第二十二話 ふたりの距離1

 携帯の着信音で目を覚ます。光陽みつひろは意味不明な言葉を口にしながら、ナイトテーブルに置いていたスマホを手に取った。

 着信は奈々子からだった。応答の文字をスライドさせる。


「はい、もしもし」

 光陽は欠伸をしながら言葉を発した。

「おはようございます」

「うん……おはよう」

「もしかして、寝起きですか?」

「そうだけど、何で?」

 一拍置いたあと、

「今日、一緒に映画を観に行こうって約束、忘れてますよね?」

 

 その言葉で光陽の眠気は一気に吹き飛んだ。


「あっ! ごめん! 忘れてた! 今何時?」

「九時半です。マンションの前で、ずっと待ってるんですけど……」


 光陽は転がるようにしてベッドから出た。


「ほんとにごめん。今から即行で準備するから。だから、えっと、十時二十分までには行くよ」

「……二度寝しませんか?」

「しないしない。もうベッドを出たから。一回、家に戻っててよ。着いたら呼び鈴鳴らすから」

「わかりました。待ってます」


 光陽は電話を切ると、大急ぎで支度を始めた。顔を洗い、髭を剃り、髪をセットし、服を着替える。それらを五分で終わらせた。飛び出すように家を出て車に乗り込むと、荒い息のままアクセルを踏み込んだ。


 光陽の呼吸が落ち着いてきた頃、真由美の声が聞こえてくる。

 ――ごめんなさい。今日のこと、私も忘れてた。

「真由美が謝ることないよ。俺のせいだから。一昨日までは、きちんと覚えてたんだけどな。歳取って記憶力が低下したかな」

 そう言って光陽は軽く舌打ちした。


 快晴の日曜日だったが、運の良いことにあまりブレーキを踏まずに進むことができていた。二度目の約束の時間には何とか間に合いそうだ。


 ――約束したの、一週間前よね?

「え、うん、そうだな。先週の日曜日かな」

 ――あの子も、昨日の夜に確認の電話をくれればよかったのに。せめてメールでも。

「きっと仕事で急がしかったんだよ。ご飯奢って許してもらおう」

 ――そんなに怒ってないわよ。

「そうかな? そうだといいけど」

 ――あの子は怒りじゃなくて、別の感情を抱いたと思うわ。

「え、何? ごめん。今擦れ違った車がうるさくて聞き取れなかった。何て言ったの?」

 ――ううん。何でもない。ほら、急いで。




 奈々子宅の呼び鈴を押した時、時計の針は十時八分を指していた。自動ドアが開き、花柄のワンピースを着た奈々子が出てきた。

 目が合うと、ごめんと言って光陽は頭を下げた。真顔で光陽を見ていた奈々子は、ふっと笑い顔に変わって、そんなに怒ってませんよと言葉を返した。

「でも、ちょっとは怒ってるよね?」

「はい、少しは」

 奈々子は笑顔のまま首肯した。

 光陽は頭を掻きながら、

「今日は映画代も食事代も俺が持つよ。いや、奢らせてください」

「本来なら割り勘でいいですよと言うところですけど、光陽さんがそこまで言うのなら、奢ってもらうことにします」

「是非そうさせてください」


 車のところまでくると、光陽は助手席のドアを開けて奈々子をエスコートした。そんな粋な行為は、真由美相手でもほとんどしなかったのだが、身体は自然に動いていた。奈々子は照れ笑いを浮かべて車に乗り込んだ。


 この三年半のあいだ、ふたりは何度も顔を合わせていた。始めの一年間は、文字どおりただ顔を合わせて近況報告をするくらいのものだったが、最近は映画を観に行ったりご飯を食べに行ったりするようになっていた。


 姉を亡くした喪失感から、奈々子はまだ完全には脱し切れていないようだった。光陽の目にはそう映っていた。笑顔になる回数は増え、笑顔が持続する時間も伸びた。ただ、全体的に、真由美が生きていた頃の元気は、奈々子に戻っていないように見えていた。


 赤信号につかまった。光陽は助手席に座る奈々子に視線を向ける。

 奈々子は、姉が亡くなって以来、髪を伸ばし続けていた。三年半前は肩までしかなかった髪が、今では背中の中ほどまで伸びていた。真由美と同じ長さ。そこにどんな意味が含まれているのか、光陽は知らない。敢えて訊くこともしなかった。


「仕事の調子はどう?」

「それが、同僚がふたりいなくなったので、とても忙しいんです。本当は昨日、光陽さんに電話しようと思ったんです。確認のための電話を。だけど、仕事に追われてそのことを忘れてしまってました」

「そうなんだ……。何でふたりは辞めたの?」

「あ、辞めたわけではなくて、ふたりとも出産の準備に入ったんです」

「ああ、なるほど。他のところから手伝いに来てもらうことってできないの?」

「本来ならそうするんですけど、どこも忙しいみたいで。精神科医自体、そんなに数がいるわけではないですから」

「そうだよね……。ちなみにそのふたりは若いの?」

「ひとりは同い年で、もうひとりは二歳年下の人です」

「へえ。若いなあ。奈々子ちゃんも後に続かないとね」

「そうですね」

 奈々子は少し目を伏せて答えた。


 この日奈々子と観た映画は、世界じゅうでスマッシュヒットしているホラー映画だった。

 光陽はホラー映画が好きだが、真由美が苦手にしているのでずっと観ていなかった。だから、奈々子にこの映画を観ようと誘われた時、断ろうかとも思ったのだが、真由美が大丈夫、我慢するからと言うので誘いを受けることにした。


