちょうど良かったよ」
――どう、潮の匂いは?
光陽は大きく息を吸い込み、潮の匂いを嗅いだ。
「気分が落ち着く、いい香りだ」
――私も、見聞きするだけじゃなく、せめて匂いまで嗅げるようにしてほしかったな。
真由美の思いに、どんな応答をしようか迷った。
少し考えた結果、軽いノリの言葉を返すことにした。
「でも、匂いも強制的に嗅ぐってことは、俺がたまにする強烈な放屁も嗅がなきゃいけないんだぞ」
――あ、そうか。それならこのままでいいや。
「おいおい。フォローなしかよ」
――ふふふ、冗談よ。
光陽はしゃがみ込み、止まることのない波の動きを目で追い続ける。波が足元までくる度に、歪んだ光陽の顔が映り込む。
――暑い?
「いや、風が吹いてるからそうでもない」
――海を見ながらビールでも飲みたくなってきたでしょう?
「……そんな気分じゃないよ」
無意識に声のトーンは落ちていた。
しかし真由美は気にした様子もなく言葉を繋げる。
――この青い海は、百年後どうなってるのかな?
脈絡のない語り掛けに、光陽は思わず笑みを浮かべた。
「どうしたんだよ、急に」
――あら、私は昔から環境問題に関心を向けていたわよ。これは素朴な疑問。人間の生活が便利で豊かになるにつれて、自然はどんどん壊されていく。エコが声高に叫ばれてはいるけど、本当にこの綺麗な海を守れるのかな。
その真由美の疑問に、光陽も考えを巡らせてみる。
考えている光陽の目に、手足を精一杯動かして泳ぐ男の子の姿が映った。その側では、父親であろう男性が、笑いながら何やら言葉を掛けていた。
「そうだな、どうなるんだろう。百年後は、ちょっと想像がつかないな」
――大事にしないとね。
「自然を?」
――そう。でも、まずは自分自身を大切にすることね。人間ひとりひとりがしっかりしていないと、自然は守れない。自分を大切にできれば、自然も守ろうという気持ちになれる。私はそう思う。
「うん。そうだな。真由美の言うとおりだ」
それからしばらくのあいだ、光陽も真由美も黙って海を眺め続けた。
ナンパが成功したのだろうか。近くにいた男女八人が、揃って海の家の方へ移動し始めた。
視線を海の方に戻した時、真由美の声が聞こえてきた。
――光陽、ありがとう。今日はたっぷり楽しんだわ。
「もう行きたいところはない?」
――ええ。満足したわ。
そこで光陽は今日初めて、奈々子の名前を口にしてみることにした。
「それで、奈々子ちゃんのことなんだけど、昨日の夜言ったこと、本当なのか? 奈々子ちゃんも俺も傷つかずに済ませる方法があるって話」
――本当よ。まあ、厳密に言うと、奈々子は傷つかない、かな。
その言葉を聞いて、光陽の心に少しだけ波が立った。
「……え、俺は?」
――少しだけ、傷つくかな。
「……少しだけか?」
――たぶん。
奈々子は傷つかない。光陽は少しだけ傷つく。
果たしてそれはどんな決着の仕方だろう。
思案してみようとしたが、真由美の言葉に遮られた。
――ねえ光陽、奈々子の家に向かって。
「え、今からか?」
――そう、今から。
「昨日は、日曜日に会おうって言ってなかったか?」
――気が変わったの。今から奈々子に会いましょう。
光陽の鼓動が早鐘を打ち始めた。
なぜ、そんな思いになったのか説明できないが、嫌な予感のようなものが心の中に生まれていた。
「なあ、真由美の言う最善の方法を教えてくれないか?」
――それはまだダメ。まず奈々子にメールしてみて。今日会えるかどうか。
なぜ今教えてくれないのだろう。
おかしくないか?
いつ教えても、結果に影響はないはずだ。
……教えるタイミングで結果に影響が出る?
