第二十四話 告白
郵便受けからハガキやチラシなどを取り出してから階段を上がると、玄関の前に奈々子が立っていた。両手には、スーパーのビニール袋とケーキ箱が提げられている。
「あれ、もう着いてたんだ。早かったね。だいぶ待った?」
「いえ、十分前くらいに着きました」
「そう。さ、中に入って」
光陽は玄関のドアを開け、奈々子を招き入れた。奈々子がスリッパを履いて部屋に上がった時、そういえば真由美以外の女性を部屋に入れるのは初めてだなと思った。
「わあ、綺麗にしてますね」
奈々子は感心したように室内を見回している。
「もっと散らかってると思った?」
「あ、いえ、そういう意味ではないです。――それぞれの家具の色もいいですね。部屋に統一感が出ていて、とてもお洒落」
「ほとんど全部、真由美に言われて買った物だけどね。そのソファなんかも、去年真由美に言われて買った――」
誰かと真由美に関する話をする時、当然彼女は亡くなったものとして話を進める。だが、細心の注意を払っていても、たまにこうやって口が滑る時がある。
しかしそれは仕方のないことだ。真由美は生きているのだから。光陽の中で生きているのに、死んだ人間として扱わなければならないというのは、何年経っても慣れることはなかった。
こんな風に、うっかり『真実』を話してしまったことは、一度や二度ではない。その多くは、奈々子に対してのものだった。いつも途中で気づき、口を
たぶん、真由美を失くした悲しみから完全には解放されていないのだなと、そんな風に思っているのではないだろうか。
短い時間で、どう取り繕おうか考えを巡らせていると、真由美のフォローが入った。
――最初は別のソファを買おうと思ってたんだけど、真由美が夢に出てきて、趣味が悪いからこのソファにしなさいと言われたって、笑い話に変えなさい。
光陽は笑いながら、真由美に言われたことをそのまま話した。すると奈々子は、少し安堵したような微笑みを浮かべ、納得したように頷いた。
「それじゃあ、夕飯を作るので、台所を借ります」
「どうぞ」
「エプロンはありますか?」
「あるよ。ちょっと待ってね」
光陽は椅子の上に掛けてあったエプロンを奈々子に手渡した。
「可愛らしいエプロンですね」
「ああ……真由美が使ってたやつなんだ」
「姉が……。じゃあ、姉に負けないように、美味しい料理を作らないといけませんね」
「楽しみに待ってるよ」
「光陽さんはお風呂に入ってきてください。三十分くらいして出てくると、ちょうど食べられるようになっていると思います。あ、でもお湯を溜めないといけませんね」
「あ、いいよ。俺ほとんど毎日シャワーだから」
「ダメですよ。ちゃんと湯船に浸かって一日の疲れを取らないと。シャワーの方をたまに、にしてください。姉に言われませんでしたか?」
頭の中で、くすくすと真由美が笑った。
光陽は頭を掻いた。
何だか、本当に真由美に注意されているような感じだった。
「言われてみれば、そういうことを言われた気もするかな……」
「私、お湯を溜めてきますね。熱さは四十二度でいいですか?」
「いや、自分でやるよ」
「いいですよ。光陽さんは座ってテレビでも観ていてください」
光陽が返事をする前に、奈々子は浴室へと消えた。
光陽は言われるままにソファに座ってテレビを点けた。戻ってきた奈々子は台所に立ち、野菜や肉を切り始めた。包丁が俎板を叩く小気味良い音が室内に響いている。
似ているな、と光陽は思った。髪を伸ばした奈々子の後ろ姿は、真由美にそっくりだった。その後ろ姿をじっと見ていると、そこにいるのが本当に真由美であるかのような錯覚に陥った。
「真由美……」
思わず口から言葉が零れてしまったが、奈々子には気づかれなかったみたいだ。真由美にはその声は届いているはずだったが、何も言ってはこなかった。
やがてお湯が溜まったことを知らせるブザーが鳴る。光陽はタオルと下着を持って浴室に向かった。入浴剤を入れ、身体をお湯で流してから、緑色の湯船に浸かる。奈々子には聞こえないように、光陽は小声で真由美に話しかける。
「さっきは危なかったな。まあ、バレることは絶対にないんだけど……」
――奈々子、相当張り切ってたわね。あなたの誕生日をきちんと祝えるのが嬉しいんだろうな。
「有り難いよ」
――ほんとにそう思ってる?
