第二十三話 ふたりの距離2

 ショッピングモールを出た光陽みつひろは、奈々子の自宅に向かって車を走らせていた。車内にはFMラジオが流れていて、女子高生の恋愛相談に対して、優しい声音のDJがアドバイスを送っていた。相談コーナーが終わり、音楽が流れ始めると、奈々子が口を開いた。


「結婚観や生き方が多様化しても、恋愛の悩みは不変ですね」

「百年後も根本は変わってないかもしれないね。……奈々子ちゃんは、恋愛の悩みはないの?」

 奈々子は少し口角を上げて、

「私も、ちょっと悩んでるかもしれません」

「え、そうなの? じゃあ、このDJに相談してみる?」

 光陽は冗談っぽく言ったが、奈々子はそれには答えずに話題を変えた。

「光陽さん、もうすぐお誕生日ですね」

「言われて気づいたよ。十日後か……」

「お祝いしないといけませんね」

「いやあ、もう三十二だから、そんなに祝ってもらわなくてもいいよ」

「ダメですよ、こういうのは大切にしないと。ほら、誕生日は、産んでくれた母親に感謝する日でもあるんですから。――それに、去年はお祝いできなかったから、今年はちゃんとお祝いしないと」

 光陽は去年を思い出しながら、

「仕事が忙しすぎて、来られなかったんだよね。でも、プレゼントは貰ったし、おめでとうって言ってもらったからね」

「プレゼントを渡せたのは三日後で、おめでとうの言葉は電話でしたから。もっとちゃんとしたかったです」

「いや、十分嬉しかったよ。こういうのは気持ちだから。気持ちが籠ってなかったら、どんな高価な物を貰っても嬉しくはないからね」

「そう言ってもらうと、私も嬉しいです」

「奈々子ちゃんももうすぐだね、誕生日。ちょうど一ヵ月後か」

「次の誕生日を迎えたら、二十九歳になります」

「二十九歳か……」

「はい。姉の年齢を上回っちゃうんです」


 真由美は、歴史上は二十八歳で亡くなったことになっている。だから確かに、奈々子は姉の年齢を超えることになる。


 遠くに、奈々子の住むマンションが見えてきた。


「今年の誕生日、光陽さんは誰かにお祝いしてもらったりするんですか?」

「去年に引き続き、そんな予定はないよ」

「じゃあ、時間は空いてるんですね」

「何をしていいか迷うくらいにね」

「お誕生日、光陽さんのお部屋に行ってお祝いしてもいいですか?」

 光陽はちらりと奈々子を見た。

「それはかまわないけど、十日後は平日だから、忙しいんじゃない? 無理してきてもらっても悪いし……」

「大丈夫です。ちゃんと調整しますから。迷惑ですか?」

 光陽は激しく首を横に振った。

「そんなわけないじゃん。わざわざお祝いにきてくれるなんて、嬉しいよ」

 奈々子は顔を綻ばせた。

「良かった。七時半までには着くようにします」

「わかった。俺もそのくらいの時間に帰れるようにするよ」


 マンション前で車を停める。奈々子は車を降りた。


「それじゃあ、また電話します。気をつけて帰ってください」

「うん。それじゃ、またね」




 自宅に帰った光陽は、部屋の掃除を少しだけして風呂に入った。

 ――光陽。

「何?」

 ――今日、奈々子を見て、何か気づかなかった?

 光陽は浴室の天井を眺め、今日の奈々子を振り返った。

「……いや、特に何も。いつもと同じだと思ったけど、何かあったのか?」

 ――あの子、私の服を着ていたのよ。

 光陽は奈々子の恰好を思い出す。

「……あれ、真由美の服なのか。全然気づかなかった。でも、あんなワンピース着てたことあったっけ?」

 ――見たことがなくて当然よ。あの服、私は一度も着たことがないんだもの。

「ん? どういうこと?」

 ――あの洋服はね、私たちが事故に遭った日に買った物なのよ。覚えてる?


 光陽は「あの日」に記憶を飛ばした。


「ああ……覚えてるよ。そうなのか……あの時の服なのか。奈々子ちゃん、思い出を大切にしてるんだな」

 ――…………。

「真由美?」

 ――うん、聞いてる。ねえ、あとで奈々子にメールしてあげなさいよ。

「メール? 何の?」

 ――今日の服とても似合ってたよ、とか。

「別にいいけど……。でも、今更メールするのって不自然じゃないか?」

 ――そんなことないわ。誉められたら、凄く喜ぶわ、あの子。

 少し気になる言い方だったが、深くは考えなかった。

「わかった。あとでメールするよ」

 風呂を上がると、ラーメン屋に出前を頼んでから、奈々子に送るメールを作成した。


《こんばんは。今日は遅刻して、ほんとにごめん。今度から気をつけます。

 ちょっと気づくのが遅れたけど、今日奈々子ちゃんが着てた服、真由美のだよね? 真由美はその服着られなかったけど、奈々子ちゃんとても似合ってたよ》


「こんな感じでいいかな?」

 ――悪くはないけど、ちょっと他人行儀な感じね。もう少し砕けた感じで書いてみなさいよ。

「砕けた感じって……いつもこんな感じだろ?」

 ――今日から少し変えるのよ。前から思ってたけど、あなたたちの言葉の遣い方って、ちょっと変なのよね。一言でいうと、ぎこちないの。

「ええ? そうか? 普通だろ?」

 ――まあまあ、いいから。今から私が言うとおりに文章を書いてみて。

「わかったよ……」

 光陽は言われるままに文章を書いていく。


《こんばんは。もうご飯食べたかな? 俺はさっき出前を頼んだんだけど、どうせなら奈々子ちゃんと一緒に食べれば良かったな。ひとりで食べるよりふたりで食べた方が美味しいしね。奈々子ちゃんとなら、特に。