 映画は序盤から残酷な内容だった。女が生きたまま首をチェーンソーで切断され、老婆の目玉がスプーンで抉り取られ、男の性器が鋏で切り落とされていた。そんな場面が映し出される度に、奈々子を含めた女の悲鳴が方々で上がっていた。光陽の頭の中でも、真由美の悲鳴が断続的に上がっていた。

 映画を観終わると、映画館近くのうどん屋で遅目の昼食を取った。


「すいません、何度も叫んじゃって」

 奈々子は照れ笑いを浮かべている。

「ははは。いいよ。別に奈々子ちゃんだけが悲鳴上げてたわけじゃないから」

「男の人は、映画館で悲鳴を上げる女とかって迷惑じゃないんですかね? 静かに観たい人とかは特に」

「まあ、人によるだろうけど……映画館で悲鳴を上げる女はうるさいっていう意見を聞いたことがないから、みんなあんまりそんな風には思ってないんじゃないの。少なくとも、俺は何とも思わないけど」

「そうですか。そう言ってもらえると助かります。そんなに悲鳴上げて目を逸らすなら、観にこなけりゃいいじゃんって言われるかもしれませんけど、好きなんですよね、ああいう映画」

「映画館でみんなと一緒に観るのが楽しいって感じかな?」

「あ、そうです。みんなできゃあきゃあ言いながら観るホラー映画が好きなんです。……ただ、今日のはちょっと過激すぎでしたけど」

「確かに、今日のは過激だった」


 先に光陽がとろろうどんを食べ終えた。奈々子が食べ終えるまで、光陽は黙ってお茶を飲んだ。やがて奈々子も天麩羅うどんを食べ終え、ふたりは会話を再開させた。


「悲鳴と言えば、俺は映画では叫ばないけど、ジェットコースターを含めた絶叫マシンに乗ると大抵叫ぶよ」

 奈々子は意外そうな顔になって、

「え、そうなんですか? そんな風には見えないですけど」

 光陽は笑って、

「どんな風に見られてるのかわからないけど、真由美と乗った時はいつも絶叫してたよ。逆に真由美は叫ばないんだよ」

「姉は、ホラー映画はダメだけど、絶叫マシンとかは子供の頃から結構乗ってたんですよね。逆に私は、絶叫マシンは苦手なんです。頑張れば乗れますけど、そこまでして乗らなくてもいいやって思ってますから。と言っても、よく考えたら、最近全然遊園地に行ってないや。最後に行ったのはいつだったかな……四年くらい行ってないかも」

「ああ……俺もそのくらい行ってないよ」


 奈々子はテーブルの上に両手を載せると、ピアノを弾くように指を動かし始めた。彼女はピアノが弾けるのかなと思いながら指の動きを見ていると、

「じゃあ、今度行きませんか?」

 と、奈々子が訊いてきた。

「え、遊園地に?」

「はい」

「ああ……いいね。行こうか。でも、俺の絶叫するところを見ても嫌いにならないでね」

「そんなことで嫌いになったりしませんよ」

 奈々子は手を叩いて笑った。


 帰り道、ショッピングモールに寄って服を買った。いつもどおり真由美にコーディネートを頼もうと思ったのだが、好みは同じだから奈々子に見立ててもらいなさいと言われた。言われたとおり、光陽は奈々子に服を選んでもらった。確かに、真由美が選びそうな色合いとデザインの服を奈々子は選んだ。


 服屋を出たあと、玩具売り場に足を運んだ。

 売り場の一画を、真由美が生み出したキャラクターが占めていた。創造主の真由美が世界から消えてしまったあとでも、そのキャラクターを使った新作の玩具は次々に発売されていた。少し離れたところには、真由美が最後に企画したドールハウスも置かれていて、ふたりの女の子が楽しそうに眺めていた。


「あ、また新しく出たんですね」

 奈々子は、真由美が生み出したキャラクターのぬいぐるみを手に取った。

「それは言葉を話す新しいタイプのものだね」

「五千円か。買っておこう」

 スッと、光陽は奈々子の手からぬいぐるみを取った。

「俺がプレゼントするよ」

「え、悪いですよ」

「遅刻のお詫びにプレゼントさせてよ」

「……遅刻したことを、まだ気にしてるんですか? 私、ちょっと怒ってるって言いましたけど、ほんとは全然怒ってませんよ」

「それは良かった。でも、これは俺の気持ちだから。本当に申し訳ないと思ってるんだ」

「何だか、奢ってもらってばかりで悪いですね」

「気にしなくていいよ。五千円だもん。こう見えて、結構稼いでるんだよ」

 レジで支払いを済ませると、光陽は奈々子にぬいぐるみを手渡した。

「ありがとうございます」

 奈々子は子犬を撫でるような感じでぬいぐるみを触っていた。

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