まさか、そんな。
奈々子に対して、どんな言葉を並べるにしろ、断るという答えには変わりがないのだから、結果も変わらないはずだ。それなのになぜ、真由美はその最善の方法を教えようとしないのだ。
光陽の思いを察知したかのように、真由美が急かす言葉を発する。
――ねえ、早く奈々子にメールをして。
「……わかったよ」
光陽はスマホを取り出し、これから会えないかと奈々子にメールをした。
それを見届けた真由美が、
――それじゃ、今から奈々子の家に向かいましょう。
「え、まだ返事がきてないよ」
――大丈夫よ。あの子があなたと会うのを断るわけないんだから。
言われたとおり、光陽は駐車場に戻って車に乗り込むと、奈々子の家に向かって車を走らせた。
十分、二十分と経っても、奈々子からの返信はなかった。それでも止まることなく光陽は車を走らせ続ける。
運転しながら、昨夜の真由美の言葉を思い返す。
真由美によれば、奈々子は一年ほど前から光陽に好意を寄せ始めていたという。
一年。長い時間だと思う。楽しい時間ならあっという間だろうが、果たして奈々子にとってこの一年間は楽しい時間だったのだろうか。奈々子は、光陽と会っている時に何を考え、ひとりの時に何を思っていたのだろう……。
もし、と思う。
もし奈々子が、光陽のことを思って恋人を作らなかったのだとしたら、こんな罪なことはない。奈々子ほどの女性なら、他にいい男を見つけられる。光陽の前で立ち止まって時間を無駄にしてはいけない。早く奈々子を前に進ませないと。それが光陽にできるせめてものことだった。
五十分かけて、奈々子のマンション近くのコインパーキングに着いた。時刻は四時半。奈々子からの返信はまだなかった。
「奈々子ちゃんからの返事、全然こないな。昨日、俺があんな態度だったから、嫌われちゃったのかな」
――そんなことで嫌いになるわけないじゃない。あの子の想いは、そんな軽いものじゃない。返事が遅れてるのは、手が離せない状態だからでしょう。もう少しここで待ちましょう。
光陽はバックミラーを見つめる。
「なあ、そろそろ教えてくれないか。奈々子ちゃんを傷つけずに解決できる方法というのを」
――その前に……光陽、奈々子のことをどう思ってる?
「どう思うって……どういう意味?」
――そのままの意味よ。奈々子のこと、どう思ってる?
先ほど感じた嫌な予感が、再び生まれた。
胸騒ぎは、どんどん大きくなっていく。
「どう思うって……性格的にってことか?」
――性格だけじゃなく、容姿や考え方も含めて全部。光陽には、あの子はどういう風に見えてる?
「見た目は、そりゃ美人だと思うよ。何せ、真由美の妹だからな。性格もおしとやかだし、頭も良い。それに、料理の腕もプロ級。ずっと彼氏がいないことが不思議だよ」
――私、昨日、奈々子があなたに恋心を抱き始めたのは一年くらい前からって言ったけど、本当はもっと前からかもしれないのよね。たとえば、奈々子はなぜ髪を伸ばし始めたのかしら。これは訊いてみないとわからないけど、奈々子が髪を伸ばした理由が私の外見に似せる、つまりあなたに気に入られるためだったとしたら、その時すでに想いを寄せていたってことになるわよね。そうすると、二年とか、もっと前からあなたを意識していたことになる。
「長い時間だな……。俺なんか、そんなに想われるような男じゃないのに……」
――何言ってるのよ。光陽はいい男よ。あなたがいい男じゃなかったら、あなたを選んだ私の立場はどうなるのよ。
真由美の声音は明るかった。その明るさが、光陽の胸騒ぎを加速させた。
「そうだな。じゃあ、俺も男としてまだまだ自信を持っていいのかな」
不安を搔き消すように、光陽は努めて明るく言った。
しかし、その言葉に対し、真由美の返答はなかった。
唐突な沈黙。
光陽はバックミラーに映る自分の瞳を凝視する。
「真由美?」
呼び掛けるが、応答はない。
「真由美……どうした?」
応答はない。
もう一度名前を呼ぼうとした時、メールの受信音が車内に響いた。
《お返事が遅れてごめんなさい。仕事の関係で外出中なんです。用事が予定どおり終わるなら七時までには帰れると思います。それでもいいですか? できるだけ早く帰れるようにしますけど》
光陽はマンション近くのコインパーキングにいることを伝え、帰ってくるまで待っていると書いて送信した。
光陽は再びバックミラーを見つめる。
「なあ、真由美、どうしたんだ? 何か言ってくれ……」
それでも、真由美の声は聞こえてこなかった。
いったいどうしたというのだろう。
何かを思案しているにしても、光陽の声が聞こえないほど熟考しているというのは考え難い。
では、何か別の理由があるのだろうか。
これまでにも、真由美の応答が遅いことは何度かあった。ここ一年くらいは、その回数ははっきりと増えていた。しかしここまで沈黙が続いたことは、記憶にない。
胸騒ぎは、正しかったのかもしれない。
何かが、起ころうとしている。あるいは、すでに起こっている。
光陽は、はっきりと感じ取った。
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