「もちろん」
――それじゃあ、全部食べてあげないとね。
「当然。残すわけないじゃないか」
風呂を出て部屋に戻ると、食卓の上には豪華な料理が並べられていた。
クリームシチュー。チキン南蛮。チーズハンバーグ。マグロのたたき。海鮮サラダ。赤ワイン。そして蝋燭が三十二本立てられているデコレーションケーキ。店で出されるものと遜色のない、見た目が鮮やかな料理だった。
「これは、すごいご馳走だね……。全部作ったの?」
「はい。ケーキ以外は手作りです」
「奈々子ちゃんって、調理師免許も持ってるんだっけ?」
「ふふふ。見た目だけじゃなく、味も気に入ってもらえると嬉しいんですけど」
「早速いただいていいかな?」
「はい、どうぞ。あ、その前に蝋燭を消しましょう」
奈々子はガスマッチを手に取ると、蝋燭に一本ずつ火を点けていく。蠟燭に火が点く度に、光陽は重ねてきた年齢を感じた。
三十二本の蠟燭に火が点くと、奈々子はハッピーバースデーを歌い始めた。ちょっと照れ臭かったが、光陽は黙って心地良い声音の歌声を聴いていた。奈々子が歌い終わると、光陽は一気に三十二本の蝋燭の火を吹き消した。奈々子が笑顔で拍手する。
「三十二歳のお誕生日、おめでとうございます。素敵な一年になりますように」
「ありがとう。こんな風にお祝いしてくれて、本当に嬉しいよ」
「さあ、それじゃあ、食べてみてください」
「はい。では、いただきます」
光陽はスプーンでシチューとじゃが芋を掬い上げ、よく噛んでから飲み込んだ。思わず、美味いという言葉が出てきた。
「本当ですか?」
不安げな表情の奈々子。
光陽は大きく頷いた。
「本当だよ。一ミリのお世辞もなし。最高に美味しいシチューだよ」
光陽の感想を聞いた奈々子の表情は、見る見るうちに明るいものへと変わっていった。
「良かったぁ。手料理を誰かに食べさせること自体、随分久しぶりのことでしたから、ほんとに緊張したんです」
喜ぶ奈々子の言葉を聞きながら、光陽は他の料理にも手をつける。
チキン南蛮も、チーズハンバーグも、そして海鮮サラダも、全て美味だった。今の光陽には、箸が進むという表現がぴったりと当て嵌まる。久しぶりの食事にありついた人間であるかのように、どんどん胃袋に収めていった。
食べながら、これは自分好みの味なのだと思った。たとえばハンバーグと一口に言っても、手作りなわけだから、作る人によって食感は変わる。ザラザラしているのか、ヌルっとしているのか。奈々子の作った料理は、全て光陽好みの食感だった。
料理の三分の二ほどを食べた光陽は、一旦箸を置いて赤ワインを飲んだ。
「こんなに美味しい手料理は、久々に食べたよ。食べながら思ったんだけど、俺が大好きな味付けなんだよね。まるでプロの料理人に、好みの味を詳細に伝えて出された料理のように。いや、プロの料理人でも、ここまでパーフェクトに作れるかわからない。それくらい、俺好みの食感なんだ」
奈々子は照れたような笑みを顔じゅうに広がらせた。
「もう、それ以上の誉め言葉はありません。入念に準備をして作った甲斐がありました。……ちなみに、姉と比べてどうですか? 同じくらい美味しいですか?」
光陽は笑顔で頷いた。
「うん。同じくらい美味しいよ」
光陽の答えに、奈々子は安堵した顔になった。
しかしその答え方は、真由美にとっては少し不満だったようだ。
――本当は、私の手料理よりも美味しいって言ってあげた方がいいんだけど……まあ、いいか。
奈々子の手料理を食べ終えた光陽は、フォークを握ってケーキを食べ尽くそうかと思ったのだが、この時点でお腹はかなり満たされていたので、奈々子と一緒に食べることにした。
ケーキを食べ終えると、奈々子はハンドバッグの中から包装紙に包まれた長方形の箱を取り出した。箱の真ん中は赤いリボンで結ばれている。
「お誕生日プレゼントです」
「ありがとう」
「気に入ってもらえるかどうかわからないですけど……」
「開けてもいいかな?」
「はい、どうぞ」
光陽は丁寧に包装紙を広げて、中の物を取り出した。ブランド物の腕時計だった。ブランド物に疎い光陽でも知っている有名ブランド。文字盤は眩い輝きを放っている。一見して高価だとわかった。
「この時計、高かったんじゃないの?」
野暮だとわかっていながらも、光陽はそう口に出していた。
奈々子は顔の前で手を振った。
「値段は気にしないでください。長く使ってもらいたいから、それを選んだんです」
そう言われると、光陽ももう何も言えなかった。
「ほんとにありがとう。大切にするよ。俺も、今度の奈々子ちゃんのプレゼントは奮発しないとね」
「いいですよ。こういうのは気持ちですから。――あ、バンドの調整はしてもらっていいですか? 事前に腕時計を貸してもらえればよかったんですけど、内緒にしておきたかったから」
「会社の近くに時計屋があるから、明日早速行くよ。会社の人たち、驚くだろうな。俺がこんな腕時計していったら」
光陽は腕時計を眺めながらそう言った。
次に奈々子に視線を合わせた時、彼女は真顔に戻っていた。