 話変わるけど、今日お姉ちゃんの服着てたよね? ごめんね。俺は鈍いんで、いつも遅れて気づくんだ


 洋服、とても似合ってたよ。まあ奈々子ちゃんは美人だから、何を着ても似合うんだけどね。口に出して言ったことはないけど、奈々子ちゃんはファッションセンスが良いなあっていつも思ってる。


 訊き忘れたけど、来週の土日は休みなのかな? もし休みなら、来週もどこか遊びに行こう》


 完成した文章を読んで、光陽は苦笑した。


「これ、砕けすぎじゃないか?」

 ――どこが? これでも抑えた方よ。私との時は、もっと軽い言葉のやりとりだったじゃない。

「そりゃ、真由美とは恋人同士だからな」

 ――それにしたって、今まではちょっと堅かったのよ。ね、いいからそのまま送信してみなさいって。

「いいのかなあ……」


 光陽は苦笑いを浮かべたままメールを送信した。

 それから五分ほどして出前が届く。ラーメンと餃子とライス大盛りを平らげたあと、ソファに座ってテレビを観ている時に、奈々子から返信メールがきた。題名のところには、汗マークとごめんなさいマークの顔文字が付いていた。


《ごめんなさい。お風呂に入っていてお返事が遅れました。


 光陽さんの言うとおり、今日私が着ていたのは姉の洋服です。悪いかなとも思ったんですけど、ずっと箪笥の中に仕舞っておくのも可哀想だと思って着てみました。


 姉より似合うかはわかりませんけど、そんな風に言ってもらえると凄く嬉しいです。また着ていこうかな。

 男性にファッションセンスが良いなんて言われたの、初めてです。これからも自信を持って洋服を買えます!


 私も、ご飯は複数で食べた方が美味しく感じる派です。

 私と一緒にご飯を食べると美味しく感じるなんて言われたら、これからいつでも付き合わなくてはいけないですね。私も、光陽さんと一緒にご飯を食べていると、他の人と食べているよりも美味しく感じます。何かのスパイスが効いてるのかな?


 光陽さんが良いなら、また来週会いましょう。今日は奢られっ放しだったので、今度は私に奢らせてください。

 ぬいぐるみ、ありがとうございました。今夜はあの子と一緒に寝ます。


 P.S. 今日のメールはいつもと雰囲気が違いますね》


 奈々子のメールもまた、いつもとは少し雰囲気が違っていた。真由美も同じ感想を抱いたようだった。


 ――この文章を読んで、あの子が楽しそうに書いている姿が目に浮かぶわ。今までの他人行儀な感じから、フレンドリーな感じになった。良いことよ。ずっと私の言葉でやりとりしていたら奈々子に悪いから、今度からは光陽が思うままに書いてみて。もちろん、砕けた感じでね。


 真由美に伝えていたような軽い文章は簡単には書けず、苦心惨憺といった感じで光陽は文章を練り続けた。仕事で文章を作成するよりも、よっぽど難しかった。

 結局、それから三回メールのやりとりをし、奈々子の《おやすみなさい。良い夢を》というメールでこの日は終了となった。


 ――どう? こういう感じでやりとりした方が楽しいでしょう?

「真由美に送っていたような文章を書こうとして、逆に疲れたよ」

 ――慣れれば楽しくなるわよ。

「そりゃ、慣れればね」

 ――奈々子も同じよ。親しみのある文章や会話の方が楽しいと思ってるはず。そういう風にしたいけど、自分からはできない。そういう気持ちだったはずよ。

「奈々子ちゃんの表情を見て、そういう風に判断したのか?」

 ――表情だけじゃなくて、声の感じとか、仕草とか、全部を見ての判断。

「なるほどね……。さすがは女性の、いや、姉の洞察力というべきかな。俺と同じものを見ているのに、感じ方がまるで違う」

 ――会って話す時も、これからはもっとフレンドリーにしてね。

「了解」

 



 月曜日から土曜日まで、変哲のない一週間だった。今までの日々と同じ色、同じ匂い。でも、普通の日々を送れる人生は喜ぶべきことだ。光陽は、誰よりもそのことを知っている。いつもと変わらない日常こそが幸せなのだと。

 日曜日になると、奈々子とまた映画を観に行った。今度はホラーではなく、恋愛映画を観た。何をやってもダメな男が、これまた何をやってもダメな女と付き合い始め、紆余曲折を経て、ハッピーエンドで終わるという内容の映画。マイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという数学的映画だった。

 その日の夜は、奈々子の自宅近くにある居酒屋で飲んだ。この三年半のあいだ、夜遅くになってもまだ奈々子と一緒にいるということはほとんどなかったので、何だか変な気分だった。

 そして光陽の三十二回目の誕生日がやってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る