第二十五話 戸惑い

 その一瞬、光陽みつひろの頭の中は真っ白になった。

 今、奈々子は、確かに、光陽のことを好きだと言った……。

 奈々子が、自分に好意を寄せていた?

 いつから?

 自分が気づかなかっただけか?

 全然……本当に全然わからなかった。


 奈々子は告白したあと、ずっと俯いていた。

 真由美!

 光陽は心の中で話し掛ける。真由美、俺、どうしたらいい? どうすればいいかわからない。真由美、助けてくれ。


 どのくらい沈黙の時間が流れたのだろう。すっと奈々子が立ち上がった。

 光陽は奈々子は見上げる。視線が交わる。しかしその心は全く読めなかった。

「今日は、帰ります」

 そう言い置き、奈々子は玄関の方に歩いていく。

 光陽は考えるより早く立ち上がって追いかけていた。

 靴を履き終えた奈々子の後ろ姿に向かって、光陽は声を掛ける。

「送っていくよ」

 奈々子は振り返って、

「いえ、ひとりで帰ります。そうした方がいいと思います」

「じゃあ、家に着いたら、メールだけでもしてくれないかな?」

「わかりました。それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみ……」

 鉄のドアは重々しい音を立てて閉められた。




 しんとした室内で、光陽は胡座あぐらをかいて天井を仰いでいた。

「真由美……真由美……」

 光陽は呪文のように名前を呼び続ける。

 ――うん。聞こえてるわよ。

「今の話、全部聞いてただろ?」

 ――ええ。

「俺、びっくりして、何も言えなかった。だって、そんな素振り全然なかったから……」

 ――私も驚いてる。あなたとは驚いてる理由が違うけど。

「どういうこと?」

 ――私は知っていたってこと。奈々子があなたに想いを寄せていることを。

 鈍器で殴られたような衝撃が光陽を襲った。

「何で教えてくれなかったんだ?」

 ――言ってどうするの? それを言っても、あなたを悩ませるだけでしょう?

 なるほど。確かに真由美の言うとおりだ。光陽は深い溜息を吐いた。

「いつ頃からなんだ? 奈々子ちゃんが俺のことを想うようになった時期は」

 ――恋心を抱いたのがいつなのか、はっきりとはわからないけど、あなたを見る眼差しが変化し始めたのは、一年くらい前からね。微妙に、メールの内容や話し言葉に変化が表れ始めたのよ。それはただ単純に会う回数、話す回数が多くなったから変化していったというものではないわ。あなたに良く想われたい、もっと親しくなりたいから、意識して変えたのよ。

「その変化って、女性だから感じ取れることなのか? 男でも、洞察力が鋭ければ、奈々子ちゃんの気持ちを感じ取れたのかな?」

 ――たぶん、性別は関係ないと思う。

「そうか……。俺、相当鈍いよな……」

 ――そうね。鈍いかもね。

「知らなかったとはいえ、色々傷つけるようなこと言っちゃったな。早く彼氏作りなよとか、会社の男紹介しようかとか言ったこともあったっけ。バカだな、俺」

 ――その発言自体は、別に妹を傷つけてないわよ。妹も、あなたが鈍感な人だって知ってるはずだから。

 そこで初めて真由美は笑った。光陽も苦笑する。

「でも、なんで俺なんか……もっと他に男はいるだろう」

 ――男の趣味も私と似たのよ。奈々子があなたを好きになったことに、特別な驚きはないの。私が驚いているのは、奈々子があなたに告白したことなの。私のことを思って、告白はしないだろうなって思ってたんだけど……きっと気持ちを抑えられなかったのね。


 光陽は、真由美の達観したような口調に、何となく胸のざわつきを覚えた。しかしその正体が何なのか、見極めることはできなかった。


「好きだと言ってくれたこと自体は嬉しいけど、でも、断るしかないし……気まずくなっちゃうな」

 ――それは大丈夫。円満に解決できる方法を考え付いてるから。

 光陽は驚きのあまり立ち上がっていた。

「ほんとに? そんな方法があるのか?」

 ――ええ。奈々子もあなたも傷つかない方法がね。


 ふたりとも傷つかない方法がある?

 俄かには信じられなかった。

 どうあっても断るしかないわけだし、どういう断り方をしても、奈々子は傷つくはずだ。奈々子だけじゃない。断らなければいけない光陽も、心を痛めることになる。それなのに、真由美は、円満に解決できる方法があるという。

 短い時間でその方法を考えてみたが、とてもそんなものがあるとは思えなかった。そんな解決の仕方は不可能にしか思えなかった。


「なあ、それはどんな方法なんだ? どんな断り方でも、円満な解決にはならないと思うけど……」

 ――それは次に奈々子と会う時に話すわ。奈々子に会う少し前に、その方法を教える。

「……わかった」

 わかったという他なかった。

「奈々子ちゃんと、いつ会えばいいんだ?」

 ――そうね……今度の日曜日にしましょうか。奈々子の都合も聞かないといけないけど、たぶん大丈夫よ。

「ああ……」

 ――ねえ、明日、デートしましょうよ。

「いいけど……どこか行きたいところがあるのか?」

 ――ううん。ドライブして、映画観て、ショッピングして、いつもどおりでいいわ。あなたとふたりきりの時間を過ごせれば、それでいいわ。


 会話をしながら、光陽は首を傾げていた。

 真由美のこの明るさは何なのだろう。無理に明るくしているという風ではない。表情は見えなくても、それはわかる。妹が告白してきたというのに、マイナス的な感情は一切感じられない。本当に、ふたりが傷つかない方法があるということなのか……。


 午後十一時を過ぎても、奈々子からのメールは届かなかった。どうしたのだろう。メールするのを躊躇っているのだろうか。更に三十分待ったが、メールはこなかった。

 溜息を吐きながら布団の中に入る。目を閉じて見えるのは、悲しげな表情の奈々子だった。

 やがて眠りに落ちようかという頃、メールの受信音が部屋に響いた。

 光陽は目を開けて、スマホを手に取った。


《居酒屋でお酒を飲んでいたので、帰るのが遅くなりました。今、家に着きました。

 駅で酔っ払いのおじさんに絡まれてしまいました。絡まれたことは何回かありますけど、腕を掴まれるような絡まれ方は初めてで、かなり怖かったです。やっぱり送ってもらった方が良かったですかね。でも、駅員さんに助けてもらって、それ以上は何もなかったんで大丈夫です。心配しないでください。

 おやすみなさい》


 その文面は、光陽の心をひどく締め付けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る