「そういえば、この前知ったんですけど、私の母がお見合いの話を持ってきたんですよね?」
「うん。突然だったからびっくりしたよ」
「相手の情報を詳細に話す前に断られたって母が言ってました」
「俺のためを思ってしてくれたことだから、断るのも気が引けたけど、どうせ断る見合いに顔を出しても、相手に失礼なだけだしね」
「……相手の女性は、あまりタイプではなかったんですか?」
「いや、そういうことじゃないんだ。実は、つい先日も部長にお見合いを勧められたんだけど、やっぱりそれも断ったんだ」
「それは、なぜですか?」
「俺は誰とも結婚する気はないんだ。だから、誰にお見合いを勧められても、全部断るよ」
光陽の決意を聞いた奈々子の瞳は、少し曇った。
「一生、ですか?」
「うん。一生ひとりで生きていくって、あの日……真由美がみんなの前から消えた時に誓ったんだ」
「それは、他の女性と結婚したら姉を裏切るような感じになると思ってるからですか? それとも、誰かを愛したら、また失ってしまうかもしれないという思いがあるからですか?」
「ううん。そうじゃなくて、もう他の女性に気が向かないんだよ。真由美以外の女性を愛する気はないし、そんな感情も芽生えてこない。精神科医から見たら、俺みたいな人間は決して珍しくないと思うんだけど……」
真由美を愛しているから、今のままでいい。それが光陽の本心だった。傍目にはひとりに見えても、彼はひとりではない。光陽の肉体が朽ちるまで、ずっとふたりなのだ。
そんな真実を知らない奈々子の瞳は、悲しみの色を含んだものになっていた。
「そうですね。そういう患者さん、たくさん見てきました。最愛の人を亡くして、行き場を失ってしまった人たちを……。でも、姉は、きっと、光陽さんにずっとひとりで生きていってほしいなんて思っていないはずです」
「これは、真由美の想いは関係ないんだ。俺が決めたことだから……」
「私には、その考えがよく理解できません。光陽さんは、姉が亡くなった頃に比べれば、明るくなりましたし、前向きに生きているように見えます。でも、一方で、一生誰も愛さないと言い切ってしまう。なぜですか? これからの人生で、また愛する人が現れるかもしれないじゃないですか。
奈々子の口調は力強かった。怒っているというわけではないが、今まで耳にしたことのない声音だった。光陽は、なぜこんなに奈々子がムキになっているのか全くわからなかった。精神科医として言っているのか、それとも真由美の妹として言っているのかも……。よく見ると、奈々子の両手は握り締められていた。
「いや、奈々子ちゃんの言ったとおり、俺は前向きに生きてるよ。俺が、その、誰も愛さないと言ったのは……つまり、さっき言ったとおり、他の女性に気が向かないからだよ」
「それは違うと思います。光陽さんは、愛する人を見つけようとしていないだけです。周りが、見えていないんです」
「周りが見えていないということは、ないと思うけど……」
光陽はそう言うのがやっとだった。場の雰囲気は、とても重かった。
「私も、姉が亡くなったという悲しさから、なかなか抜け出せませんでした。まだ話したいことがたくさんあったのに、まだ伝えたいことがたくさんあったのに、最後に交わした言葉があれでしたから……。それでも、私が立ち直れたのは、光陽さんが前向きに生きていく姿勢を見せてくれたからなんです。姉と血の繋がった私と同じくらい、もしかしたらそれ以上に光陽さんも絶望の淵に立たされたのに、私より先に顔を上げて歩き始めた。だから私も、姉との思い出を大切にして、前向きに生きていこうと決心できたんです。それなのに……思い出を美化しているわけでもなく、姉を裏切るという気持ちがあるわけでもないのに……なぜもう誰も愛さないなんて言うのか、本当に私にはわからないんです」
光陽は返すべき言葉を必死に探した。だが、見つけられなかった。
「いいじゃないですか。また誰かを愛したって」
そう言って、奈々子は寂しそうに笑った。
違うんだ! 光陽は心の中で叫ぶ。その愛する人はこの身体の中にいるんだ!
しばらく、沈黙が続いた。
正直、光陽は真由美に助けてもらいたかった。この重苦しい雰囲気を打破できるアドバイスでもしてくれないかと。しかし真由美は何も言ってはくれなかった。彼女はこの状況をどう思っているのだろう。なぜ奈々子がこんなに強く誰かを愛せと言っているのか、その真意をわかっているのだろうか。
沈黙を破ったのは、奈々子のごめんなさいという言葉だった。
「本来なら、私はこんなことを言う立場にありません。ただ、重い一言だったから……もう誰も愛さないという言葉が……」
「それは、精神科医として? それとも、真由美の妹として?」
一瞬の静寂。
二つの吐息。
奈々子はゆっくりと口を開く。
「女としてです」
「女として……」
「私、光陽さんのことが、好きなんです」
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